福島第一原発の事故後、各地の脱原発集会やデモで、司会やスピーチに飛び回っている女優の木内みどりさん。「脱原発のためなら、私にできることは 何でもやる」と語る、その強い思いの源泉はどこにあるのか。3・11以前を振り返りつつ、お話しいただきました。
インタビュー終了後、iPhoneを使って「ツイキャス」で実況中継をする木内さん
女優 1965年、劇団四季に入団。1969年、TBS『安ベエの海』でドラマデビュー。その後も、映画・テレビドラマ・舞台に数多く出演し、コミカルなキャラクターから重厚感あふれる役柄まで幅広く演じている。『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』など、数々のバラエティ番組でも活躍。女優業の傍ら、坂本龍一氏と共に、チベット文化の維持・継承をサポートする「ノルブリンカ・ジャパン」を設立し、社会貢献運動も行う。3・11以降は、脱原発集会の司会などを積極的に引き受け、勢力的に活動をしている。twitterでも発信中。水野木内みどり @kiuchi_midori
「私にも責任がある」
そう気がついて動き出した
編集部
木内さんは、脱原発について積極的に発言をしたり、地方選で脱原発を公約に掲げる候補者の応援をしたり、さまざまな活動をされていますね。日本の芸能界では、自身の社会的スタンスや政治的スタンスを明らかにしない人が多い中で、女優である木内さんは、ご自分の考えをはっきりとおっしゃっている。そもそも、そうした発言や行動のきっかけは何だったのか、お聞かせください。
木内
きっかけは3・11です。福島第一原発事故後、何が起きているのか、原発がどうなっているのかもまったくわからなくて外出もできず、悶々としていた時期があったんですね。そのときに「たね蒔きジャーナル」(MBSラジオ)の小出裕章さんのお話を聴くようになって、そこだけおいしい酸素があるみたいに感じて、毎日聴いていたんです。iPhoneにも落として、何度も何度も繰り返し聴くうちに事の次第がだんだんわかってきて、それと同時にテレビのニュースも新聞もあまり信じられなくなり、ウェブでの情報を拾うようになっていったんですね。
そうして半年くらい経った頃でしょうか。小出さんが、原発政策は「国を挙げてやってきたことだから、騙されてもしようがないけれど、騙されたあなたにも責任がある」と。「騙されたことを認識しないと、また騙される、また事故が起きる」ということをおっしゃっていて、その言葉にハッとして「私にも責任があるんだ」というふうに自覚したんです。
というのは、私の夫の水野誠一は、2001年の静岡県知事選に出ているんですね。私はそのときは政治のことなんか何もわからないし、最初は「絶対嫌だ!」と大反対したんですけれど。どうして彼が県知事選に出たかったかというと、彼の父親の水野成夫は、静岡県の浜岡町(現在は御前崎市の一部)の出身で、フジテレビを設立したり、産経新聞の社長をつとめたりしたのですが、1960年代に浜岡原発の誘致をするときに協力した人なんです。ところがチェルノブイリの原発事故が起きたことで、息子である水野は「浜岡だって危ないんじゃないか」と危機感を持って勉強をし出したんですね。
県知事選出馬の話が持ち上がったのは、水野は当時、参議院議員だったので、政治がわかっていて、マーケティングがわかっていて、人柄としてもクリーンだということで、地元の学生と主婦が頼みにきたわけです。だからバックも何もなかったんですが、水野は、浜岡原発を止める「いいチャンスだ」と、せっかくチャンスがあってお願いされているのに、「僕は逃げるわけにはいかない」と言ったんですよ。それはやっぱり「人としてかっこいいな」と思ったので、私もひと夏、選挙のためにものすごく頑張ったんです。
編集部
県知事選のときは、水野さんは浜岡原発の危険性を正面切って訴えたのですか?
木内
はい。静岡空港建設反対と浜岡原発停止を言ったんですが、浜岡の話をすると、場がシラーっとなって、人がすーっと引くのがわかるんですよ。私もそのときは原発のことをまったく理解していなかったから、側で聞いていて「また難しい話をし出した」みたいな。「ねえ、浜岡の話題はやめない?」なんて言っていたくらい、わかっていなかったんですよね。
結局、選挙は現職にダブルスコアで負けて、そのとき身に沁みたのは、有権者のみなさんの県政への無関心ぶり。私は原発の話はしなかったけれど、福祉政策とかいっぱい訴えたんです。でも、全然手ごたえがなくて、この無関心ぶりはすごいなって。
あと、選挙の結果が出た後で、地元の財界の人たちから「もっとうまくやれば勝たせてやったのに」みたいな話も聞いたりして、私は政治の素人ですから、そういう選挙のあり方に「なんて嫌な仕組みなんだろう」と絶望したんです。それで政治とか選挙とか、どんどん嫌いになってしまって。
編集部
それから10年後の2011年3月11日に、福島第一原発事故が起きた。
木内
事故が起きてから「ああ、本当に起きちゃったんだ…」と。そこに小出さんの「あなたにも責任がある」という言葉が心に響いて、静岡県知事選のときに、もう少し原発の問題を理解して動いていたら、ちょっとは違っていたかもしれないという思いが、一気にわき上がってきたんですね。「私にも責任がある」って気づいてしまったんだから、「できることは全部やるぞ」と決意したのが、今やっているいろいろな活動のはじまりです。
国内外の脱原発運動に参加して
編集部
現在は脱原発集会の司会ほか、多彩な活動をされていますね。
木内
ツイッターで発信したり、脱原発集会に参加したりしているうちに「司会をしてください」とか「官邸前抗議でスピーチをしてください」とか、そういう機会がだんだん増えていきました。
その流れで、この4月にロンドンの日本大使館前での脱原発集会で、英語でスピーチというのを大胆にもやってしまったんですけれど(笑)。その脱原発集会では、キャサリン・ハムネットという著名なデザイナーもスピーチをして。30年くらい前、彼女が来日したときに私は雑誌で対談をしているんです。そのとき彼女がプレゼントしてくれたTシャツには「WORLDWIDE NUCLEAR BAN NOW」というメッセージが大きなロゴで書いてあって、かっこいいTシャツなんですけれど、当時はそのメッセージが全然わからず、わかろうともせず着ていたんですよ。
それで3・11後に、「あっ」と思ってTシャツを見てみたら、「全世界のすべての核を今すぐ禁止せよ」という意味だったことに気がついたんです。そこでまた、彼女がこれをくれた30年前に、今やっているように全身全霊で反対運動をしていたら、原発をめぐる状況はどうなっていただろうという思いが、ますます自分の中で強くなっていったんです。
編集部
ロンドンの脱原発集会では「私の人生は、福島の事故後に完全に変わり、脱原発のためにできることはすべてやろうと決心した」とスピーチをしていますね。
木内
だからね、3・11以前の私から見たら、もうとんでもないことをしているわけで、そういう流れになってしまっている自分に、いちばん驚いているのは自分だし、怯えているのも自分なんです。でも勇気を出してやればやれないことではない。それに、私はどこの組織にも所属していないし、自分の考えを自由に言えばいいんだから、ひとつずつやっていくと、それなりに達成感はあるんですよ。ロンドンの脱原発集会では、キャサリンがものすごく喜んでくれて「一生友だちでいよう」って言ってくれたり。
あとはアメリカに「NUCLEAR HOTSEAT」という大きなウェブサイトがあって、これはスリーマイル島の原発事故後に立ち上がったサイトなんですね。そこが3・11の3年目に、ポッドキャストで福島特集を世界に発信するというプロジェクトを組んだんです。それで小出さんや山本太郎さんや水野の他、私も「インタビューに答えてください」と言われて、「私ごときが」とためらったのですが、自分の気持ちを喋ればいいんだと思ってお話ししました。
編集部
木内さんの、脱原発を訴える活動は、日本国内だけでなく、世界にも広がっているんですね。
木内
でも、いろいろやらせてもらって思うのは、デモや集会のやり方ももっと考えなきゃいけない。私もデモに行ったり、座り込みに行ったり、署名したり、お金を寄付したり、お金を集めたり、やって、やって、やって、やって…。だけど、やっているうちに「なーんにも変わらないじゃない、デモを何万回やってもおんなじじゃないのーーーっ!!!」というもどかしさが大きくなっていったんですね。
「さようなら原発1000万人アクション」という集会でも、私は何回か司会をしていますが、例えばデモをするときでも、せっかくノーベル賞作家の大江健三郎さんが先頭を歩いてらっしゃるのだから、「KENZABURO OE」とプラカードを出したり、動画に英語のテロップを入れたりすれば、世界の人が見てくれるじゃないですか。デモや集会のやり方や発信の方法を変えていくことは、本当にこれからの課題だと思います。
原発や政治について、
「言えない」社会の空気
編集部
一方で、脱原発に向けて、行動する人々は多数派とはいえません。それは社会の中に、政治的な話をするのはタブーだというような空気が漫然とあるからではないでしょうか。原発の話題を出すと「引かれるんじゃないか」と思ってしまったり、若い人たちからも「友だちと政治の話はしにくい」という声を聞きます。
木内
たぶん、1人1人が自分の足で立っていないんだと思うんです。誰かが褒めてくれたり、誰かが認めてくれたり、何かの会に所属したり、支え合っていないと倒れてしまう人が多いというか。だから、原発再稼働はおかしいと思っても動けなかったり、「こんなこと言ったら嫌われるんじゃないか」と気にしてなんにも言えなくなってしまうんじゃないですか。
もともと私は1人で行動するのが好きなんですね。小学生の頃からヘソ曲がりで、学校の集団行動も大嫌いだった(笑)。3・11以降「できることは全部やる」と決めてからも、グループ活動は苦手なので、動くのはいつも1人。だから考えも誰とも似ていないと思うんですよ。知識の足りないこの自分の頭で判断しているので。その代わり、本当に知りたいことを知ってきたから、私はこの考えで最後までいこうと思っています。
編集部
本来はそうやって組織や会に属さない、それぞれ自立した個人がつながっていくのが理想ですね。どんな運動でも人と人の結びつきが生まれますから。木内さんは、原発問題に関わるようになって、交友範囲もずいぶん変わったのではないですか?
木内
3・11前と後では、友人はかなり入れ替わっちゃいました。「なんだかすごい頑張っているのね…」みたいな、冷やかな言い方をする友だちは「もう会ってくれなくてけっこうです」って(笑)。私のほうで、そういう人たちは色あせてしまったんですね。あれだけの事故が起きて、原発の危なさが見えたのに、全然興味を持たないでいられることが、私にはわからない。
編集部
芸能界に限らず、私たち一般社会においても、なかなか、政治や原発の話題は出しにくいわけで…。でも、何かきっかけをつくって、話しかけていくことは大事ですね。
木内
そう、先日も友人のお誕生日会で久しぶりに会った知人がいるんです。彼女は、政治に関してしっかりとした自分の考えを持っているので、せっかくの会なのに、2人で「いや、そうじゃない!」「私はそうは思わない!」なんて、ちょっと言い合いになったんですね。でも、おたがいの意見は違うけれど、彼女は「こういう場で政治の話をするのは初めて」と言うんです。「本当はこうあるべきよね。日本の女の人はやらなさ過ぎ。そこは問題だから大いにやりましょう」と言っていました。だから、私もひるまずに、原発のことを聞いてくれそうな人がいたら、どこでもどんどん喋ろうと思うんですよ。
3・11のあと、さまざまなデモや集会で木内さんの姿をお見かけしました。「脱原発のためなら何でもやる」とおっしゃる言葉のとおり、並々ならぬ「決意」を感じます。その2では、そして原発再稼働や集団的自衛権行使容認などに向けて突き進む安倍政権と、それを後押ししてしまう「時代の空気」についてもお話を伺います。
「原発や政治について『言えない』社会の空気」。この下りにはとても危機感を抱く。政治と民意の乖離を生じさせる大きな原因の一つと考えられるからだ。言いたくても言えないどこかの国とは違う。言えるのに言わないのだ。 「子どもたちは、意見を言うと後でどうなるか、という不安や失敗恐怖が渦巻いていることが多い」と指摘する心理学者。 また、非暴力抵抗運動の先頭に立って闘い、志半ばで凶弾に倒れたアメリカ公民権運動の指導者キング牧師。「『人は発言する』ことにのみならず、『発言しない』ということにも責任を持たなければならない」。「最大の悲劇は悪人の圧政や残酷さではなく、善人の沈黙である」と述べる
民主主義は国民一人一人の「思考停止」を予定していない。この空気は民主主義を崩壊させる毒性を含んだ危険なものだ。民主主義はあくまでも手段であって目的ではない。目的を見失い、間違うと民主主義は魔手と化し国民に襲いかかってくる。これは歴史の教訓である。
「主権者教育」を急がなければならない。これは景気回復で醸成される代物ではない。
みんな自分がかわいいのでしょう。しかし、そこで一歩進めて「こんなことでいいのか」と自問しどういう形でかかわるか考えをすすめる中で人間の考えは脱皮し成長していくのではないか。思考を停止すると、個人だけでなく国家もそのしっぺ返しを被ることになるのは歴史の常です。3.11を経験しもう沈黙は許されません。すぐに行動できない人でも一歩いっぽ脱原発にむかって行動することが大切だと思います。
はじめまして。
いつもこの地球や私たちのために
活動をしていただきありがとうございます。
私も安心安全な地球を残したいと思う、そのために出来ることをしたいと思う者の一人です。
やっていることと言えば、
節電や私が私を愛すること小さな積み重ねを勇気をもって地道にやっていくこと
のみですが。
これは私の個人的な意見ですが、
反対するとさらに反発がくるのは
当然のことではないでしょうか?
だから私は原発賛成の方のお考えと気持ちも自分の気持ちも大切に
理解したいと思います。
原発賛成派も反対派も
何を願ってのことなのか?
突きつめれば、おそらく願いは同じではないかと思います。
これからもどうぞよろしくお願いいたします。