まもなく公開の映画『イラク チグリスに浮かぶ平和』は、2003年に米軍の空爆によって始まったイラク戦争の、その後の約10年間を追ったドキュメンタリー。2011年にはオバマ米政権が「戦争終結」宣言を出しましたが、混乱と戦火は今も続き、犠牲者はイラク人だけで10万人を超えるといわれています。日本もいち早く支持を表明し、自衛隊派遣も行ったこの戦争は、イラクに何をもたらしたのか。その中で生き抜いてきた人々の姿から見えてくることとは——。イラク戦争開戦時から取材を続けてきた、監督でジャーナリストの綿井健陽さんにお話を伺いました。
人々の姿を通じて
「開戦から10年」のイラクを描きたかった
編集部
まず、今回の映画制作に至ったきっかけを教えてください。
綿井
これは、日本のメディア的な発想ではあるんですけど…イラク戦争開戦から10年という一つの区切りに、僕がこれまで取材してきた人、出会ってきた人たちがどうなったのかをもう一度追ってみたいという思いが始まりです。それによって、10年の戦争がイラクにもたらしたものを検証してみたい、と思ったんですね。
実際には東日本大震災が起こって、福島原発事故の取材をしていたことで、完成は1年遅れになってしまったんですが――でも別に、イラクの人たちからしたら10年後だろうが11年後だろうが、特に意味はないですからね。彼らが――以前に取材した人たちが今どうしているのか、何を思っているのかを知った上で、自分なりのイラク戦争の総括をしようと思って、昨年イラク・バグダッドに入ったんです。
(C)ソネットエンタテインメント/綿井健陽
編集部
取材や編集を通じ、開戦からの11年を振り返る中で、何を感じましたか。
綿井
一つ言えるのは、いったん戦乱が起きてしまうと、それを止めるのは非常に困難だということですね。
例えば、2009年ごろから12年ごろの間は、少し宗派抗争も落ち着いて、イラク市民の犠牲者の数もそれまでに比べれば減っていたんですよ。それが昨年の夏ごろからまた情勢が怪しくなり、「イスラム国」のような過激なグループが出てきて、今年の夏には米軍の空爆が再開されて…。戦争や内戦というのは、少し収まったように見えても、何かのきっかけでまたすぐに悪化してしまうものなんですね。シリアやイランなど、周辺国の状況にも非常に左右されるし…。その中では、一般市民としては何もどうしようもない。ただ常に、日々の生活を綱渡りのように生きていくので精一杯なんですよね。
編集部
映画では、前作『Little Birds』にも登場したアリ・サクバン一家をはじめ、その「日々の生活を生きて」いるイラクの人たちの、さまざまな姿や思いが描かれています。中には、家族を失った人や、大きな怪我を負った人も…。
綿井
昨年イラクに行く前は、なるべくこの10年を「生き抜いてきた人」を描きたい、と考えていたんですが、実際に現地入りしてみると、以前に取材した相手の中にも、すでに亡くなってしまっていた人がいました。最初は愕然としたけれど、僕にはやはり「撮影する」ことしかできません。その亡くなった人たちも含めた「10年後」のイラクを描こう、それも単なる追悼物語や「かわいそうな人たちの話」では終わらせない、日本の人から見て「遠い国の戦争」というだけにはならないものにしよう、とずっと考えながら取材をしていましたね。
編集部
具体的には、どんな場面にそうした思いが込められているのでしょうか?
綿井
例えば、病院や遺体安置所などのつらいシーンも出てきますが、それをただ「こんな悲惨なことが起きています」というだけの場面にはしたくなかった。その前後にどういうことがあったのか、家族を失って泣き叫んでいる人たちがどういう人生を送ってきたのか、そういうこともあわせて描こう、と考えました。あるいは、頬を銃弾が貫通した人、爆弾で足を失った人など「生きている人の傷」を撮るときには、生々しい傷口をアップで捉えたりもしています。あの痛々しさと傷こそがまさに「戦争」のリアリティなのであって、そこは避けずにちゃんと直視しておくべきだと思ったからです。
英語字幕版ももちろんありますが、日本向けの映画だということで意識して入れたのは、イラク人女性の「自衛隊を派遣した日本にも、(この事態を引き起こした)責任がある」という言葉です。
(C)ソネットエンタテインメント/綿井健陽
編集部
映画の後半に登場する、米軍の爆撃によって両足を失った女性の言葉ですね。
綿井
日本で上映する以上、あの場面は見せておきたいと思いました。単に「イラクは大変ね」で終わる話ではない、私たち日本人もこの戦争に直接的に関与しているんですよ、とイラク人から突き付けられている。そのことを、もう忘れている人もいるでしょうし、これからはますます忘れられていくでしょうから。
それともう一つ、ある男性が言う「今の状況を招いた責任は私たち市民にもある、私たちが黙っていたからこんなことになったんだ」という台詞も、今の日本に暮らす人たちに伝えたかった言葉です。政治状況に従順に黙っていると最後は大変なことになりますよ、ということですね。単に「戦争はいけません」というのとはちょっと違うレベルでの言葉、実際に戦争を体験した人、それによって傷を負った人の重い言葉をベースに、「あの戦争は正しかったのか」をもう一度考えてみてほしい、と思ったんです。
集団的自衛権のリアリティは
これから押し寄せてくる
編集部
しかし日本では、まさにそのイラク戦争を支持したことへの振り返りもほとんどないまま、今年7月に閣議決定によって集団的自衛権の行使が容認されました。これについては、綿井さんはどう見ておられましたか。
綿井
安倍首相の会見などでも、「こういう場面のときに(集団的自衛権が行使できないと)日本人を助けられない」とか、いろんなシミュレーションがなされていましたけど、どれも机上の空論というか、あまりリアリティが感じられなかったですよね。集団的自衛権を行使するというのが結局どういうことなのか、いまひとつ明確にされないまま、賛成なのか、反対なのかみたいな話になってしまった。
ほとんどすべての戦争は「自衛」から始まります。あれだけひどいことが起こっているイスラエルのガザ攻撃だって、イスラエルからすれば「自衛」です。国家だけではなく、武装勢力だってみんな「自衛」「守る」と攻撃の理由を主張する。そして、そこから実際に戦争になれば、個別的自衛権だろうが集団的自衛権だろうが、あるいは後方支援だろうが、兵士も民間人も区別なく、すべての人が巻き込まれていくわけで…。
編集部
現地で活動するNGOなど、民間人の身の危険性が高まるという指摘の声は、現場からも多く出ていますね。
綿井
少し前に、「イスラム国」がイギリス人男性を殺害しましたが、彼は人道支援NGOのスタッフでした。それが、単にイギリス国籍であるというだけで殺されてしまったわけで…。今はまだ標的は米英だけに絞られているかもしれませんけど、これから先、また自衛隊がイラクに派遣されるようなことがあれば、どうなるかは分かりません。ましてや11年前はまだそれでも“憲法の範囲内”ということで、給水や道路建設などの活動に限られていたけど、今度派遣要請があれば、それで済むとはちょっと思えません。そうなれば、NGOスタッフや大使館員や企業駐在員など、日本の民間人が狙われる可能性も非常に高くなるでしょう。
戦争に協力するというのは、そういうことなんですよね。軍隊じゃなくて自衛隊だとか、人道支援をしているからとか、そういうこちら側の説明論理が一切通用しなくなる。もっと言えば、自衛隊が現地の人を――正当防衛という名目ではあっても――殺してしまうとか、日本人が「殺す」側に回る恐れも十分にあり得ます。
編集部
しかし、集団的自衛権の行使容認が決定されたとき、そうした可能性が十分に検討され、議論されたとは思えません。
綿井
今回のこの映画を、直接的に集団的自衛権と結びつけるのは、もしかしたら「後付け」かもしれません。ただ、過去の戦争から学ぶ――戦争というものが起こったときに、どういう事態になるのかを考えるきっかけになれば、とは思います。
11年前、日本はイラク戦争を支持しました。一般の国民がどう思ったかは別にして、日本政府は支持を表明したし、在日米軍基地からも相当な数の米兵やヘリ・戦闘機がイラクへ向けて飛び立っていった。日本の基地がなければ、イラク戦争はできなかっただろうとさえ言えると思います。そういう意味でも、私たち日本人はイラク戦争に直接、間違いなく関わった。そして10年後、イラクはどうなったのか。その重みをもう一度感じてみてほしい。その上で、再びこうした戦争に加わるかもしれないということになったときにどうするのか、ということですよね。
(C)ソネットエンタテインメント/綿井健陽
編集部
今後、そうした事態になる可能性は十分にある…。
綿井
今後の情勢によっては、米軍から自衛隊の派遣要請が来るかもしれないし、現政権が「これは我が国にとって直接の脅威だ」と、集団的自衛権を持ち出す可能性だってもちろんあります。あるいは、日本の民間人が現地の武装グループに次々と拘束される、殺害されるというような事態になったら、それが相手を攻撃する材料に使われるかもしれない。「その報復のために参戦する」とはさすがに言えないとしても、「我が国を守る」「日本の平和と安全のために」と、何かしら別の言葉を持ち出してきて利用する可能性はあるでしょう。
遅かれ早かれ、何かしらそういう事態は起こると思います。そのときに、どんな政治判断が下されるのか。再びその戦争を支持するのか、自衛隊を送るのか。しかも11年前よりも、自衛隊の活動範囲は今後はるかに広がるでしょう。その意味では、集団的自衛権の容認という事実が、本当にリアリティを持って押し寄せてくるのはこれからだと思います。
「表現する」場を守るために
逐一戦線を張っていく
編集部
その前に、この映画が「そもそも戦争に加わるとはどういうことか」を考えるきっかけの一つになれば――ということですよね。ただ、今の日本の状況を見ていると、そうして考えるための場をつくる、表現作品を通じて「伝える」こと自体が、非常に危うくなっているように感じます。映画上映や写真展開催などが、「抗議を受けた」ということで中止に追い込まれるケースが各地で相次いでいますよね。
綿井
ポスターやCMなども含め、ちょっと抗議が来たら「謝罪・中止」「回収・撤回」というパターンが非常に多いですね。それも――これはとても日本的だと思いますけど――「どんなお詫びをしたか」が重視されて、「謝ってない」「謝罪の仕方がなってない」といった批判がされる。本来なら、何がどうまずかったのかをちゃんと説明するとか、「批判を受けているけど、我々はそうは思わない」と反論するとか、そういうせめぎ合いやプロセスのほうが社会にとって重要だと思うんですが、それがない。
ただ、そうした状況があっても、写真家や映画監督など、「作品をつくる」人のほうは、これからもどんどん果敢に出てくると思うんです。問題はそれを発表する場所ですよね。従軍慰安婦をテーマにした映画をつくろうとしている知人がいますが、それを上映できる場所があるかというのが切実な問題です。
編集部
いくら優れた作品がつくられても、発表する場がなければ意味がありませんよね。そうした動きに、どう対抗していけばいいのか…。
綿井
それは、個々の現場で「逐一」戦線を張っていくしかないと思います。「統一」戦線ではなくて。今は慰安婦の問題が特にクローズアップされているけど、攻撃対象はこれからおそらくどんどん広がっていく。そのときに、「押しかけて抗議すれば、やめさせられるんだ」と思わせてしまったら終わりです。さらに最悪なのは「抗議が来たから」じゃなくて、そもそも危なそうなものには手を出さない、最初から「面倒になりそうだから、やめとこうか」という意識が増殖すること。今、すでにそういう流れがつくられつつありますよね。
ただ、表現者が大上段に構えて「表現の自由だ」と叫んでも、実際に抗議の声と対峙しなければならないのは会場の支配人や受付の人だったり、警備に当たる人だったりするわけで…そこの部分も含めて守らないといけない。例えばある一つの展示施設が抗議を受けて中止に追い込まれたら、別の展示施設が「じゃあ、うちでやります」と手を挙げると、そういう横のネットワークで、なんとか表現の「場」を確保していく、「見る、見せる」「聞く、聞かせる」「知る、知らせる」人と場所と機会を守る。そして何か問題が起きても、「こういうことが起きています」と世の中に可視化させていく。その表現をする人を支えよう、提供しよう、多くの人に観てもらおうという、意思ある人たちと場所と機会を孤立させない、それしかないと思うのです。
(C)ソネットエンタテインメント/綿井健陽
編集部
そのためには、受け手の側も「いや、私はそれを見たいんだ」とちゃんと伝えていく必要がありますね。
綿井
映画上映や写真展だけではなくて、大手メディアについてもそうです。今、朝日新聞へのバッシングが大きくなっていますが、ああいうことがあると、大手メディアが萎縮してしまう。慰安婦の問題なんて、これまでもそれほど取り上げられなかったのに、さらに誰もやらなくなっていってしまうでしょう。いくら「マスコミはダメだ」とか言われていても、大手メディアが何を伝えて何を伝えないかというのは世論形成にも大きな影響を与えます。大手メディアの中で頑張っている記者やディレクターたちをどう応援できるかは、小さいネット媒体などをどう支えていくかと同じく大事な問題だと思います。
編集部
やはり、それぞれがそれぞれの場所で、逐一声をあげていくしかない…。
綿井
特に、「いまいる場所から声をあげること」、それが大事です。一事が万事だと思っています。
今、仲間と「表現の不自由展」という催しを企画しています(来年1月に都内ギャラリーで開催)。映画でも写真でも、過去に上映中止、展示中止になったさまざまな作品を集めて、それを公開しよう、という試みなんですが、それを1カ所だけじゃなくて全国のいろんな場所でできないかな、と。こういう「闘える前例」をつくれれば、他の上映や展示もやりやすくなるでしょう。
表現する場を守っていくためには、「ネガティブな機会を逆利用する」ことも必要だと思っています。例えば、これだけネガティブキャンペーンを張られている今だからこそ、従軍慰安婦の問題について考える場をつくる絶好の契機になる。こんなに話題になったことなんて今までないわけですから、この機会に新聞もテレビも映画も、どんどん独自に取り上げて取材・検証・議論すればいい。今は「朝日新聞みたいになるから触れないでおこう」という方向に行っちゃっているけど…これ以上そうならないためにはどうしたらいいのか。現状は雨降って、「泥沼化」していますが、いつか逆に、「地固まる」方にもっていく。そのために、「逐一戦線」を張っていくしかないでしょう。
(構成・仲藤里美、写真・塚田壽子)
綿井健陽監督
『イラク チグリスに浮かぶ平和』公式サイト:http://www.peace-tigris.com
10月25日(土)よりポレポレ東中野ほか全国順次公開*
【イベント情報】
ポレポレ東中野にて、以下のトークイベントが予定されています。■10/25(土)13:00の回上映後
綿井監督×森達也さん(作家・映画監督)によるトーク■10/26(日)13:00の回上映後
綿井監督×池田香代子さん(翻訳家)によるトーク■10/28(火)13:00の回上映後
「私が取材した〈イスラム国〉」
横田徹さん(報道カメラマン)によるトーク
イラクで起きている出来事は、「他国で起こっている、かわいそうなこと」では済みません。映画の「自衛隊を派遣した日本にも責任がある」という台詞が挙げられていますが、つまり、日本にそれを許した私たち国民一人ひとりの責任が問われているのです。集団的自衛権の行使容認によって起きるかもしれない事態を、私たちはどこまでリアリティをもって想像できているのでしょうか。この映画のような情報は、一人ひとりが考え、判断するための大切な材料。表現の自由もまた、私たちがこれからさらに強い覚悟をもって守っていかなくてはならないものです。
「イスラム国」は「奴隷制の復活」を宣言し、少数派教徒の女性や子供を性奴隷にしています。
欧米や日本の中東への介入が「イスラム国」を誕生させた責任があるというのならば、「イスラム国」を壊滅させ、中東全体の人権を守らなければならない義務を果たすべきだという論理を提示されたら、日本の中東への介入を批判する人々はどのように反論すべきだと考えますか?
従軍慰安婦問題も人権問題ならば、「イスラム国」の問題も人権問題です。
「人権という概念が戦争を退ける」という従来の想定を逸脱した問題に直面させられているのです。
武力による人権の回復という手段を忌避するならば、代案をもって中東の人権問題を解決しなければならない、あるいは人権という概念の限界を認めなければならないでしょう。
ところで従軍慰安婦問題を通じて人権問題に欧米が厳しい姿勢を示していますが、それは「イスラム国」の存在を見込んだものであるように思えてなりません。