鈴木邦男の愛国問答

 「あっ、本当に来てくれたんですね!」と思わず叫んだ。札幌からわざわざ三重県四日市まで来てくれたのだ。中島岳志さん(北海道大学准教授)が。それも、シンポジウムを聞くために。申し訳ない。僕はパネラーの一人だが、むしろ中島さんに替わってほしかったくらいだ。
 11月23日(土)、「四日市1970記念シンポジウム」が行われた。
 〈1970年 森田必勝が駆け抜けた時代 —あの時代を、いま語り継ぐ—〉
 これが、この日のテーマだ。1970年11月25日、三島由紀夫と共に自決した青年が森田必勝だ。「楯の会」学生長。25歳だった。森田氏は四日市出身だ。森田必勝氏を追悼し、語る会が行われたのだ。四日市では初めてだ。必勝氏のお兄さん、国際ジャーナリストの宮崎正弘氏、そして僕の3人によるシンポジウムが行われた。それを聞くためだけに、中島岳志さんが札幌から来てくれたのだ。
 三島由紀夫・森田必勝の二人を追悼する集まりは各地で行われている。11月25日には「憂国忌」、24日には「野分祭」。他にも東京、福岡などで追悼祭が行われ、墓前祭も行われている。合同して一つでやればいいのにと思うだろうが、いろんな事情があって、そうも出来ない。当時の民族派学生運動の事情に起因する。当時、民族派学生運動には大きくいって二つの団体があり、競い合っていた。日学同(日本学生同盟)と全国学協だ。全共闘が圧倒的に強い時は、両者は協力し合って、仲よくやっていた。その頃、三島由紀夫の「楯の会」も出来、日学同、全国学協の人たちも「楯の会」に入る。三者は仲よくやっていた。
 ところが70年近くなると、全共闘はほとんどなくなる。「大きな敵」を失った民族派学生運動は途端に対立し合い、中傷合戦をし、敵対する。「内ゲバ」だ。「楯の会」は、いわゆる「運動」ではないから、三島と共に超然としていた。しかし、日学同、全国学協は、各大学の自治会やサークルを取り合ったり、集会、デモでぶつかったりした。森田氏は初め日学同に入り、その後「楯の会」に入る。怒った日学同は森田氏を「除名」処分にする。僕は全国学協にいて、日学同とは対立していた。新宿の街頭で日学同と殴り合いしたこともある。又、自分たちの集会に三島に来てもらったことがある。そこに日学同が抗議に来た。排除しようと僕らは実力行使をした。派手な乱闘になった。三島の目の前でやったのだ。「こいつらはダメだ」と三島は思ったことだろう。
 両者の対立・激突は1970年以降も続いた。日学同系の人が中心になって「憂国忌」をやった。今もやっている。それに対し、「森田氏を除名しておきながら何だ」と反撥する人たちが別の追悼祭をやった。「野分祭」もその一つだ。そうした対立の図式は43年経った今も続いている。しかし、そこに集まる若い人たちは、そんなことは関係ない。「昔の活動家の思惑だけで喧嘩しないでほしい」と思っている。僕も反省している。何とか和解のキッカケはないものかと思っていた。それが43年目にしてやっと出来た。それが四日市の集会だ。これは森田必勝氏のお兄さん・森田治さんのおかげだ。
 キッカケは去年上映された若松孝二監督の映画『11・25自決の日—三島由紀夫と若者たち』だった。お兄さんは名古屋の映画館で見て、感動した。「弟のことをキチンと描いてくれている。初めてだ」と。それで僕に言った。「ぜひ若松監督にお会いしたい。お礼を言いたいし、いろんな話をしたい」と。若松監督も喜んでいた。「じゃ、一緒に四日市へ行こう」と言ってくれた。ところが直後、監督は亡くなられた。
 若松監督は来られなくなったが、「でも四日市で弟のことを語る集まりをやりたい」とお兄さんは言う。「だったら、憂国忌をやってる人たちにも来てもらったらどうですか」と僕に言った。多分、無理だと思ったが。しかし、宮崎氏たちは快諾してくれた。そして当日は、東京から30人もきてくれた。涙が出るほど嬉しかった。昔はあんなに喧嘩し、悪口を言ったりしたのに…。「憂国忌」系の人たち30人がバスで会場に駆けつけてくれた。懐かしい人々ばかりだ。そこに何と中島岳志さんがいたのだ。
 「あれっ、どうして?」と思った。「この集まりに来たいので、ネットで探したら、バスが出るというので、それに乗ってきました」と言う。30人は東京からバスで来たのかと思ったら違っていた。この日の朝、四日市で集合した。四日市駅から(チャーターしていた)バスに乗り、森田さんの自宅に行き、森田必勝氏のお墓参りをし、それから会場に着いたという。
 実は、中島さんとは11月13日(水)の夜、ラジオデイズの「月刊 中島新聞」で2時間、対談した。「三島事件について聞きたい」と言う。しかし、三島よりも森田必勝氏の話が中心だった。又、9月に亡くなった持丸博氏(「楯の会」初代学生長)の話をした。「この2人も煩悶青年ですね」と僕は言った。中島さんは、血盟団事件に参加した煩悶青年について実に詳しく書いている。又、安田財閥の安田善次郎を刺殺した朝日平吾についても、「煩悶青年」として書いている。時代を憂え、煩悶する青年として森田必勝、持丸博氏のことも関心を持っているという。「ぜひ書いて下さいよ」とお願いした。「23日に四日市で森田必勝氏を偲ぶ集まりがあるんでしょう、行きたいですね」と言う。でも、忙しい人だし、札幌からじゃ大変だ。とても無理だと思っていた。ところが、万難を排して来てくれたんだ。それに実家を訪ね、お墓参りまでしてくれた。お兄さんや、関係者に紹介した。集会では、「弟もきっと喜んでます」とお兄さんは言っていた。三島さんも若松監督も喜んでいるだろう。この集会は、当初40人か50人ほどかな、と思っていたら何と、200人近くの人が集まった。それも、「運動関係者」だけではなく、一般の人が多い。小学校や中学、高校の必勝氏の同級生もいる。「明るくて、後に歴史的人物になるとは思ってもみませんでした」と言う。お兄さんは教師をし、その後長く県議をしていた。その関係で、教師や議員さんも多く来てくれた。お兄さんの人徳だ。それに、必勝氏は、四日市の人々に愛されているんだと思った。
 必勝氏は海星中学、高校を出た。ここはカソリック系のミッションスクールだ。数年前、学校を見に言ったら教師が出てきて、学内を案内してくれた。我々が何者かも知らずに。きっと受験生の父親だと思ったのだろう。そんなことがよくあるのだろう。そして、「ご存知かどうかしりませんが、70年に三島由紀夫さんと一緒に自決した森田必勝さんはここの出身なんです」と言う。親しみをこめ、誇りを持って語る。ジーンとなった。嬉しかった。「僕は必勝氏と一緒に民族派学生運動をやってたんですよ」と言った。四日市の人々に愛されているんだと思った。
 若松映画で「森田必勝」役をやった満島真之介さんは撮影に入る前に、四日市を訪ね、森田さんの実家に行った。場所も知らず、予約もしないで。道を歩いてるおばさんに尋ねたら、「あっ、マサカツちゃん家ね」と言って、家まで案内してくれたという。初対面の満島さんを見て、お兄さんは驚いた。「弟が帰ってきた!」と思った。でも必勝氏は今、生きていたら60代後半だ。四日市のシンポジウムの時、そのことを聞いたら、お兄さんは「私にとって弟はずっと25才のままです」と言っていた。
 又、集会では宮崎正弘氏は学生時代の必勝氏のエピソードを披露してくれた。明るくて、いつもニコニコしていた。グチを言わずに、何事にも一生懸命だった。〈あの時代〉の雰囲気を伝えてくれた。僕も、必勝氏に教えられたことは多い。短い期間だったが、同じ時代を生きた。それが誇りだ。それが、その後の人生の指針にもなっていると思う。中島岳志さんにも、ぜひ必勝氏について書いてもらいたい。

 

  

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第139回 森田必勝氏追悼のシンポで中島岳志さんと会った」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    以前、愚安亭遊佐さんとの対談で、 森田必勝氏の死について〈運動に誘った僕らは普通に就職して働いているのに、なんで若い森田が死んだんだ、と〉罪悪感にさいなまれた、と語ってい た鈴木さん。鈴木さんの人生にも、大きな影響を与えた事件だったのでしょう。
    そして、札幌から四日市までやってきた! 中島岳志さんと鈴木さん、以前に〈新右翼×リベラル保守〜思想をめぐる討論〉と題して「マガ9」で対談いただいています。こちらもぜひ。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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