映画、テレビ、舞台と幅広く活躍してきた女優の木内みどりさん。
3・11以降は、脱原発についても積極的に活動しています。
脱原発への思いや憲法のこと、政治や社会参加についてなど、
日々の暮らしや活動のなかで感じていること、気になっていることを
「本音」で綴っていただきます。不定期連載でお届けします。
第39回
週刊新潮さま、おかげさまで
「週刊新潮」(11月10日神帰月増大号)に、わたしのことが書かれた記事が載りました。
タイトルは、「脱原発のマドンナ『木内みどり』が『市民運動ってなんて面倒くさいのっ!』」。
原稿チェックもなしで、いきなり誌面に掲載…と言う乱暴さに驚きましたし、どこから引っ張ってきたのか、わたしの写真入りですし、「脱原発のマドンナ」というレッテル貼りには、ゲンナリしました。
記者さんの取材に2時間近く答えて、掲載されたのが、これです。
「週刊誌」なのだから早いスピードで事が運ぶのは当たり前か、と無知な自分に気づきましたが、でも、やはり一応の原稿チェックはさせてほしいものと腹がたちました。やりきれないムシャクシャした気分でいたら、「取材御礼」と書かれた銀座ウエストの洋菓子「リーフパイ」が届きました。家人が受け取ってしまったのです。
いつもは好きなリーフパイですが食べる気にはなれません。
週刊新潮は、取材した人には「お礼」として、どなたにでも銀座ウエストのリーフパイ・36枚入り¥5,000を送るのでしょうか? これも乱暴なやり方です。
週刊新潮、嫌いになりました。
主人の水野誠一が、「身内」が「週刊誌」に書かれたのですから、一応の見解としてFacebookにこう書きました。
昨日発売の「週刊新潮」に、みどりの取材記事が載った。
タイトルは「脱原発のマドンナ『木内みどり』が『市民運動ってなんて面倒くさいのっ?』」
びっくりされた向きもあるかもしれないので、身内として少々長文ながら解説をしよう。事の発端は、彼女が四年間に渡ってやってきた、「さようなら原発・1000万人アクション」での司会を直前になって降りてほしいと言われたことだ。
間違って欲しくないのは、彼女は完全にボランティアでやってきたので、仕事を降ろされて怪しからんと言っているわけではない。むしろ、その代わりにスピーチをしてくれと言われたことに、戸惑いを感じたと言った方が良いだろう。
彼女の信念は、「何事も自分のできること、自分の得意なことで貢献する」ということであり、それは司会という役割であって、原発の是非について語るだけの知見も意見も持たないから、スピーチをすることは自分にとってふさわしい役割ではない、と思っているのだ。そもそも、僕が2001年の静岡知事選に、東海地震の前に浜岡原発を停炉したい、と訴えて出馬した時に、応援してくれた彼女は、原発の危険性を全く理解しておらず、「あなたが原発のことに触れると、聴衆が皆引いてしまうから、空港反対だけを訴えた方がいいわよ」と言っていたくらいだった。それだけに、311が起きた時は、「あの時あなたが言っていた原発の危険性がようやくわかった」と、深い反省を語っていた。
そんな経緯もあり、彼女が311の原発事故で居ても立っても居られない思いで、密かに単身で参加したデモ行進がきっかけだったが、結果、世話人でもある鎌田慧氏に司会を頼まれて全てが始まった。
さすがプロの、しかもウィットと魂のこもった語りかけに、多くの絶賛や、考えられないほどのカンパが集まったり、呼びかけ人の澤地久枝、落合恵子、大江健三郎さんたちからも、高い評価と感謝の声をいただき、彼女もやり甲斐のあるボランティア活動として張り切っていたわけだし、相変わらずシュプレヒコールとデモだけに頼る古い手法に、色々な提案を出したりもしていた。だがこの集会、幾つかの団体が共同で行うものであるため、彼女がずっと司会をすることに面白くない人々も当然居たはずだ。前にも一度、数万人が集まった集会の時に、突然途中から違う人が司会をするということを告げられたりもしたことがあったらしい。
僕としては、それを信じて集会を続けている人のやりかたを変えることは原発を止めること以上に難しいのだから、そこに深入りせずに、「我々は、それぞれ出来ることをして、原発の廃止を目指そう」と、日頃から語っていただけに、好いきっかけになったと思っている。
どんなに崇高な活動でも、三人以上の人が集まれば、主導争いや意見の相違が生じるのが人間の性というもの。
市民運動に限らず、政治でも、経済においても、人間社会って面倒臭いものなのだ。
私自身は「市民運動」をしているなどと思ったことは一度もありません。
ただ、原発、原子力発電は危険過ぎるからイヤ、今すぐにでも全部の原子炉を停めて廃炉に向かってほしいと思い、自分にできることをしているだけなのです。
だから、この週刊新潮の記事の書き方は多いに不満です。
これをきっかけに自覚したことは、「原発はイヤだ」から、「原発的な考え方・感じ方・生き方がイヤなんだ」ということ。
週刊新潮さま、おかげさまで「自分」をよりはっきりさせることができました。
残り少ない人生、これからも「原発的な」ものにははっきりと、
NO!
と言える自分でいたい。
この週刊誌の記者がどんな意図で書いたのかはわかりませんが、たとえ同じ言葉を引用していても、記事のタイトルや文章の組み立て方によって、読んだときの印象は変わってくるもの。メディアはそうした印象を意図的に操作することもできるものだということを、書き手としても読み手としても忘れてはならないですね…。〈市民運動に限らず、政治でも、経済においても、人間社会って面倒臭いものなのだ〉の言葉には、大きくうなずいてしまいます。
新聞の記事見出しを見たときは、またやっちゃたかプロ市民運動家たちよって思いましたが、この記事を読んで一安心しました。
週刊新潮はすべての記事見出しを意図的に作ってるって思っててもこうやって書かれるとそれに沿った印象を持っちゃいますね。気を付けます。
原中和滋さま
コメント、ありがとうございます。
週刊新潮の記者さん、その後、お手紙をくださいました。
すみません。新潮の記事は読んでいないのですが「市民運動も民主主義もめんどくさいのはあたりまえじゃん」と思っていました。会社じゃないので、合意形成に時間をかけて、進んでいくべきなのが市民運動や民主主義だから。でも、これを読むと、そんな内容じゃなかったみたいですね。
鶴田雅英さま
コメント、ありがとうございます。
書かれた人が激怒するくらいの記事が読者に喜ばれる記事だそうです。
来年3月、先の話しですが、
「脱原発1000万人アクション」から代々木公園での大きな集会の司会を依頼されました。
今まで通り、
いえ、今まで以上に情熱こめて司会するつもりです。
週刊新潮は原発推進というより、反対派に対する中傷や冷笑記事が多いイメージがあります(嫌いで読まないのであくまでイメージですが)。政権の意向に沿って反対勢力を分断し、我田引水するのが狙いというのは穿った見方でしょうか? 市民運動については、同じ志を持った者同士が小異から反発し、大同につけないとしたら本当に残念です。そんな中でも挫けず頑張っていらっしゃる木内さんには頭の下がる思いです。