鈴木邦男の愛国問答

 「過ちがあったなら、訂正するのは当然」「過ちを訂正するなら謝罪をするべきではないか」。朝日の誤報事件について池上彰さんはそう言った。これこそ当然の話だ。ものを書く人は誰だって心がけていることだ。マスコミで働く人も、ミニコミをやってる人も、そしてフリーで書いてる人も。そのほとんどの人が「訂正・謝罪」の体験はあるだろう。僕もある。何十回とある。
 ところが大マスコミの朝日新聞は、「訂正」はしたが、「謝罪」はしなかった。おかしいではないかと池上さんは自分の連載コラムで書いたら、掲載拒否された。朝日もパニックに陥っていたのだろう。誤報事件では他のマスコミから猛烈な批判を浴びた。「朝日は廃刊にしろ!」というデモもやられた。不買運動も起こされた。脅迫の手紙やメールも殺到した。それで被害妄想になり、パニックになったのだろう。池上さんの「忠告」すらも「誹謗中傷」と思い、掲載を拒否した。冷静な判断能力を失っていたようだ。
 しかし、事態は沈静化しないし、悪化するばかりだ。購読者が減る、広告のスポンサーが降りる、という事態もあったようだ。これは大変だ、と思った。又、「マスコミの使命」にも気づいた。ハッと気がついた。池上さんの言う通りだ、と思い直したのだろう。だから一転、池上さんに謝罪し、ボツにした原稿を載せた。
 さらに思い切った手に出た。9月11日(木)、夜7時半から朝日の木村社長が緊急記者会見を開き、正式に謝罪した。原発事故の「吉田調書」に関し、「命令に違反し撤退」と書いた朝日の記事を取り消し謝罪した。杉浦取締役の編集担当の職を解き、自らの進退についても言及した。改革と再生に向けた道筋をつけた上で進退を決めると。又、慰安婦をめぐる記事では誤報だと訂正しながら謝罪はなかったが、この席で正式に謝罪した。又、池上さんの件についても謝罪した。
 この大事件の時、ちょうど僕は六本木のテレビ朝日にいた。同じ系列だし、大騒ぎだった。歴史的大事件に立ち会った、という感じだった。この日、BS朝日の「激論!クロスファイア」に出演するために来ていたのだ。テーマは勿論、朝日の誤報問題だ。なぜ、この問題は起き、なぜ素直に謝罪できなかったのか。それがテーマだ。「マスコミの使命」を忘れ、「運動家の立場」に立ったからだろうと僕は思った。打ち合わせの時に僕はそう言った。30年前、慰安婦報道をした時は吉田清治氏の「慰安婦狩りをした」という証言も、少し誇張があるのでは、本当かな、と思った記者もいたはずだ。記事発表以後、他のマスコミから批判された時も、きちんと検証しようという人もいたはずだ。しかしやらなかった。又、訂正した後になっても謝罪はなかった。
 なぜなのか。「ここで謝ったら、“朝日の言ってることは全て嘘だ”、“慰安婦なんか全てなかった”と言われるのではないか」という不安だった。今の右傾化の中で、「あの戦争は正しかった。日本は恥ずべきことは何もしていない」という方向に行くのではないか、そのことを心配したのではないか。自分の社がどんなに批判されてもいい。でも、「慰安婦はなかった」、「南京大虐殺もなかった」となったら大変だ。政府は集団的自衛権を認め、次は改憲しようとしている。我々の「謝罪」がこの右傾化をさらに進めることになるのでは……。「右傾化」に利用されるのではないか。そう思い、心配したのだ。だから、苦しくても、ここで踏みとどまらなくては……。と思ったのだろう。
 でもこれは間違っていた。左右両翼・市民運動家の理屈だ。マスコミならば、その結果がどう利用されようとも、まず真摯に訂正・謝罪すべきだろう、と思う。それに、なぜ原発や慰安婦について、あんな誤報が生まれたか、その原因を究明すべきだ。記事を書く上で、「期待」や「運動家的使命感」があったのではないか。これはマスコミが最も注意しなければならないことだ。原発はやめるべきだ。これは正義だと思う。だから、「吉田調書」を読んだ時も、自分なりに都合のいい部分を書き出し、強調した。又、慰安婦報道の時も、「日本はひどいことをしたのだ。この証言は100%は検証してないが、きっとやったのだろう」という思い込みがあったのだろう。戦争中の日本の悪行を告発するのは当然であり、少々誇張があってもいいだろう、という「時代の空気」に乗った部分もあったのではないか。そんな話も「打ち合わせ」の時にした。一緒に番組に出演する田原総一朗さん、早野透さん、村上祐子アナも、「それはあるでしょうね」と言っていた。
 「原因やこれからの提言については番組の後半でやりましょう。前半は、徹底的に朝日に対し批判してもらいたい。タブーはありません。何を言ってもいいです」と田原さんが強調する。その時だった。スタッフが入ってきて、「今、社長の緊急記者会見が始まりました」。エッ! と驚き、別室でその会見を見た。だから「激論!クロスファイア」は、かなり時間が遅れてからスタートした。この日は収録で、13日(土)に放送された。
 大変なテレビ出演だった。こんなことは初めてだ。田原さんやスタッフも大変だった。討論の内容も進行も、急遽変えた。そして、最初に予定していた「後半」の内容を中心に話をした。なぜこんな誤報が生まれたのか。「時代の空気」について。さらに、自らの信じる「正義感」や「使命感」の危険性。又、誤りが起こったら、どう訂正し、謝罪すべきか。そんな話をした。又、慰安婦200人を強制連行したと証言した吉田清治氏の嘘をなぜ見破れなかったのか。吉田氏は、自らの犯行を懺悔する証人というよりは、「運動家」だ。どんな誇張をしても日本の戦争犯罪を告発するという「使命感」を持った「運動家」だ。時代の空気に染まり、その「正義感」、「使命感」にも共鳴した一般の新聞記者には吉田氏の嘘が見抜けなかったのか。あるいは「おかしい」、「オーバーだ」と思っても、日本の戦争犯罪をあばく為ならばこの位の誇張はいいだろうと思ったのか。
 「そんなのは田原さんが取材してくれればよかったのに」と僕は言った。それは、ないものねだりだが。田原さんなら、右翼、左翼、市民運動家など多くの人を取材している。又、イラク、北朝鮮まで行って取材している。「あっ、これは運動家特有のハッタリだな」、「これはオーバーだ」、「これは嘘だ」と分かるだろう。又、その為の裏付け取材もする。当時は、そんなことをやる記者もいなかったのか。暗澹たる思いがした。多くの教訓を与えた事件だ。僕らだって他人事ではないと思った。

 

  

※コメントは承認制です。
第159回 朝日新聞は、
なぜ素直に謝罪できなかったのか
」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    謝罪が遅れた朝日新聞の姿勢は、批判をうけても仕方がありませんし、誤報の経緯やその後の対応については検証されるべきだと思います。
    その一方で、いま起こっている「朝日バッシング」にも、大きな違和感が。「吉田証言」の件では、一つの証言が撤回されただけにもかかわらず、まるで従軍慰安婦問題そのものが「なかった」ということになったかのように、問題をすり替えた発言も見られます。一時的なバッシングに流されることなく、何が本質的な問題なのかを冷静に見つめる目が求められています。

  2. ピースメーカー より:

     今回の鈴木邦男さんの寄稿について、100%賛同します。
     そして鈴木さんの交友関係をフルに活用し、なおかつソフトな語り口で朝日虚報問題の本質に迫る文章は、鈴木さんならではの才能であり、他の人にはマネができないものだと思います。
     さて、今回の問題のケリのつけ方の一つは、池上彰さんが保留にしている朝日新聞での連載コラム『新聞ななめ読み』を、今後も継続しようと思わせるだけの謝罪と反省の意思を示せるかということでしょう。
     「(アルベルト・)モラヴィアはいう。自分の作品が、芸術的に下手である、といわれるのならわかる。それも、検閲する人々に、そういう方面をわかる感覚の持ち主がいて、その人たちによって自分の作品が反対されるのならば、まだ我慢できる。ところがそうではない。委員たちのほとんどは、文学的才能もないくせに文学をこころざしたことがある人であり、しかも、その世界では成功できなくて、現在は中学の教師でもしている人々なのだ。彼らが、自分の作品にケチをつけてくる。彼らの月並みな頭で判断して、ケチをつけてくる。これにはなんとしても我慢がならなかったのだそうだ。
     まあ、全体主義とは、右のファシズムにかぎらず左でも、このようなものである。諸事全体にわたって、このようなものである。私も、悪人であっても能力のある者に支配されるのならば我慢もするが、善人であっても、アホに支配されるのは、考えるだけでも肌にあわが立つ。」
     以上は作家の塩野七生さんの著書『サイレント・マイノリティ』からの引用ですが、自身の(他者からは「普通にわかりやすくてまっとうな指摘」と評価される)「表現」に相応の自負をもち、なおかつ契約時には「好きに書いていい」という契約を結んだにもかかわらず、一度はなんの躊躇いもなく不掲載にされたのですから、池上さんはファシズム政体下のモラヴィアと同様の心境となり、朝日新聞社に不信感を募らせたのは想像に難くないでしょう。
     故に、そのような「難敵」となった池上さんの心をどのようにほぐすのか、「謝罪と反省」後の朝日新聞社の力量が問われているのです。
     もうひとつは、塩野七生さんが今月発売の『文藝春秋』で寄稿されていた、「それは、(朝日新聞社だけでなく、旧自民党議員など)関係者全員の国会への招致だ。そして、そこでの展開のすべては公表し、国会中継と同じやり方でテレビでも放映する。」という手法です。
     塩野さんの寄稿は「従軍慰安婦問題」についてのものだったのですが、それに「吉田調書問題」も加わったので、さらにやる価値は出てきたのではないでしょうか?
     塩野さんのこの意見に反対するのならば、「言論を使って生きている以上、刑事上の責任は問われない場合でも、道義上の責任まで逃れることは許されないのである。」という塩野さんの指摘にどう反論するのかを問われることでしょう。

     さて、マガジン9の編集者さまからのコメントで「何が本質的な問題なのかを冷静に見つめる目が求められています。」と指摘されておりますが、その答えの一つとして、前回紹介しました朴裕河さんがハフィントンポストに寄稿された『それでも慰安婦問題を解決しなければいけない理由』を紹介しておきます。
    http://www.huffingtonpost.jp/park-yuha/korea-comfort-women-issue_b_5782226.html?1410258142
     慰安婦問題に固執し、なおかつ朴さんの寄稿を読まれた方々に、「従軍慰安婦問題の解決は我々になにをもたらすのか?」ということを今一度問い直す討論をすることが、「本質」に迫るひとつのアプローチになるのではないでしょうか?

  3. 多賀恭一 より:

    朝日バッシングは表面的には、日本の右傾化の表れと解釈されているが、
    本質は違う。
    本件のような誤報と隠しと開き直りは、古いマスメディアすべてに共通するものだ。
    インターネットの普及が、
    古いマスメディアの縮小を要求しているのだ。
    朝日新聞の次は読売か?産経か?日経か?
    新聞だけではない、テレビも同様だ。
    時代は古い時代の間違っていた部分を縮小させながら進んでいく。

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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