司法の場での「武器」として、憲法を使う
編集部
青井先生ご自身は、どうして憲法に関心を持たれたんですか?
青井
大学の学部生時代、アメリカのテネシー州議会の議員定数不均衡に関する連邦最高裁判決である「ベイカーVSカー判決」を読んだことです。議員定数不均衡は違憲だという判断を示した判決なんですが、「違憲だ」となって、その後どうなったのかな? と興味を持って調べていったら、いろいろと面白いことが分かってきたんですね。
この判決を機に、連邦最高裁はそれまでの、定数不均衡問題は「政治的問題」で司法審査権は及ばない、司法府は「政治の藪」に入るべきではないという立場を覆して、一転してブルドーザーのように(笑)、司法的救済という形で不均衡是正へ取り組んでいくようになります。州の裁判所が州議会に対して、「この日までに区割り案をつくれ」と命令して、「できなかったらこれを使え」と、区割り案までつくっちゃう。「司法府がそんなことしていいの?」と思いました。
日本ではちょっと考えられないですね。
青井
まあ、あくまで州単位の話なので、日本の国会と最高裁との関係とは違うんですが、なんだかずっと違和感があって。そこから「司法権って何だろう」という興味が膨らんでいったんですね。立法府と違って選挙で選ばれたというような正当性もない、日本の最高裁判所なら15人の裁判官。この人たちは何をどこまでできるのか。彼らもまた国家権力ですから、国家権力というのは縛られなくちゃいけないものだということから考えれば、あまりに権力を持ちすぎてもいけない。でも一方で、国民の自由を守るためには、一定程度彼らに力がないといけない。どこまで許されてどこから許されないんだろう。司法権ってどういう権力なんだろう。そう考えたのが憲法との出合いで、今もそれをずっと考え続けているという感じですね。
編集部
日本でも2011年3月に、2009年の衆院選における「一票の格差」は違憲状態であったとする最高裁判決が出ました。2010月7月の参院選についての裁判も各地の高裁で「違憲判断」が出されています。
ただ全体として、法律などを明確に「違憲である」とする判決は、日本ではそれほど多くない、という印象があります。
青井
そういう面はあるかもしれませんが、それは憲法を使わなくてもなんとかなってきた、ということでもあると思います。例えば刑事事件であれば、形としては犯罪構成要件に該当するけれども、これは処罰すべきではないと判断されたときに、「可罰的違法性がない」といった刑法の言葉を使って解決する。あるいはそもそも起訴されないという形で救われてきた人もいるでしょう。
それはそれで私は悪いことだとは思いません。ただ、そこに憲法の議論を持ち出すことで、より「武器が増える」という思いはあります。そもそも、どうして裁判官が「この事件は犯罪構成要件を満たしているけど処罰すべきでない」と考えるかといえば、それはやっぱり「人権感覚」なわけですよね。ただ、「人権感覚」という言い方だと、人によって感じ方も変わってきてしまうけど、「これを処罰することは憲法違反だ」ということで、議論の内容がもっと可視化されるし、強い議論になる。その意味で、実際の訴訟の場でうまい具合に憲法を使う、そういう方法をもっと考えていきたいと思っているんです。
編集部
最近では、福島県双葉町の井戸川町長が「私たちは憲法で守られていますか? 国民ですか?」と訴えたように、東日本大震災の被災地からも、今自分たちが置かれている状況は憲法違反だ、という声があがっています。
青井
本来は被災者の方たちを救済するために、国会が適切な法律をつくるべきなのにそれをやらない。つまり、憲法に従えば国会は国民の人権を侵害してはいけないはずなのに、それができていない。これは憲法違反だという立論をする可能性はあると思います。
そんなふうに、「法律をつくらない」政治の怠慢を訴える方法としても、憲法をもっともっと使っていくべきなんじゃないか、と考えています。今まで、あまりにもそれを前面に出さず、背後に置きすぎてきたんじゃないかなという気がしていますね。
例えば、デモやビラ配りを通じて自分たちの意思表示をする。
「健康で文化的な」最低限の生活を守る。
子どもを安心して育てられる環境をつくる。
さまざまな場面で、権力と対峙するための「武器」となってくれる憲法。
この「武器」を手放してはならない、と強く思います。