湯沢中学校の同窓会に出た。新潟県に「湯沢町」があり有名だが、僕が行ったのは秋田県の「湯沢市」だ。小学4年から中学2年までの5年間をこの湯沢で過ごした。自分にとって「故郷」というと、この湯沢がまず思い浮かぶ。父親が税務署に勤めていたので、転勤が多かった。僕が生まれたのは福島県郡山市だが、その後、福島市、会津若松市と移り、さらに青森県の黒石市に移った。それから秋田県に行く。幼稚園と小学1年は横手市。2年と3年は秋田市。それから4年から中学2年までは湯沢市だ。
中学3年と高校は宮城県仙台市。そして早稲田大学に入り、ずっと東京暮らしだ。自分の経歴では「福島県出身」とか「宮城県出身」と書かれることが多いが、9年間過ごした秋田県が一番の故郷だと思っている。幼稚園から中学2年だし、ここで考え、学んだことが大きいと思う。
「故郷」についての思いは大杉栄と同じだな、と思う。大杉栄の父親は軍人で、転勤が多かった。5歳から15歳までの10年間は新潟県の新発田市にいた。少年時代、一番長くいたところだ。大杉は『自叙伝』で書いている。
〈僕も15までそこで育った。したがって僕の故郷というのはほとんどこの新発田であり、そして僕の思い出もほとんどこの新発田に始まるのだ〉
そして、いつも「新発田の自由な空を想った」と言う。そうか、子供時代は僕らもよく空を仰いでいた。仰向けになって、空を見、雲を見、空想や妄想にふけっていた。田舎の雲はぶ厚く、大きく、空を覆っていた。あの雲の上でも人々が住み、戦っているのだろう。と物語を作っては楽しんでいた。でも大人になってからは、空を見上げない。雲も見ない。時を忘れて、いつまでも雲を見ている暇がない。だから、感受性もなくなり、ものの考え方も潤いがなくなるのだろう。勿論、これは自分だけのことだ。これではいけない。そう思い、『大杉栄全集』(全12巻・ぱる出版)を買って、今、1巻から読み始めている。自由な大杉の思想を今、学び直している。湯沢市に向かう新幹線の中でも、ずっと大杉を読んでいた。
湯沢は秋田新幹線で大曲まで行き、そこから在来線だ。今回は台風で遅れているので、早く着くために山形新幹線に乗って、新庄から乗り換えて湯沢に行った。在来線に乗った途端「おっ、クニオでねが!」「この前、テレビ見だぞ」…と声をかけられた。一輌まるごと同窓会の貸切状態だった。午後2時前に湯沢に着く。3時半にバスが出るので、中学校の跡や我が家のあったところを見てくる。懐かしい。
3時半、バス3台に分乗して、会場の「秋の宮山荘」に向かう。山の中だ。大きな杉の木ばかりだ。大自然の中で、空気はいいし、こんな贅沢なことはない。と今なら思う。でも子どもの頃は、その宝に気づかなかった。こんな田舎は嫌だ。俺はタヌキや狐じゃない。人間の住む都会に行きたい! と思った。愚かだったと思う。夜6時から同窓会は始まった。「昭和33年度湯沢中学校卒業生同期会」と書かれている。もう57年も前か。僕は中学2年までいて、仙台に転校した。だから、本当は「卒業生」ではない。でも、そんな僕でも入れてくれる。「途中で転校したげど、いいべー。じゃ、9組に入れ」と言ってくれる。9クラスもあったんだ。1クラスは50人もいる。1学年で450人だ。そのうち、85人がこの同期会に出席した。多いほうだ。450人のうち亡くなったのは1割ほどだ。はじめに、同期会会長の奈良氏が挨拶していた。
「僕らが中学生の頃は本当に貧しかった。教科書はお兄さん、お姉さんの使ったものをもらっていた。服もお兄さん、お姉さんのお下がりだった。食事も貧しかった。遊ぶところもなかった。本当に貧しかった。でも、その貧しさを〈不幸〉だとは誰も思わなかった」
それが当たり前だと思っていたからだ。テレビもなかったから、比べるものもないし。「不幸」という言葉も知らなかった。中学卒業後、集団就職で東京に行った人も多い。そして、たくましく生きてきた。高校に行った人は5割もいなかったという。大学に行った人は1割もいない。教育の面でも貧しかった。「でも、それで皆、元気に、たくましく生きられたのかもしれない」と奈良氏は言う。都会では、大学に入り、学生運動に巻き込まれ、傷ついたり、亡くなった人が多く出た。湯沢の中学卒業生には、それがない。大学に行ったのは1割弱だし、デモに出た人はいても、学生運動にのめり込んだ人はいない。
実をいうと、この同窓会は3年前もやった。70歳の古稀の前にやった。「次は77歳の喜寿だ」と言っていたが、「それまで辿りつけない人もいるから」ということで今年も開かれたのだ。それと今年は「戦後70年」だ。偉そうに安保法制や改憲や日本の将来を論議する人はいない。でも、貧しくても不幸と思わず、頑張って生きてきた人たちだ。この人たちこそが「戦後70年」を支えてきたのだ。「だから、元気で生きていきましょう。もうひと回りは生きましょう。12年後、84歳までは生きましょう」と奈良氏は言って乾杯していた。皆、「んだ、んだ」と同意して飲んでいた。「異議ナシ!」と言う人はいない。学生運動出身者がいない同窓会は静かでいい。と思った。
転校したにもかかわらず同窓会に呼んでくれるというエピソードからも、同窓生の方たちのあたたかさが感じられるようです。この夏の国会などでの騒動を経て、故郷の景色は鈴木さんの目にはどんな風に映ったのでしょうか。