作家の村上春樹さんの「東電の社長などは(原発事故の責任を取って)刑務所に行くべき」という発言が話題を呼んでいます。実は昨年、すでに原発事故における法的責任の追及を求め、立ち上がった人たちがいました。それが、東電幹部や政府関係者への告訴・告発に踏み切った「福島原発告訴団」。団長を務めるのは、一昨年の「さようなら原発5万人集会」でのスピーチでも知られる武藤類子さん。告訴に至った経緯や今の思いを伺いました。
1953年福島県生まれ。福島県三春町在住。和光大学卒業、版下職人、養護学校教員を経て、2003年に里山喫茶「燦(きらら)」を開店。チェルノブイリ原発事故を機に反原発運動にかかわる。現在、「ハイロアクション福島」事務局、福島原発告訴団団長。著書に『福島からあなたへ』(大月書店)がある。
原発事故で奪われた「自然と調和した暮らし」
編集部
武藤さんご自身のことについても、もう少しお話をお聞かせください。原発事故の前は、福島で喫茶店を経営されていたのですね。
武藤
自然と調和した自給的な暮らしがしてみたくて、2003年に福島県の三春町に、里山喫茶「燦(きらら)」をオープンさせました。もちろん、完全な自給自足は難しいけれど、まずは「自分の力で何かをつくる」ということがしたくて、川沿いの雑木林を自分たちで開墾して。建物も自分たちで建てました。
独立型のソーラー発電システムを備え付け、薪や炭も使って、使用するエネルギーを抑える。食べるものも季節の山の幸や小さな畑の作物、山で拾ってきたどんぐりをカレーにしたり、野草を摘んでお茶を作ったり…。そういう暮らしを通じて、訪れてくれるお客さんに「自分たちの暮らしをもう1回考え直そう」と提案するための場所でした。遠くの大都市圏から来てくださる方もいました。
編集部
それと並行して、脱原発の活動にも取り組んでおられた。
武藤
チェルノブイリの原発事故を機に、いろいろ文献などを読んで調べるうちに、原発というのは「人の犠牲の上に成り立つ発電システム」だということに気づいたんです。事故が起きなくても、ウラン採掘の時点で被曝者を生み出すし、年に1回の定期検査も作業員の被曝が前提になっている。それで、地元の仲間たちと「脱原発福島ネットワーク」を立ち上げて活動するほか、3・11の直前には、稼働から40年を迎える福島第一原発の廃炉を求めて「ハイロアクション」という運動も新たに立ち上げようとしていました。「燦」でも、原発に関する勉強会などを開いていました。
編集部
しかし、そこで原発事故が起こって…。お店は今、どうなっているのですか?
武藤
三春町の空間線量は福島県の中では低いほうなのですが、以前のように家の周りでとれるものを食べることはできなくなりました。飼っていたミツバチの蜂蜜からも、それほど高濃度ではないものの放射性物質が検出されて。薪も使えなくなったので、冬は石油ストーブを使うようになりました。
そういう状況ですから、少なくとも同じ場所での再建は難しいと判断して、今年4月26日に廃業届を出しました。この日は開業から10年目の日だったのですが、1986年にチェルノブイリの事故が起こった日でもあります。「チェルノブイリを忘れないように」と、その日を開業の日に選んだので…。その同じ日に、今度は廃業届を出すということになってしまったわけですが、ここからはまた、何か違う生き方をするしかないな、と考えています。
福島第一原発作業員へのインタビューを紹介してくれている、
今週の雨宮処凛さんコラムを読んでも、
原発事故は、まだ何も終わっていないことを痛感させられます。
「終わったことにしよう」という動きに抗い、
「これから」の道筋を見出す。
それが、原発のある社会をつくってきてしまった私たちの、
最低限の果たすべき役割なのではないでしょうか。
武藤さん、ありがとうございました。