昨年末、東京・日比谷に開設されて注目を集めた「年越し派遣村」が、この6月30日で閉村となりました。大きな注目を集めた「派遣村」が投げかけた問題とは何だったのか、そしてその果たした役割とは——。「派遣村」村長を務めた湯浅誠さんにお話を伺いました。
1969年、東京都生まれ。1995年より野宿者(ホームレス)支援活動に関わり、「反貧困ネットワーク」事務局長、NPO法人「自立生活サポートセンター・もやい」事務局長などを務める。主な著書に『反貧困』(岩波新書)、『貧困襲来』(山吹書店)、『正社員が没落する——「貧困スパイラル」を止めろ!』(角川oneテーマ21/堤未果さんとの共著)、最新刊に『どんとこい、貧困!』(よりみちパン!セ)などがある。
「派遣村」とは何だったのか
編集部
昨年末から今年にかけて、湯浅さんが「村長」となって設置された、東京・日比谷の「年越し派遣村」が、ニュースなどでも大きく取り上げられました。これを受けて、全国各地に同様の取り組みが広がったり、労働者派遣法改正を求める声が強まるなど、労働問題、貧困問題に対する関心が急速に高まった感がありますが、湯浅さんは一連の流れを振り返って、どう感じておられますか。「派遣村」の果たした役割とは何だったのでしょうか。
湯浅
これは、私の個人的な感想、印象になりますが、今までの日本では、「自己責任」的な意見と、「社会的にも問題があるはずだ」という意見とが綱引きを続けてきていたわけですよね。我々は以前から、派遣労働の急増や貧困の広がりは社会的問題だ、ということで主張し続けていましたけど、どうしても「普通に働いていればそうはならない」「派遣社員が増えているのは多様な働き方を求めているからだ」みたいな話になって、それで終わってしまっていた。
ずっとそういう状況が続いてきた中で、派遣村というのはそのステージを一つ動かしたというインパクトはあったと思います。
編集部
「ステージ」ですか?
湯浅
昨年からの「派遣切り」というのは、たとえば工場単位で労働者の10割が切られちゃう、というような事態でしたから、真面目に働いているかどうかなんていうのは一切関係なかった。それでも今日住む場所がないというところまで行っちゃうんだというのを、はっきり示したのが派遣村だったと思います。そうなると、さすがに「普通にやっていればそうはならない」という言われ方は減ってきましたよね。
その変化が一番はっきりと表れたのは、政府の対応だと思います。
編集部
といいますと?
湯浅
これまで、特に自民党の政治家などは、こうした貧困の問題に基本的に関心がなかった。だから、彼らが直接会う機会のある財界の経営者などの言葉が、彼らの若者に対する印象を形成していたわけです。「最近の若者はフリーターだのニートだの、生きる力が足らんらしいな」というように。
それが、どうもそうじゃないらしいということになってきた。たとえば、今年4月に政府が発表した「経済危機対策」には、「非正規労働者等に対する新たなセーフティネットの構築」という文言が入りました。こういうことが政府の中枢で議論されるようになったというのは、やっぱり「ステージが一つ動いた」ということなんだと思います。
首相の諮問機関である経済財政諮問会議でも、4月に「安心実現集中審議」が始まったとき、民間議員の4人が出したレポートには、「今までは“活力あっての安心”だったけれど、これからは“安心あっての活力”だ」とありました。最終的な落ち着きどころは「安心と活力の双方を求める」ということになりましたけど、経済財政諮問会議で「安心あっての活力」という言葉が出てくるなんて、去年までは想像もつかなかったですよ。
議論の中でも、日本における子供の貧困の現状とか、日本では所得再分配をすることで逆に子供の貧困率が上がってしまっているとか、これまで我々が社会のメインストリームの外で一所懸命出していたようなデータが資料としていくつも出てきてるんです。そういうふうに、あくまで周辺的だったものが中心の俎上に乗っかるようになった。
もちろん、オバマ政権誕生によるアメリカの政策方針転換の影響も大きいでしょうし、サブプライムローンの問題やリーマンショックなどがあって、機は熟していたともいえますから、派遣村がなくてもこうなっていた可能性はあります。でも、変化の一つの弾みになったことは確かだと思います。
繰り返し働きかけて、世論を変えることで政治を変える。
それは、どんな分野の「運動」においても必要な視点といえそうです。
次回、9条や平和を守るための「運動」について、
湯浅さんが思うこと、感じていることをさらにお聞きしていきます。