「9条のせいで”国際貢献“ができない」という論理を、きっぱりと否定する伊勢崎さん。では、9条を持つ日本が平和構築のために担うべき役割とは何なのか。そしてそのために、私たちがまずすべきことは何なのでしょうか。
1957年東京生まれ。大学卒業後、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動に携わる。国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シェラレオネ、アフガニスタンで紛争処理を指揮。現在、東京外国語大学教授。紛争予防・平和構築講座を担当。著書に『東チモール県知事日記』(藤原書店)『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)などがある。
平和憲法は、一句一文たりとも
変えてはならない
編集部
伊勢崎さんは、ご著書の『武装解除』の中で、かつては改憲、つまり「第9条を、“日本軍”の平和利用のためにさらに厳密に改定することが、日本が他国の一般市民を殺さないための唯一の方法だと考えた」と書いておられますね。つまりは、自衛隊を平和利用に限定した形で認める項目を憲法に加えるべきという立場だったと。
伊勢崎
9条の問題を考えてみると、その条文と今現実に起こっていることとの間には、ものすごい乖離がありますよね。それを狭めようとすること自体は、まっとうな努力だと思うんです。
現実を憲法に近づけるのか、それとも憲法という最高法規を現実に妥協させて変えるのか、それはいろいろなアプローチがあるでしょう。でも、現実には日本の思惑とは関係なく、あちこちで紛争は起こっている。それに、僕も紛争地において国際貢献の現場で活動しているときには、やっぱり日本にもっと頑張ってもらいたい、なぜ日本は自衛隊を出せないんだと思ったし。そのためには最高法規を変えるというのもありなんじゃないかと思った時期があったんですね。
編集部
でも、その後に今のご自身の考えとして、「現在の日本国憲法の前文と第9条は、一句一文たりとも変えてはならない」とも書いていらっしゃいます。その変化は、どこから起こったものなのでしょうか。
伊勢崎
きっかけは、やはりアフガンで武装解除をしていたときに起こったイラクの開戦と日本の自衛隊派遣を知ったことです。
きつい言い方だけど、「民度」という言葉があります。日本のそれが、軍事的なものに関してはあまりにも低すぎると感じたんですね。これは「右」も「左」も、どちらにも言えることだと思います。
軍事的なことに対する
「民度」の低さ
編集部
それは、具体的にはどういうことですか。
伊勢崎
軍事というものに対する意識があまりにも低い、ということです。たとえば、おそらく日本の国民の多くは、自衛隊が国連のPKOに参加することと、アメリカ軍に協力して活動することとの違いもわかっていないでしょう。しかし実際には、その二つは全然違うんですよ。
一番大きいのは法的な保護ですね。たとえば、僕が東ティモールやシェラレオネで国連職員として活動していたときには、国連のパスポートをもらっていた。いわゆるディプロマティック・イミュニティ(外交特権)です。つまり、現地で活動を進める上で何か現地の法に触れるようなことになってしまった場合、現地の法からは罰せられない。もちろん違法行為を何でもしていいという訳ではなく、国連の内規で罰せられますけど、少なくとも現地警察に捕まって裁判にかけられる、といったことからは一応保護されている。これは、国連PKFに参加している兵士についても同じです。国連に部隊を派遣するということは、国連にその指揮権を委ねるということ。だからこそ、国連はその兵士に対してイミュニティを与えるんです。
編集部
国連軍への参加ではなく、アメリカ主導の多国籍軍に協力するという形で自衛隊が派遣されたイラクの場合は、そうした「特権」はなかったわけですよね。
伊勢崎
当時のアメリカの司令部が、イラクの暫定政権とどういう取り決めをしていたかはわかりません。でも、当時日本政府の答弁では、自衛隊は「アメリカの指揮下には入らない」と言っていたでしょう。ということは、仮にアメリカの司令部とイラク暫定政権の間に合意があって、何らかのイミュニティ的なものがアメリカ兵に与えられていたとしても、自衛隊はそこには含まれていなかったことになる。じゃあ、自衛隊はどうなるのか。どこにも所属していない、何の保護も受けない、いわばゲリラ部隊だったことになるじゃないですか。
だから、自衛隊員が活動上何か現地の法律に触れることをしたら、あるいは犯罪に巻き込まれていたら、現地の警察に捕まってしまったかもしれない。こんな議論を、自衛隊を出す前に日本国内でしましたか? 2年前、イギリス軍がイラクで、現地の治安部隊に拘束された兵士を奪還するために警察署に戦車で突っ込んでいった事件があったけれど、それと同じようなことが起こっていたかもしれない。自衛隊員たち自身がそういうことを一番よくわかっていた。彼らが宿舎に引きこもって何の活動もしていなかったと非難されたけれど、それは、この無茶苦茶な任務の完結とは、とにかく自分たちが無傷で帰還すること。これをちゃんとわかっていたからですよ。
そういうことが、まったく議論もされないし報道もされない。野党も追及しない。自衛隊を派遣したことが、本当に現地の人々の役に立ったのか。これは、ただ「役に立った」と、地元の穏健派の証言を集めることじゃない。費用対効果の問題。同じ給水事業でも、民間の建設業者に、民間の武装警備を付けて委託した場合との値段の違いは? 実は、自衛隊がサマワでやったぐらいのことを、わざわざ“官軍”にやらせるのは、既に時代遅れになっているのですが…。わざわざ自衛隊を送ってやらせた、費用対効果以外の効果とはいったい何だったのか?
編集部
たしかに、派遣した後もそういった議論は非常に限られていたと思います。
伊勢崎
軍事に対する民度が低い、というのはそういうことです。そういった状況では、たとえ「平和利用に限る」という一文を入れたとしても、9条を変えるという行為をした途端、歯止めがきかなくなるんじゃないかと思うようになった。「平和利用」というのは拡大解釈できますからね。アメリカはそうやって、「平和のために」といって戦争をしたわけですから。
今、もうその兆しは見え始めているんじゃないでしょうか。安倍首相がNATOの理事会で、PRT(地域復興支援チーム)への人的支援を言い出したり(注)ね。あんなの、考えるまでもなく違憲に決まっているんですが。
注)PRTへの人的支援:PRTは、軍と文民の支援専門家を一体化させた支援形態のことで、NATOがアフガニスタンで展開している。2007年1月12日、安倍首相はブリュッセルで開かれたNATO理事会で行った演説の中で「PRTが実施する人道活動との協力強化、日本の支援活動とPRTの支援活動のさらに深い相乗効果の追求」などを掲げ、アフガンPRTへの人的支援を示唆した。
保護する責任よりもまず、
予防する責任
編集部
さて、2007年の新年に再放映されたNHKのテレビ番組『未来への提言』を興味深く拝見しました。100日間で80万人が殺されたルワンダの大虐殺の際、国連ルワンダ支援団(UNAMIR)のPKF司令官を務めていたカナダのロメオ・ダレール氏とお話をされていましたね。その中で、伊勢崎さんが「紛争が起こっているさなかには、外部の国々から介入しようがない。介入は戦いが終わった後にしかできないもので、それには大きな軍事力は必要ない」とおっしゃっていたのが印象的でした。
伊勢崎
戦いのさなかには、「中立」という概念はありませんからね。「中立」という概念が効果を発揮するのは、戦いの双方に、中立性のある人の意見を聞きたいという気持ちが少しでも芽生えてからです。それまでは、双方の戦力を足したのよりまだ上回るような、膨大な戦力を用いて力づくでやめさせるしかないけど、国益のないところでそこまでのリスクを冒して介入しようという国はありませんよね。だから、多くの場合は傍観することになる。
編集部
でも、それはつまり「見殺し」にはつながりませんか。
伊勢崎
そこはジレンマですよね。たとえばシェラレオネは、僕は内戦前にも家族と一緒に暮らしていて故郷のような国ですが、10年間で50万人が殺されました。国際社会の責任ということを考えれば、介入できる余裕が10年間もあったのにできなかったという意味で、100日間で80万人が死んだルワンダよりも、さらに複雑な教訓を提示しているといえるかもしれません。あれを止められなかったというのは、もちろん僕ひとりの力ではどうしようもなかったことだけど、心の傷になって残っています。
そこで今、ダレールさんが推し進めようとしているのは「保護する責任」ということですね。ある国の中でジェノサイドなどが起こっていて、その国家がそれを意図的に見過ごしたり、あるいは荷担していたりする場合には、その国家の主権よりも国際社会がその国民を「保護する責任」のほうが上回る。国家の安全保障ではない、人間の安全保障のために、国際社会は、その責任を果たして、武力の使用を厭わず介入する義務があるんだ、というんですね。
これは主権万能主義に対する挑戦だけど、もちろん危険性もあります。たしかにルワンダはその「保護する責任」が果たされなかったために80万人が殺されたわけだけど、アメリカは同じように「保護する責任」を言ってイラクに介入した。誰がその「責任」を口にするかによって状況はまったく違うわけです。だからダレールさんは、それを大国ではなく、他国を侵略してまで利害を追求するギラギラした意思のない「ミドルパワー(中堅国家)」の国々─つまりカナダや日本─がやるべきだ、と言っているんですね。
編集部
伊勢崎さんご自身は、その論理に対してはどうお考えですか。
伊勢崎
僕自身は、それにも異論があります。保護する責任というのは同時に、武力を行使することも厭わないということですから、国連待機軍を結成すべきだとか、そういう話がまず出てくることになってしまう。そうなれば、保護する責任の前にあるはずの「予防する責任」のほうがなおざりになってしまうんじゃないかと思うんです。
本来は、「予防する責任」のほうが明らかに上位概念であるはずなんですね。保護する責任というのは、それが壊れたときの最後の手段でしかない。それなのに、保護する責任をあたかも第一のように持っていくのはおかしいんじゃないかと思うんです。
武力は和平を達成しない。その事実は明らかです。武力で一時的に争いを止めることができたとしても、その後に和平を達成するのはあくまでも非武装の政治的交渉です。武力を使わざるを得ないのは、紛争が起こらないようにする「予防」も含めて、非武装での平和構築に失敗したときだけなんですよね。
軍事を直視しない限り、
平和は達成できない
編集部
9条を抱える日本が、国際社会において果たすべき役割のヒントはそのあたりにあるのでしょうか。
伊勢崎
おそらく日本は、今言った「予防する責任」のほうで力を発揮できる、希な国だと思います。経済力がある、政治的な「色」もつきすぎていない、そして憲法9条がある…。その意味では、僕は日本にはまだ期待しているんです。残念ながら現在までやっていることはそのまったく逆だけれども(笑)。しかし、アフガンで軍閥の武装解除が成功したのは日本がやったからです。その責任者だった私はよく、軍閥に「日本の指示だから従う」と言われました。彼らは日本が経済大国であると共に、戦争をしない人畜無害な国だとちゃんと感じ取っている。この日本人の「体臭」は9条が培ったものです。なぜそれをもっと利用しないのか。国際紛争の調停に、日本ほど向いている国はないのに。
だけど、今の日本の「護憲派」と言われる勢力を見ていると、そういった方向にもそれほど期待はできないかな、と思うことがあるんですよ。
編集部
それはどういう点についてでしょうか。「護憲派」は今、何をするべきだとお考えでしょうか?
伊勢崎
前回も少し言ったけれども、「軍事を否定することが平和につながる」というパラダイムではいけない、ということです。平和を築くためにはまず、軍事というものを直視しなくてはいけない。それなのに、平和というのを、あたかも軍事に対して目をつぶることと取り違えている人が多すぎるんですね。
軍事力で平和は築けません。軍事そのものを否定することもまた、“平和をつくること”には現実的につながりません。「軍事」とか「自衛隊」とかに関することは何でもだめだと頭から否定するんじゃなくて、まず軍事というものを直視して、その意味をきちんと理解した上で、何が必要なのかを判断する。そうした姿勢があってこそ初めて、非武装による平和構築が可能になるんです。9条という、このユニークな憲法を持っている日本がやるべきことは、まさにそういうことなのではないでしょうか。