現代社会は、もはや戦争を「できない」社会になっている
編集部
さて、最近の改憲論議においては、「国を守るためには軍隊が必要だ」との主張がしばしばなされますが、こうして沖縄戦での集団自決の原因などについて見てくると、「果たして、軍隊を持っているほうが、持っていないよりも本当に“安全”なのか?」という疑問も浮かんできます。林さんは、憲法9条をめぐるこれまでの議論については、どう考えられていますか?
林
これまでの与党による改憲論議は、まさにアメリカと一緒になって世界中で戦争をできる国にしようというものですから、とても認めることはできません。
ただ、9条の問題を考えるときに非常に重要なのは、実は日本やヨーロッパ、アメリカなどの先進国は、第二次世界大戦後、自分の国土で戦争をしたことがないという事実だと思います。
編集部
それはどういうことですか?
林
たとえばライフラインです。第二次世界大戦のときまでは、日本もヨーロッパも、飲み水は井戸や川からとっていたし、食事は竈(かまど)でつくるし、というような生活スタイルです。電気冷蔵庫など電化製品などまったくありません。ですから、そこが戦場になって電気や水道、ガスといったライフラインがストップしても――というよりもともとないのですが――、それなりに生きていけるような生活をしていた。現在戦争が起こっている途上国もそうですね。
ところが、経済成長で生活スタイルが一変し、さらにIT化も進んで、電気が止まるとすべてがストップしてしまい、生きていけなくなるような社会になってしまった。人類の経験の中で、そういう社会の中で戦争が起こったことは一度もない。逆に言うと、こんな社会が戦場になるという想定そのものが、およそあり得ない、ナンセンスな話だと思うんですね。
つまり、日本だけではなく先進国はみんな、人の生活自体がもう、戦争には耐えられない状態になっているということです。戦争でライフラインが破壊されたら、水がないからトイレも困る、電気が止まり冷蔵庫も使えない。昔なら裏山から薪を採ってこられたけれど、都市ではそれもできないし、井戸もない。マンションなんてもう、どうしようもないですよ。実際の砲弾で死ぬ人よりも病気で死ぬ人のほうがはるかに多くなるだろうし、とんでもないことになるでしょうね。
編集部
戦争をするべきじゃない、というよりも、もはや「できない」社会になっているということですか。
林
そう。安全保障の問題も、社会のあり方がまったく以前とは変わってしまってるんだということを前提にして考えないといけない。そうすると、理念として軍事力を放棄すべきかどうかということは別にしても、戦争は「できない」んだからしない、戦争をしてしまうとそれだけで人々に想像を絶する被害がでてしまう、そうするとそこで武力を持っていることに何の意味があるのかということになります。
日本の場合でいえば、完全非武装までは行かないにしても、今の自衛隊のような強力な軍事力はいらない。せいぜい国境警備隊程度で、日本列島の外側で守るという選択肢はあり得るけど、そこを破られたらもう、手を挙げるほうがいい。そこで戦争を始めてしまったら、とんでもない犠牲が出るんですから。
編集部
それが、犠牲を最小限に抑える現実的な手段じゃないかということですね。
林
そうです。「軍隊を持たない」「非武装を貫くべきだ」などというと、なんだか非常に立派な人格者みたいだけど(笑)、そうじゃなくて、もっと自分のエゴで考えても、軍隊を持たないほうがかえっていい。自分の身が一番大事だからこそ、軍事力はないほうがいいんだということ。それが自分にとってもいいだけでなく、ほかの人々、ほかの国の人々にとってもいい。
理念や理想で考えるのも大事ですが、それよりは、そういう現実的な議論をもっとしたほうがいい。改憲論議の中では、軍隊を持つことのほうが「現実的」だと言われることが多いけれど、軍隊で守ることこそが「空想的」「観念的」であって、持たない方がずっと「現実的」だ、というふうに、それをひっくり返さないといけないと思うんです。
戦争は「するべきではない」のではなくて、「できない」もの。
「軍隊を持たない」=理想主義、との図式こそが、
もはや時代遅れだというべきなのかもしれません。
次回は、沖縄戦や従軍慰安婦問題など、林さんが
現在の研究テーマに取り組まれるようになったきっかけについてお聞きします。