12月18日(日)午後3時から下北沢で、衝撃的な映画『愛の処刑』を見た。1960年に「榊山保」名義で地下出版された『愛の処刑』は、長く三島由紀夫の作品ではないかと言われ続けた。三島研究家の中でも、そうだと断定する人もいるし、否定する人もいる。1983年に、同性愛者向け雑誌『薔薇族』の編集長・伊藤文學がこの作品を映画化した。ただ「ゲイポルノ」というジャンルでの製作であったため、専門館での上映が中心で、一般の映画ファン、三島ファンには鑑賞の機会がほとんどなかった。
今回、やっと実現したのだ。その問題映画『愛の処刑』が上映される。そして、映画プロデュースをした伊藤文學さんも来てくれた。映画は1時間。その後、伊藤文學さんと僕とのトークだった。会場は超満員だった。会場といっても別に映画館ではない。下北沢にある書店「B&B」でやったのだ。何だ、「B&B」って? 漫才か? と思ったが、「年配の人は皆、そう言うんですよ」と書店の人に笑われた。「ツービート」や「B&B」という漫才の大ブームの時があったのだ。でも、この書店は漫才とは関係ない。「ブック・アンド・ビア」の略なんだそうだ。
トークする伊藤文學さんは、その世界では有名だ。僕も随分前から名前だけは知っていて、前に一度、会ったことがある。高須基仁さんの会に伊藤さんが呼ばれて来たのだ。あっ! あの伝説の伊藤氏か、と思って聞きに行った。それが3年前かな。
『愛の処刑』は果たして三島が書いたのか。僕も以前読んでみたが、分からなかった。ゲイポルノなんて三島が書くはずはないと思っていた。『愛の処刑』が書かれたのは、1960年だ。だが、映画化されたのは、そのずっと後の1983年だ。三島は亡くなっていたし、この映画を見ることはできなかった。伊藤文學という人がいなければ、これは映画にならなかった。そして、『愛の処刑』も、それほど話題にならなかったのではないかと思った。伊藤さんは、この小説は三島の作品だと確信して、映画を製作した。『愛の処刑』の挿し絵を描いた人や、本を作った人たちにも会っている。だから、間違いないのかもしれない。ただ、それでも僕は信じられなかった。でもこの日、映画『愛の処刑』を見て、「あっ、これは三島作品だな」と思った。原作も三島だろう。
1960年、三島は榊山保という名前で、この小説を書いたんだろう。これを基にして、さらに2・26事件などの「背景」を入れて、1966年に『憂国』を書いた。そして映画化した。この『憂国』は日本だけでなく、世界中で上映され、大評判になった。今でも見ると震えがくる。この約20年後に、映画『愛の処刑』が上映される。三島ファンでも、この映画を見た人はいない。専門館だけで行われたという。専門館というと、その気のある人だけが来る。映画を見ながら、男同士のカップルが愛し合っている。又、パートナーを探しに来る。とても落ち着いて映画など見ていられない。
プロデューサーは伊藤さんで、『薔薇族』が売れていたので、金の心配はなかったという。「かなり独裁的にやれたので、映画も作れたのだ」と言う。監督は、野上正義。あっ、この人も僕は会ったことがある。じゃ、詳しく話を聞いておけばよかった。もう亡くなったという。残念だ。
小説に忠実に映画は作られたという。中学の体育教師が主人公だ。その教え子の中学生に見届けられながら切腹する、という話だ。奇妙な話だが、映画を見ると説得力がある。この先生は悩んでいた。田所という生徒が悪さをし、その罰のために雨の中、外に立たせた。ところが田所が肺炎を起こし、死んでしまった。「あの先生は人を殺した」と噂が広がり、毎日苦しい思いをしていた。下宿でふて寝をしていた。そこに生徒・今林が来る。先生の見舞いに来たのかと思ったら、先生への糾弾だった。「先生が殺した。だから、田所君の死をつぐなうためにも、死ぬべきだ」と言う。普通なら「冗談じゃない、帰れ!」と追い返すだろう。ところが、その先生はずっとそのことを考え、自省の念を持っていた。だから、こう言う。「ああ、今林君、よく言ってくれた。俺は死ねばいいんだ」。それで、切腹は始まる。今林の用意してきた短刀で腹を切るのだ。中学生は傍にいて、「突き立てて!」「ダメ、もっと深く!」と声をかける。指図して、より完璧な切腹をさせるのだ。教師が完全に死んでから、この生徒も胸を短刀でついて自殺する。教師に折り重なって倒れる。心中だ。
〈美少年に命令されて、その目前で死ぬという幸福。俺は美少年から死を賜ったのだ。こんなに戦慄的な死に方があるのだろうか、そう隆吉は思った〉
隆吉というのは、体育教師だ。まさに三島美学だ。切腹に魅せられていたのだ。映画『憂国』のようだった。『愛の処刑』が書かれて、すぐ後に『憂国』は書かれている。そして映画化された。それから相当後に『愛の処刑』は映画化された。でも、映画『愛の処刑』を見て映画『憂国』は作られた。そんな錯覚すら覚える。
三島が自決をしたのは、1970年。それから10年以上もたって、この映画は作られた。「もし三島がこの映画を見たら、なんて言ったでしょうか」と伊藤さんは気にしていた。「そりゃ、喜びますよ、大喜びですよ。〈よくぞ作ってくれた!〉と言ったでしょう。そして、映画を見て、そこで〈実は『愛の処刑』を書いたのは俺だ〉と告白したでしょう」と言った。
伊藤さんからは、雑誌『薔薇族』の話を詳しく聞いた。これは時代を動かした雑誌だ。ゲイの本であったが、多くの文化人が書いていた。当然、編集長だった伊藤さんも、その方面の人と思っていた。ところが、まったくその気はなかったという。でも、伊藤さん以外の編集者は全員がそうだ。その中で、雑誌を作るのだから大変だっただろう。でも、第二書房の創立者であるお父さんの力もあり、かなり独裁的にやれたという。ゲイじゃなかったからこそ、客観的に、冷静に見ることもできた。だから、『愛の処刑』も独断で映画化できたのだと言う。じゃ、伊藤さんがいなかったら、この映画は出来なかった。見て驚いたが、映画としての完成度も高い。「ゲイポルノ」と決めつけられたが、むしろ、これは「切腹映画」だった。『憂国』と同じだ。
僕らは幸せにも見る機会を得たが、一般の人、三島ファンは見ることができない。ぜひ、一般の映画館でも上映してほしい。年末になって、こんな衝撃的な映画を見た。よかった。
では、皆さんも、いいお年を。
ストーリーはまさに衝撃的ですが、三島美学が映画ではどのように表現されているのか、一般上映をぜひ実現してほしいと思います。紹介されていた「B&B」は、ユニークなイベントを多数開催している書店。こういう場所がもっと増えるといいですね。
三島美学は、美しく死ぬことを目指すが、
私は、ゴキブリのように生き残ることを選ぶ。
ゴキブリのように生き残り、
ウイルスのように殺し尽くす。
公威ファンです。
原作を読みたいです。