「この映画は2回見る必要はないんです。1回でいい。だけど1回見て事実はこうだと知ってほしい」と監督は言っていた。14年前、この映画が公開された時だ。「残酷すぎる」「自虐的だ」「暗すぎる」と酷評する人が多く、それに対し監督が答えたのだ。映画のタイトルからして凄い。衝撃的だ。『リーベンクイズ(日本鬼子)日中15年戦争・元皇軍兵士の告白』だ。監督は松井稔さん。2000年に公開された。
「リーベンクイズ」という言葉は初めて聞いた。映画のチラシにはこう書かれていた。〈リーベンクイズとは、「日本鬼子」の中国語読みで、蛮行を重ねた日本兵たちへ向けた言葉であり、最大の蔑称である〉。さらにこうも書かれている。
〈強姦、試し斬り、非道な拷問、井戸に落とした母子めがけて手榴弾を投げ込み爆殺、七三一部隊による生体実験、中国人を使った人間地雷探知機、人肉食、細菌化学兵器……。あらゆる加虐行為を「実際の戦争を伝えたい」という痛切な思いで加害者(元日本軍兵士14人)自らが勇気をもって告白する。この国の未来を占う上でこの映画を避けては通れない!〉
「避けては通れない」と言っても、とても見る気にはならなかった。ところが、「松井監督と対談しませんか。それを映画のパンフレットに載せたいのです」と言われた。「何で僕が?」と思った。もしかしたら、大喧嘩になるかもしれない。「何だ、この自虐映画は!」「許せん!」と、乱闘になるかもしれない。とても映画パンフレットにはならない。でも、そんな危険をおかしてでも僕を引っぱり出したいのか。その「勇気」に応えなくては、と思った。考えてみたら、こっちだって危ない。たとえ激論になったとしても、この映画の監督と対談しただけで、右翼の仲間たちからは批判、罵倒されるだろう。「自虐映画の宣伝に利用された!」「やっぱり鈴木は反日だ!」……と。下手したら、襲撃されるかもしれない。殺されるかもしれない。でも、映画を作った人たちは命をかけている。証言した14人も、「これで殺されてもいい」と覚悟を決めているのだろう。僕だけが逃げることは許されない。えーい、どうとでもなれ。と思って引き受けた。監督との対談の前に映画を見た。試写会場だった。愕然とした。ここまでやるのか、と思った。元皇軍兵士たちが出てきて、淡々と話す。自らが行った犯罪の数々を語る。殺人、強姦、人肉食、拷問……と。それが2時間半も続く。見てるこっちが拷問されているようだ。「やめてくれ!」と叫びそうになった。
頭が混乱した。パニックになった。これを見て何を語ればいいのだろう。頭の整理がつかないまま、松井監督と対談した。「刺激が強すぎましたかね」と監督は労ってくれた。残酷きわまりない証言だ。ただ、嘘や噂話は絶対に入れないようにした、と言う。〈真実〉を伝えるのが目的だ。決してプロパガンダの映画ではない。そのストイックな覚悟は持っていると言う。
「ご自分でやったことだけを具体的に話してもらった」と言う。「自分が知ってる隣の中隊ではこうやって人を殺したとか、噂話の類いは一切いらないと。もう一つは、今あの時のことをどう思うとか、そういうものはいらないからと言いました」
ウーン、それも凄い。なかなか、そこまで徹底できない。噂話や伝聞も、「本人が実際に聞いたことだろう」「きっと本当だろう」と、入れてしまう。自分の悪業を懺悔してるんだ。嘘はないだろう……と。チェックが甘くなる。監督はそのことを警戒した。「それに、カメラを向けると人は、“演技”するんです」とも言う。「こんなことを聞きたいのか」と察して、喋る。喋っているうちに話が逸脱する。大きくなる。「それは今のテレビの激論番組でもあるでしょう」と言う。確かにある。討論番組に出ていて、話が進まなかったり、ダラけてくると、「何とか盛り上げなくては!」と思ってしまう。だから突然、怒鳴り出したり、大声をあげる人も出る。「このままでは見てる人もつまらないだろう。盛り上げなくては」と思うのだ。誰に言われた訳でもなく、そう思う。演技ではないが、盛り上げる役を買って出てしまうのだ。
戦争体験でもそうだ。酷い、残虐な話ばかりしていても、喋っている方は、「もっと言わなくちゃ」「これじゃ面白くないのかな」と「客の反応」を気にするのだ。カメラを向けると「演技する」と監督が言ったのも分かる。
撮影は、松井さんの事務所や、外でやることが多かったという。「家では子や孫もいるのに強姦がどうのって話は嫌ですからね」と監督は言う。そうだろう。でも、14人は顔を出し、名前も出しているのだ。映画だから、これからもずっと残る。それだけの勇気がよくあったものだ。少数だが、自宅で撮影した人もいる。元兵士は淡々と語っている。殺人を。強姦を。放火を……。その時、カメラがちょっと横にズレた。後ろのフスマのかげから奥さんがチラリと顔を出して、心配そうにのぞいている。その瞬間をカメラはとらえたのだ。「あれは偶然ですけどね。『またお父さん余計なこと言わないかな』という感じなんでしょうね」と監督は言う。よく撮れたもんだ。最も衝撃的なシーンかもしれない。戦争の残酷さが伝わった。
もうこの映画は見ることはないだろう。監督だって「二度見る必要はありません」と言ってたし。ところが、この映画が何とDVDになるという。14年も経った今になって。今年の11月7日発売だ。監督と僕の対談も入るという。「その発売に合わせて、又、松井監督と対談してほしい」と言われた。14年ぶりだ。会いたい。又、朝日新聞の誤報事件にからめて、戦争犯罪の報道についても話してみたい。又、この日は、『ゆきゆきて、神軍』の監督、原一男さんも出るという。楽しみだ。それで、DVDを送ってもらった。14年前だから忘れているし、「もう二度と見ることはない」と思っていたのに、見た。後悔した。刺激が強すぎた。「二度と見る必要はありません」と監督に言われていたのに、見たからだ。又もや頭が混乱した。パニックになった。松井監督、原監督とのトークは、11月5日、新宿のネイキッドロフトだ。頭の整理のつかないまま、又もや対談をする。一体、どうなるんだろう。
『リーベンクイズ/日本鬼子』は、満州事変から敗戦まで中国大陸にいた元「皇軍兵士」14人を松井監督が全国各地に訪ねて、インタビューを撮影したドキュメンタリー作品。年を重ねた兵士たちの穏やかな表情と、その口から語られる壮絶な事実とのギャップに、「戦争」というものの本質を思わされます。たしかに見ていて「つらい」映画ではあるけれど、今改めて見る意味は大きいのではないでしょうか。
『日本鬼子』は見ていないが、その監督である松井稔氏の寄稿「映画『日本鬼子』と中帰連」(興味ある方はググって下さい)をネットで読んだ。
読んでいて、自虐というより他罰的、過去から何も学ばす、のうのうと自民党を支持し続ける日本人を罰しようとする意志を強く感じた。
とはいえそのような他罰的な表現が日本人に罪悪感を持たせ続け、生理的な反戦傾向を維持し続けられるとは、私には思えない。
『日本鬼子』のような表現をするのは自由だと私は思う。 しかし「平和主義」という目的を達する為には、他罰的表現はむしろ逆効果ではないのか?
何故なら、今後の日本は「北朝鮮」や「イスラム国」の悪業と対峙しなければならない。
他罰的表現からは、自らの悪行と同様に、彼らを断罪するという結論しか学べない。
21世紀の日本に求められるのは、他者の悪にどう対峙すればよいのかという表現ではないのか?
こういう作品が「自虐的」と批難されるのは、
「皇軍兵士」だけを取り上げるからだ。
アメリカ兵は?
イギリス兵は?ドイツ兵は?ソビエト兵は?
中国国民党軍は?人民解放軍は?
日本軍内にいた朝鮮半島出身者は?
朝日新聞も含めて、今メディアに問われているのは、
「意図的に報道していない事実」を報道しなければいけないということだ。
「嘘は報道していない」では、もはや信用されないのだ。
12年前に観たときに綴った拙日誌(http://www7b.biglobe.ne.jp/~magarinin/2002j/12.htm)にも記したのですが、長らく映画というものを観てきたなかで観賞中に頭痛に見舞われたのは、後にも先にもこの作品だけです。それだけ強烈でした。そして、いろいろなことを思いました。
公開当時以上に、いまDVD化されることに意味があると思います。
もはや軍隊ではなく犯罪集団だったのではないか。私は全く関係ないし、あのようなことは一切したくない。した人たちは罪をつぐなうべき。