鈴木邦男の愛国問答

 9月25日(日)、名古屋に行ってきた。河合塾の名物講師・牧野剛さんを偲び語る会に出たのだ。千種駅近くのホテル・メルパルク名古屋で行われた。300人ほどが参加した。河合塾の校舎でやろうとしたが、とても人が入らない。急遽、ホテルになったのだ。この日の「朝日新聞」(名古屋版)には大きくこの集まりのことが出ていた。〈「予備校に文化」足跡残し〉〈5月に他界、河合塾の名物講師・牧野剛さん〉。河合塾の名物講師として、全国の河合塾を飛び回って教えていた。

 朝日にはこう紹介されていた。
〈牧野さんは岐阜県恵那市出身で、入学した名古屋大では全共闘運動に参加した。1976年から河合塾の講師として、2011年に脳梗塞で倒れるまで現代文を教えた。活動は予備校にとどまらず、愛知万博開催に反対する市民運動に加わった。1995年には愛知県知事選に、2001年は名古屋市長選に立候補した〉

 予備校講師でありながら、市民運動家だった。他の予備校講師とも連帯し、集会やデモもやっていた。駿台予備学校講師の最首悟さんは、「牧野さんは予備校に文化を根付かせた」、「日陰者として扱われた浪人生のイメージを変えた」と言う。

〈「人生には回り道も、崖から落ちることもある。多様な人生を体現していく場としての予備校をエネルギッシュに展開した」と振り返る〉

 そうなんだ。僕も牧野さんに救われた一人だ。河合塾に入れてもらい、再起できた。予備校生を教えるだけでなく、職のない多くの大人たちを河合塾に入れ、仕事につかせ、救っている。牧野さんが入れた講師や職員、フェローなどは何百人もいるだろう。朝日は、さらにこう紹介する。

〈牧野さんは、全国の河合塾校舎を飛び回り、数百人を相手に講義した。80年代はビール缶を片手に教えたことも。高校中退者向けコースや大学の専門家を招いた研究所の創設にも力を入れた〉

 この専門家のセミナー、発表会には僕も誘われて行ったが、あまりに難しくて、さっぱり分からなかった。そんなところにも生徒を誘っていた。又、ここに書かれている高校中退者向けコースで僕は教えている。牧野さんと共に「現代文」と「読書ゼミ」を担当していた。朝日には、この「読書ゼミ」の写真も出ている。

〈高校中退者向けのコースで、寝そべって授業をする牧野剛さん。リラックスできるように畳敷きの教室になっている〉

 牧野さんと僕が一週交替で本を選び、生徒と一緒に読み、考える。僕は時局的な本が多かったが、牧野さんは現代文の先生なのに、理科系、数学系の本を選び、読んでいた。僕も全く知らない本が多く、とても勉強になった。

 牧野さんの授業は何度も見たことがあるが、とても熱気があった。500人ほどの大教室で、全生徒を自分にひきつけ、眠らせない。すごい力だ。昔はビールを飲みながら授業をやり、それが「名物」として週刊誌に出たこともある。さらに、授業が終わると「これからデモに行く」「選挙運動に行く」と言い、「興味があったら、ついてこい!」と言う。教室の生徒がゾロゾロとついていく。うわー! いいのかよ、こんなことをして。と思った。自分がデモに出る、又、選挙に出るだけではない。生徒も巻き込んでやる。今なら、とても出来ない。又、生徒を引き連れて、飲みに行くことも多かった。「何でもあり」だった。それだけ実力がある。生徒が集まるから許されたのだろう。

 僕は「朝まで生テレビ!」の大討論集会で知り合った。そのあと、河合塾の講演会に呼んでもらい、河合塾主催の「左右激突討論会」に呼ばれ、そして講師になる。河合塾は元全共闘の先生ばかりだと入った当初は思った。そんな人たちが元気がいいから、「仲間」と思ったようだ。不思議なもので、だからこそ僕のような右の人間も入れてくれたのだろう。たとえば学校の建学理念が日本的で、教師も保守的、右派的な人が多い学校がある。でも、そんな学校からは絶対に声がかからない。左翼と同じように、僕も異分子と思われているようだ。日本主義の純粋な理念だけで学校を守っていこうとしているのだろう。

 多分、「距離」がある方がいいのだろう。「考え」「立場」が違っても話し合える。それが一番いい。「皆、同じ立場のはずだ」という思い込みからは、対立・喧嘩しか生まれない。河合塾にしろ、他の予備校にしろ、元全共闘の先生たちが多い。だからこそ、「少しくらい右翼がいても構わない」と大きく構えている。僕もとても居心地がいい。そんな先生たちから教えられることはとても多い。又、河合塾の講師になった時、何よりも仙台にいる母親が喜んでくれた。母親が「生長の家」という宗教をやっていたのが元で、僕は「生長の家」の学生運動をやり、右派運動もやって、さらに、右翼過激派と言われるまでになった。何度も捕まったし、このままいけば、大事件を起こして刑務所に行くか、自殺か、殺されるか。そんな末期も見えていたのだろう。それが牧野先生のおかげで救われて「こちらの世界」へ戻ってきた、そう思ったようだ。牧野さんは、そんな人助けをずいぶんとしている。左翼過激派で何度も捕まり、長い間、刑務所に入っていた人も入れている。あるいは、「現代文」「小論文」の採点をする仕事を回していた。多くの人を救っていた。僕の母のように感謝していた人も多かったと思う。

 僕は本をかなり読んでいる方だと思っていたし、原稿も書いていた。「著述家」だと思っていた。ところが、牧野さんの前に出ると、まったく歯が立たない。牧野先生の生徒だ。「本の読み方」を教わったし、文章の書き方も基礎から教わった。僕は何も知らなかったのだ、と思った。学校で生徒に教えたよりも、他の先生たちに教えられた方が多い。地学や漢文、古文の授業などにも出たし、分からないところは質問した。漢文の先生に「個人教授」をしてもらい、それを基にして本を書いたこともある。「勉強する」ってこういうことなんだ、と教えられた。

 又、生徒から教えられたことも多い。初対面の生徒がこんなことを言った。「僕は大学を落ちて、よかったと思います。“ゴー宣”に出てくる鈴木さんに出会えたんですから」。驚いた。小林よしのりさんの「ゴーマニズム宣言」の熱烈な読者だ。そこに僕も何回か出てくる。その人にこうして会えた。それは「大学を落ちたからだ」と言う。普通なら「大学を落ちてよかった」なんで思わない。「大学に落ちてくやしかったけど、でも、いいこともあった」とは言うだろうが…。「落ちてよかった」と言える生徒に僕の方が驚き、感動した。

 そうか「落ちること」も「回り道」も必要なんだ。僕自身が予備校生のようだ。僕自身が「落ち」「回り道」をしてたんだ。そして予備校で救われた。その「救い」の運動の先頭に立っていたのが牧野さんだった。名古屋での偲ぶ会では、そのことを痛感し、僕も挨拶した。

 

  

※コメントは承認制です。
第207回僕を救った牧野さんを偲ぶ会」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    「『勉強する』ってこういうことなんだ」と言えるような体験を自分はしたことがあるだろうか、と思わず考えてしまいました。以前にマガ9でもインタビューした、10代の女性たちを支援する活動を続ける仁藤夢乃さんも、この予備校で信頼できる大人と出会って人生が変わったと話していました。多様な生き方をする大人の姿に触れることが、一番の学びなのかもしれません。

  2. 多賀恭一 より:

    ドイツ銀行の問題により世界恐慌になりそうだ。
    世界が激動へと加速している。
    まずは10月3日の株価だが・・・。

  3. 金原英二 より:

    32年前、牧野先生のゼミを受けた者です。
    いつも熱く、常に遠くを見ていた先生。
    浪人時代、喪失感の中をウロウロしていた自分。
    先生の独特の話し方、語り方、耳に残っています。

    山下洋輔さんの演奏が予備校の企画で行われ、仙台の河合塾
    の生徒であった自分は、珍しくウキウキしながらホールに行きました。その演奏会の前に牧野vs山下、、、という座談があり、とてもとても心に今も残っています。

    先生、ありがとうございます。
    ほんの少しの時間でも、共有できた事、大切にして行きます。
    ご冥福をお祈りいたします。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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