鈴木邦男の愛国問答

 自分では、昔からボーッとしていた子供で、そのままボーッと大人になったような気がする。でも、昔の仲間たちに聞くと、「鈴木さんは昔は怖かった」「よく、いじめられた」「敵だけでなく味方もよく殴っていた」…と言われる。そんなことはないだろうと思うが、「いや、怖かった」「過激だった」と言われる。
 1月18日(土)岡山に行った。「一水会岡山支部結成30周年大会」に行ったのだ。午後6時から岡山市民会館だ。人が集まるのかな、と心配したが、会場は満員。200人近くが集まった。木村三浩・一水会代表と僕が記念講演をした。一水会そのものは1972年に出来た。それから全国で一水会に入る人や、支部をつくるところも出てきた。岡山支部は活発で、今年で30周年だ。
 大会では初めに、「岡山支部30年の歩み」がスライドで写し出される。僕は1972年から1999年まで一水会代表だった。だから岡山にもよく来た。一水会の過激なデモや集会の様子も写し出される。ヘルメット、角材を持ってデモをしてた時もある。全く、新左翼と同じだ。又、茨城で「武闘訓練」の合宿をやったり。軍服姿でイラクに乗り込んだり。僕も何度も捕まっている。あの頃は凄かったな、と思った。
 「“革命マシーンになれ”と言われました」という人もいる。確かに、そんなハッパをかけたようだ。これは覚えている。30年前、岡山支部が出来た頃は一番、過激に闘っていた。新聞を出し、地方に行き、少しでも関心があり、知り合った人はオルグ(勧誘)した。一つの県に一人でも二人でもいると「支部」を作らせ、それでさらに人を集める。そういうやり口が中心だった。でも岡山は違っていた。元々、「憂国青年連盟」という活発な右翼団体があった。そこを丸ごと吸収し、「一水会岡山支部」にしたのだ。まるで、任侠の世界じゃないか、と思われるかもしれないが、違う。名前はイカツイが、ほとんどが大学生だった。その人たちが、知り合って意気投合したのだ。それで向こうの方から「自分たちの団体を解散して一水会に合流します」と言ってくれたんだ。他にもそんなケースがあった。
 「岡山空港建設反対!」とか、「山紫水明の自然を守れ!」とノボリを立てて、闘っている。中央に負けないくらい、反体制的な運動をしていた。岡山は昔から右翼団体が多く、活発に動いていた。戦前から運動をしている先輩たちも多い。だから、岡山では、そうした人々の「全国大会」がよく開かれていた。終戦直後は、クーデター未遂事件もあった。
 又、50年ほど前だが、岡山県奈義町で「憲法復元改正」の決議がなされた。今の憲法は占領中にアメリカに押しつけられたものだ。ニセモノだ。日本には明治憲法(大日本帝国憲法)がある。そこに戻って、改正するなら、そこを改正すればいい。というものだ。
 その「明治憲法復元改正」を叫ぶ人がいて、町議会選挙にも何人か出て「憲法」については多数派になった。そして、奈義町の町議会で、何と、通ってしまったのだ。そのことを僕らは東京の新聞で知った。「こんなことが起こるのか?」と思った。又、瀬戸内海の小さな島「直島(なおしま)」には、僕らの同志が何人かいた。そして町長は三宅さんといって、我々の先輩なのだ。30年前に行った時は、全く何もない島だった。ところが三宅町長らの尽力で、大きく変わった。ベネッセと協力し、美術館、ホテルなどが建った。今では、すっかり「アートな島」になっている。岡山の大会の翌日、行ってみたが驚いた。こんなに立派に、きれいになるとは思わなかった。
 では、18日(土)の大会の話に戻る。この日は、岡山の仲間、一般の人たちの他に、警察やマスコミの人が外には多く来ていた。そういえば、4時半に岡山駅で皆と待ち合わせたのだが、木村氏が降りてくる時、テレビカメラをかかえた人や、新聞記者などもゾロゾロと一緒におりてくる。聞くと、東京からずっとついてきたとのこと。
 この日の朝、「猪瀬問題」で新たな事実が分かり、木村氏に取材が殺到したのだ。「自分は悪いことはしていない。友人として猪瀬氏を徳田氏に紹介しただけだ」「猪瀬氏からお金をかりたのは事実だが、それは仲介料ではない。キチンと返している」と、丁寧に答えていた。それでも納得しないのか、終わってからも、取材陣が木村氏を取り囲んでいた。
 僕も事情は分からないので口をはさめない。ただ、「大変だね」と行った。「やましいことはないのだから、都議会でも何でも呼ばれたら行きますよ」と木村氏は言っていた。かなり、わずらわしいし、大変だろうが、「あの頃」と比べたら、何でもないだろう、と話した。人が集まり、新左翼の人たちも合流し、かなり過激なことをやっていた頃だ。20年、25年前だ。毎日のようにガサ入れ(家宅捜索)はあったし、何人も逮捕された。「でも、これは闘っている証拠だ」などと思っていた。イキがっていた。さらには、活動家は「革命マシーンになれ!」なんて檄を飛ばしていた。もっともっと支持者が増えたら、プロの活動家を100人くらいかかえたい。そして、プロ野球のように「成績」に応じて契約の更新をする。打率・守備率のように、いろんな事件をチェックして。どれだけ街宣をしたか。どれだけ人を集めたか。どれだけ機動隊と闘ったか。ガサ入れされ、逮捕されたら、グッとポイントが高くなる。そんなことを考えた、明るくオープンな契約更新だ。
 又、他の団体に良い活動家がいたら、トレードしてもいい。金銭トレードでもいいし、いい活動家を一人とるためなら、こちらは3人くらい、出しても良い。そうしたら活動家もプロ意識がめばえ、真剣に闘うだろう。うん、これはいい。と思った。
 ところが、そううまくはいかない。ガンガンと運動をやっていたが、そのうち、取り返しのつかないことになった。他から入った人が「殺人事件」を起こしてしまい、それで組織は壊滅状態になった。又、朝日新聞の記者が殺される「赤報隊事件」が起こり、「犯人はお前らだろう」と警察ににらまれ、徹底的にガサ入れ、別件逮捕をされた。もうこれで一水会は終わりかな、と思ったことも何度かある。しかし、何とか生きのびてきた。2000年からは、代表も木村氏にかわり、世界にはばたく一水会になった。今は、ちょっと大変だが、乗り切っていくだろう。「あの頃に比べたら…」と思って耐えるしかないだろう。と、岡山では、いろんなことを考えた。そして、翌日はアートの島、直島を楽しんだ。

 

  

※コメントは承認制です。
第143回 岡山で「あの頃」のことを考えた」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    30年を経て、鈴木さんにも直島にもいろんな変化が。いつも穏やかな笑顔の今の鈴木さんからは、「昔は怖かった」なんてとても想像がつかないのですが…。

  2. Kullervo より:

    「猪瀬問題」について、あまりにも他人事的な記述ですね。一水会前代表として、もっと責任感のある言葉はないのですか?

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鈴木邦男

すずき くにお:1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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