「疑わしい」というだけで20年間も刑務所に収監されていたのか。残酷な話だ。1995年、大阪市東住吉区の民家から火が出て、入浴中だった小学6年生の女児が死亡した。大阪府警は保険金目当てに自宅に放火し、娘を焼死させたとして殺人容疑などで母親の青木恵子さんと内縁の夫、朴龍晧さんを逮捕した。二人はいったん自白したが公判では無罪を主張した。しかし無期懲役が確定。二人は再審を請求していた。大阪高裁は先週、自然に発火した「具体的可能性がある」として、二人の再審開始を認めた。二人は刑の執行停止を受けて、10月26日(月)午後、和歌山と大分の刑務所から20年ぶりに釈放された。僕も、テレビでずっと見ていた。
青木さんは「やっと当たり前の世界に戻れた」と言い、朴さんは「嘘の自白は最大の後悔だ」と言っていた。釈放後、大阪市内で開かれた記者会見では「娘に『助けてあげられなくてごめんね』と語りかけた」と話した。服役先の和歌山刑務所から移動途中、現場となった自宅に寄り、娘の冥福を祈って花束を供えたという。「私は何もやっていないし無実です。早く無罪の人間となり、家族のために汚名をそそぎたい」と言った。
弁護団は一審から「朴さんの車からガソリンが漏れ、車庫に面した風呂釜の種火に引火した」と自然発火説を訴えた。実行犯とされた朴さんの自白通りに大量のガソリンに火をつければ、爆発・炎上して朴さん自身が大やけどを負うとの鑑定意見も出された。だが、裁判所は「自然発火は抽象的可能性にすぎない」と一蹴した。弁護団は執念をもって闘った。現場を忠実に再現し、「自然発火」が起こることを実証。さらに朴さんのワゴン車と同じ車種タイプで、給油キャップに欠陥があるとタンク内圧で給油口からガソリンが漏れ出すことがわかった。この再現実験もやり、「証拠」を提出した。これは釈放翌日の「産経新聞」(10月27日)に詳しく出ていた。
それらの証拠を前にして高裁は「火災は自白通りの放火ではなく、車のガソリン漏れからの自然発火である可能性が否定できない」と、さらにこう言った。「無罪の可能性が高くなっており、刑の執行を今後も続けるのは正義に反する」と。「正義に反する」と言ったのだ。勇気がある。しかし、20年は余りに長すぎる。釈放されて、「よかったね」では済まない。新聞やテレビでは取り調べの様子も少しずつ明らかにされている。
〈「めぐみちゃんは死んでいくときにママ、ママと叫んでたんと違うか」。捜査員は生前のめぐみさんの写真を示しながら青木さんに供述を迫った。高裁決定は「自白の採取過程に問題があった」と言及、虚偽自白の可能性をにじませた。〉(産経新聞・10月27日)
青木さんがテレビで言ってたことは、もっと衝撃的だった。「娘を助けられなかったということは、お前が殺したのも同じことだ」と捜査員は言ったという。青木さんはやってない。でも、自分がいたら…。自分は助けてあげられなかった…、と後悔の日々だ。そこに捜査員は土足で踏み込んできて、「そうだ。お前が殺したも同然だ!」と言うのだ。ひどい話だ。「助けられなかった」と母親として後悔し、道徳的な罪の意識に苦しんでいる母親に向かって「そうだ、お前のせいだ。だから認めろ!」と刑事罰を迫ってくる。人の心の傷、弱みにつけ込んで、「自白」させ、事件を「解決」しようとする。二人は余りに長い間、収監され、でも釈放された。他にも冤罪に苦しんでいる人が多いのだろう。
10月22日(木)、24日(土)の2日間、死刑に反対する集会に出た。「共に死刑を考える国際シンポジウム『いのちなきところ正義なし 2015』」だ。22日は衆議院第一議員会館、24日はイタリア文化会館で行われた。イタリアからも多くの人が来て証言していた。名張ぶどう酒事件の奥西さんが獄中で亡くなった。死刑が宣告されていたが、冤罪の可能性が高いといわれていた。さらに、恐ろしい報告もされていた。すでに執行された死刑囚のうち、無罪の可能性のある事件がいくつもあると。そうなると、無罪の人間を殺しているのだ。法務大臣も「殺人者」となる。
そんな怖い、危険性を抱えながら、でも日本では死刑を廃止できない。死刑を廃止したら、凶悪犯罪が増えると思っているのだ。死刑は「犯罪抑止力」になると思っている。しかし、そんなことはない。世界各国で死刑廃止して犯罪が増えたという国はない。日弁連のパンフレットによれば。
〈アメリカ合衆国では死刑廃止州よりも存置州の方が殺人事件の発生率が高いというデータがあります〉
そうか。国家の殺人行為(死刑)があるから、民間の殺人を呼び込むのかもしれない。さらに日本では世論調査で80%以上の人々が死刑に賛成している。死刑があるから日本の治安は守られている。そう考える人が多い。じゃ、フランスやフィリピンなど、死刑を廃止した国は、国民の圧倒的な多数の意志で決めたのか。どうも違うようだ。イギリスは1969年に死刑を廃止した(1965年に執行停止)。国民の圧倒的多数は死刑支持だ。その年、81%が死刑を支持していた。フランスは1981年死刑を廃止。1981年の時点で、62%が死刑支持だ。フィリピンは2006年に死刑廃止。1999年には80%が死刑支持派だった。それで、よく実行できたものだ。国民の80%が「支持派」なのに、国家としては「死刑を廃止」している。だから、今の日本だってやれるのだ。勇気のある首相と法相がいれば。いや、「国民の声を無視した!」「独裁だ!」「ファッショだ!」と言われるだろう。日弁連のパンフではこう言っている。
〈そもそも、死刑は生命を剥奪する刑罰であり、国家刑罰権に基づく重大かつ深刻な人権侵害であることに目を向けなければなりません。フランスをはじめ、世界の死刑廃止国の多くも世論調査の多数を待たずに死刑廃止に踏み切っています〉
そうなのか。どうも我々は「多数の意見」が正義であり、それに従うのが民主主義だと思っていた。しかし、それ以前に国家は国民の命を守るのが第一だ、と考えているのだ。
〈これは、各国政府が犯罪者といえども生命を奪うことは人権尊重の観点から許されないとの決意から廃止に踏み切ったことを示すものであり、基本的人権の尊重を国の基本理念とする国家にあっては、国民世論をその方向に導いていくという決意の表れであると評価できるものです〉
世論調査や多数決で人の命を奪ってはならない、ということだ。そうした基本を忘れてはならないだろう。
「自然発火の可能性がある」とわかるまでに、どうして20年もかかってしまったのでしょうか。失われた時間の責任を誰もとることはできません。死刑はその究極といえるものです。やはり冤罪といわれる袴田事件、狭山事件など、いずれもいまだに再審が開始されていませんが、その間にも貴重な時間が失われていきます。誰にとっても「人権」が保障される社会であるために、裁判や死刑制度はどうあるべきなのか…と考えてしまいました。
先週更新した「小石勝朗の法浪記」では、袴田事件の再審開始を阻むかのような検証実験について書かれています。こちらもあわせてご覧ください。
死刑は”修理(更生)して使うより代わりを連れて来る方が安い”という究極の使い捨て文化だと思う。ただ死刑を廃止しても犯罪が増えないから反対を押し切ってというのが日本にもあてはまるかは疑問だ。なぜなら日本人はいい大人でも「怖いおじさんに怒られるから」以上の良心や道徳心を持たない人間が多いと思うからだ。前の戦争でも欧米の兵士に比べ日本兵はPTSDになるものが少なく平然と殺人の体験談をしたという。それに日本人には<理を積み重ね真実を追究する><本人の意思によらない事は責めを負わせてはいけない>という考えが薄い。たとえ冤罪で死刑でも皆を納得させるためなら仕方がない、本人の運が悪い、とうっすら考えている気がする。(自分に当たらない限り)果たして選挙も村八分も恐れず「死刑を支持することは許さん」と言える絶対神のような怖いおじさんは日本にいるのだろうか?