今年9月、トルコの海岸に漂着したシリア難民の子どもの遺体を写した写真が、世界的な注目を集めました。それから3カ月近く、そのニュースが話題になることも少なくなりましたが、激しい戦火が続くシリアからは変わらず多くの人々が逃れてきており、その受け入れをめぐって周辺国やヨーロッパ、そして日本でも議論が続いています。
そもそも、「シリア難民」と呼ばれる人たちは、どんな人たちなのか。なぜ戦いは止まないのか。そして、日本の私たちにできることはないのか──。かつて、内戦前のシリアを訪れた経験を持ち、現在もヨルダンなどでシリア難民の取材を続けているフォトジャーナリスト、安田菜津紀さんにお話を伺いました。
崩れていく
「平和国家」日本への信頼
編集部
今年9月に成立した安保法制をめぐる議論の中では、これによって世界の国々が日本を見る目も変わってしまうのではないか、という声も多く聞きました。安田さんは中東などを取材されていて、これについてはどう感じられていますか。
安田
ヨルダンの難民キャンプなどを歩いていると、よく「どこの国から来たんだ」と聞かれるのですが、「日本」だと返事をすると、「おお、ジャパンか」って握手を求められることがよくありました。「なんで俺たちがおまえと握手をするかわかるか。おまえの国がどこも攻撃をしない国だって、俺たちは知ってるんだよ」って言われたことも。
それから、別の難民の方にはこう言われたこともあります。「日本はすごい、戦争でむちゃくちゃやられて、ヒロシマ・ナガサキも経験したのに、あれだけ復興して平和的な素晴らしい国を築いている。自分たちの国も今はあんなふうにめちゃくちゃだけど、いつか日本のような国を築きたい」。…複雑ですよね。今、私たちの国はその言葉に対して「そうだね」と返事ができる状態ではないと思うので。
編集部
そうですね。実際の日本はまさに今、「平和的な国」からは遠ざかりつつあるように思えます。
安田
現地で取材を手伝ってくれているシリア難民の男性には、再三「日本には、世界に対してできることがたくさんある。選択肢は山ほどあるのに、なぜ武力やそれに近いものだけを選び取ろうとするんだ、そんな必要はないのに」と言われました。例えばNGOにしても、欧米のNGOが時に「スパイじゃないか」と疑われたりしやすいのに比べて、日本のNGOの活動は純粋な支援活動として受け入れられやすい。地元の人たちも心を開いて話をしてくれることが多いから、本当に必要としている支援は何なのかを聞いて、それを世界に伝えることもできる。そうした信頼を、そして強みを、どうしてわざわざ自分たちの手で切り崩していく必要があるのか、と。
編集部
もっともな指摘だと思います。NGOだけではなく、安田さんたちジャーナリストも活動しづらくなる可能性があるのでは?
安田
もちろんあると思います。私自身はまだ具体的に何かを体感したわけではないし、したくもないですけれど…。「イスラム国」も自分たちの攻撃対象に日本を加えた、と表明していますし。今まで「日本人だから」というので取材に協力してくれたり、いろいろと気を遣ってくれたりした人がいたのは確かなので、そういう信頼がこれからどう揺らいでいくんだろうという懸念は強いですね。
難民の人々に、
「武力以外」の選択肢を築く
編集部
先ほど、シリア難民の方に「武力ではない選択肢は山ほどあるのに」と言われたとおっしゃいましたが、その「武力ではない」選択肢とは、例えばどういうものだと思われますか?
安田
先にもお話ししましたが、シリアの騒乱があそこまで泥沼化した原因の一つは、傷ついて逃れてきた人たちが、また戻って武力に走るしかない状況に追い込まれているということだと思うんですね。国外に出ても、結局はどこにも居場所が見つからなくて、「死んだように生きるよりは」と、戻って戦いに身を投じてしまう、という…。
日本が果たせる重要な役割の一つは、その彼らに、武力以外の選択肢を築くことではないでしょうか。例えば、ヨルダンをはじめとする周辺国やヨーロッパなど、難民を受け入れている国に資金的な支援をするという形もありますし、日本までたどり着いた人たちをきちんと保護するというのもそうでしょう。武力に武力を重ねるのではない、それ以外の選択肢があるんだよと示し続けること。それは、「平和国家」を掲げてきた日本だからこそ説得力がある提示だと思います。
編集部
本当にそうですね。しかし、今の日本はそうした方向とはまったく逆を向いて進んでいる…。安保法制も、あれだけの反対の声はあったけれど、結局は成立してしまいました。
安田
ただ、安保法制をめぐる議論の中で、いろんな分野の人たちから声があがるようになった、声をあげることが当たり前のことになったというのは大きいと思います。どんな立場の、どんな職業の、どんな年齢の人でも声をあげていいんだということが、ようやく広まりはじめた。だから「可決しました、残念でした」では終わらないと思うんです。
私は私なりに、これからも現場の声を伝えるという役割を果たしていきたいし、どんな立場の人にも役割ってあると思うので…引き続き失望せずに、これはおかしいんじゃないか、という声をあげ続けたいですね。
その中でもう一つ、「傷つきたくない」とともに、「傷つけたくない」という声をもう少し増やしたいということも感じます。
編集部
「傷つきたくない」だけではなくて「傷つけたくない」…。安保法制の成立などによって、海外に派遣された自衛隊員が「殺される」だけではなく、「殺す」側に回る可能性も、これまで以上に高まるといわれていますね。
安田
安保法制反対の運動の中でも、もちろん「傷つけたくない」という声がなかったわけではないですけど、やっぱり圧倒的に「自分たちが戦争に巻き込まれるのはいやだ」という、「傷つく側」の視点がすごく多かったかなと感じていて…誰かを傷つけたくない、自分たちが遠くの国で誰かを殺すための引き金を引くことを避けたい、そういう声も同じくらい大きくしていく必要があるんじゃないかと思っています。
そのためには、歴史教育も重要なのかなと思います。覚えている限りでは、学校の授業で重点的に学んだのは、東京大空襲や原爆といった「傷ついた側」としての歴史だったような気がするんですね。それはそれでもちろん絶対に学ぶべきことですけど、同時に「傷つけた側」としての歴史もきちんと知る必要があると思います。
「自分は傷つけたんだ」と子どもや孫に伝えるというのは、「傷ついた」ということを言うのよりもさらに抵抗があるだろうし、それをやってくださる方というのは非常に限られていると思うけれど、その声をどれだけ未来に語り継げるか。どれだけ私たちが真摯にバトンを受け取れるかということにかかっているのかなと思います。
編集部
今生きている私たちは、先の戦争を体験した方の声を受け継げる、本当に最後の世代ですし…。
安田
そうですね。将来、次の世代の子どもたちに「過去にこういう戦争があったって教科書で習ったんだけど、もう大丈夫なんですか」と聞かれたときに、「そういうことがあったから、それを機会に努力して、もう同じことを繰り返さない社会になったんだよ」と堂々と言いたいし、そのための努力は惜しみたくないと思います。
経済的な理由で
自衛隊という進路を選ぶ若者たち
安田
その意味で、今非常に気になっていることがあって…それは、子どもの貧困の問題と、それが今後、いわゆる「経済的徴兵制」に結びついていく可能性があるんじゃないか、ということです。
編集部
日本の子どもの貧困率は、近年急速に悪化していますね。2012年の調査では、子どもの6人に1人が貧困状態にあるという結果でした(厚生労働省の調査による)。
安田
私自身も母子家庭で育って、決して生活は楽ではありませんでした。高校を卒業するときも、自分ではどうしても大学に行きたいという思いがあったんですけど、それを口に出すのは非常にはばかられるような状況で。
そんなときに、親戚に言われたのが「親孝行だと思って防衛大学校に行きなさい」ということだったんです。防衛大学校なら、学費は無料だし給与も支給されるから、と。結局、私はすごくしっかりした奨学金制度のある大学を知って、そこに進学することができたので、防衛大学校に行くことはなかったんですが、誰もがそうした情報をキャッチできるわけではないですよね。
編集部
しかも、今は「奨学金」といっても、ほとんどが給付ではなくて貸与で、卒業後にその返還に苦しむ若者たちも多いと聞きます。
安田
そうなんです。多額の利息がつくこともありますし、奨学金ってもちろん前借りができないので、それが振り込まれるまで入学金などをいったん自分で建て替えなきゃいけなかったりもする。「大学に行きたい」と思っていても、そういった高いハードルで振り落とされていく子たちがどのくらいいるのか、と思います。
編集部
そこで、かつての安田さんのように「学費がかからない」という理由で防衛大学校を勧められるというケースは、少なからずあるのかもしれません。
安田
自衛隊の試験は倍率が高い、志望者は足りているんだからそんなことにはならないともいわれますが、実は幹部候補生などではない一般の自衛官の充足率って、75%くらいなんですよね。ということは、残りの25%をどこかからかき集めてこないといけないということになります。
編集部
今年の夏には、ストレートに「苦学生求む」と書かれた自衛隊の募集パンフレットが配布されたことがインターネット上で話題になりました。
安田
やりたい勉強があるから、自衛隊員になりたいからではなくて、経済的な理由でそこに吸い寄せられていく若者たちがこれからどのくらい出てくるんだろう、と思います。しかも安保法制も成立した今、そうした若者が真っ先に戦場に駆り出されて傷つく可能性さえある。
以前ある新聞で、いわゆる「一流大学」の学生が、「自分たちみたいな人間が戦場に駆り出される可能性はないと思う、兵士が足りないなら移民などを投入すればいい」と話していた、という記事を読んで驚いたんですが、経済的な分断がそのまま意識の分断になってしまっているんですね。戦争などに巻き込まれない層はいつまでも巻き込まれないし、巻き込まれる層はいつも巻き込まれる。そうなると、巻き込まれない層は無関心でいても、自分自身が傷つくことも、痛みを感じることもないということになります。
編集部
そもそも、傷ついている人たちの存在が「見えない」わけですから…。
安田
そういう分断が生まれる前に、引き続き声をあげていかないといけないと思っています。
貧困というと、これまでは絶対的な飢餓といったイメージだったと思うのですが、私は今の日本における貧困とは「機会の欠如」だと思っています。教育を受けたいのに受けられない、仕事を選択することができない。それは本当によく言われるような「自己責任」なのか。自分の努力だけでは絶対に乗り越えられない壁が存在するということが、どれだけ周知されているだろう、と思うんですね。
子どもが笑えない社会は、絶対に豊かな社会とはいえません。すべての子どもにどうやってチャンスを築いていくのかということを、しっかりと考えないといけないのではないでしょうか。
構成/仲藤里美・写真/塚田壽子
米国などが主導する「テロとの戦い」に異を唱えることは、ときに「一国平和主義でいいのか」とも批判されます。しかし、国際社会の中で平和のために貢献する方法は、武力だけではありません。特に日本には、築き上げられてきた「平和国家」のイメージを生かして、やれることがたくさんあるはず。それはしばしば揶揄されるような「一国平和主義」でも「平和ボケ」でもなく、とても現実的で効果的な「貢献」のあり方だと思います。