映画、テレビ、舞台と幅広く活躍してきた女優の木内みどりさん。
3・11以降は、脱原発についても積極的に活動しています。
脱原発への思いや憲法のこと、政治や社会参加についてなど、
日々の暮らしや活動のなかで感じていること、気になっていることを
「本音」で綴っていただきます。不定期連載でお届けします。
第23回
フジロックと小林節と辻井喬
7月26日、「フジロックフェスティバル」に行って来ました。観に行ったのではなく出演しに、です。
新潟県の苗場スキー場。新幹線で「越後湯沢」まで。そこから迎えに来てくださったスタッフの大久保青志さんの案内で会場へ。この大久保青志さんは「さようなら原発1000万人アクション」のメイン・スタッフでもあり、わたしはここ3年ちょっとの間にいろいろな集会でご一緒するので、もう、「仲間」のような親しさを感じるようになっています。
苗場プリンスホテルのロビーで「アーチスト」枠のリストバンドをもらいました。これはフジロックフェスティバルに「出演」する人専用のものなので、ファンにとっては憧れの「リストバンド」なのだそうです。全会場を自由に歩ける通行パスです。
わたしの出演は、午後3時からの「アトミック・カフェ」。2011年3月11日の東日本大震災を受けて「原子力発電」について考えようと設けられ、続けられてきたステージです。
「tsudaる」という言葉にもなった、ジャーナリストの津田大介さんが総合司会。「tsudaる」とは、「記者会見や発表会、または事件性や話題性の高いイベントなどに出席して、現場の状況を、あたかも実況中継のように次々とTwitterのタイムラインへとtweet・投稿すること」。
この津田大介さんとお会いするのは2度目のわたし。1度目はあの「小林よしのり」さんが主催する「ゴー宣道場」でした。思えばあの頃がわたしにとって「分かれ目」だったのかも…と、今、思い返して、そう、感じます。
「普通の女性の立場で話して欲しい」という小林よしのりさんからのお誘いを、頑なにお断りしていたのですが、専門家でなく推進派でなく反対派でもない「現状に不安を感じている普通の女性」としての感覚が欲しいのです、と何度も熱心に誘ってくださいました。独特な訛りの小林よしのりさんご本人との会話が、ふと、楽しいものに感じた頃、「一体なに様だと思ってるの?」という自分への質問が心に浮かびました。
「役立つ」から「来て欲しい」と誘われお願いまでされてるのに「逃げるのか自分?」という質問。「ここで逃げては『女がすたる』んじゃないの、あなた!」って言葉が浮かぶ頃には、頑なな拒絶は緩やかにほぐれて、こんなわたしでお役に立つのなら…と素直に受け容れていました。
不安なままだったけれどあの場に参加してよかった。
公の場で自分の本音を語ること。素直に語れば素直に聴いてもらえ、反応が返ってくる! 反応が返ってくるから、反応し返す。どんどん話が弾み、展開し、どこかへ着地する。やってみないとわからないことは、「怖がらず恥ずかしがらず」やってみればいいのだ。
この時、同じく初めて出演された津田大介さん、城南信用金庫の元理事長・吉原毅さんと知り合いました。その後、違う場所で再会すると「あ〜〜あの時はお世話になりました」と懐かしく、まるで、一緒に旅でもした仲間のよう。やはり、「役立つから来て」と請われたら「怖がらず恥ずかしがらず」、前に進むことが大切と、今、改めて心に刻みたいと思います。
さて、アトミック・カフェ。
津田大介さん総合司会で、バンド「シアターブルック」を率いるミュージシャン、佐藤タイジさんとわたしでトーク、とのこと。佐藤タイジさん、初めて知るお名前でした。ネットで調べて調べて調べているうちに、「なんて素敵なミュージシャン」と分かってきました。2011年3月11日を境に、タイジさんは自分のやりたい「音楽」と「原子力発電」というものに正面から立ち向かったのでした。そして、なんと、太陽光発電だけで賄うロックフェスティバルを企画。タイジさんは「武道館」でそのライブを成功させたのです。
タイジさんが提唱し、たくさんのミュージシャンの心を動かしスタッフ・営業・観客の心までを動かして、ついに、「THE SOLAR BUDOKAN 」(2012年12月20日)。太陽光発電で得た電力だけでのライブ、しかも武道館。前代未聞のライブを成功させた、佐藤タイジさん。
武道館で初めてロックを唄い叫んだのは「The Beatles」で、1966年6月30日、7月1日、2日のこと。当時、16歳だったわたしはこの時、武道館の3階席で、John Lennonその人の姿に痺れていました。その武道館で初めて「太陽光発電だけでライブを成功させたひと」が佐藤タイジさん。
日本の音楽史上、歴史に残ることだと思います。
さてさて、まずは「シアターブルック」の演奏、ライブ。
わたしはバックステージで見ていました。メンバーとタイジさん、一人ひとりが握手をして心を合わせてからステージに進んで行くのを目撃しました。一曲目を終えてから奇跡的な瞬間が。
客席にひと言ふた言タイジさんが言うと大きくうねる、のです。お客さんの歓声で聞き取りにくかったのですが、こんな風に言っていました。
「もっともっと叫べ! フジロック最終日なんだぜ、帰ったら叫ぶ場所なんてなぁい、ないんだぜ。だから思い切って、さぁ、さ・け・べ!」
ステージギリギリまで近寄ってる人々、その後ろにずぅぅっと連なっている人々が体を揺らし、叫んでいる様子は圧巻でした! わたしも調子づいて、叫び、指笛ピューピューしちゃってました。w
さてさて、トーク。
「原子力発電を卒業することの難しさを踏まえた上で、『反対運動』に固執しないで『賛成運動』していこうよ、楽しく、ね」といった感じでのトークでした。
わたしなりの成果は、9月23日秋分の日に予定されている「NO NUKES、 NO WAR! 」の集会に津田大介さんも佐藤タイジさんも参加してくださると約束してくださったこと。
第21回のコラムでも書きましたが、SEALDsの皆さんが合流してくれることになり、さらに津田大介さん佐藤タイジさんも参加決定! となりました。
なにしろ津田大介さんのTwitterのフォロワーさんは、498、684人!(2015年8月3日午前4時25分現在)、このコラムがアップされる頃にはきっと、50万人を超えていることでしょう。
わたしなりにジリジリと続けていることが、ちょっとした「実り」を見せてくれた瞬間でした。
「中津川 THE SOLAR BUDOKAN 2015」の予告動画はこちら
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小林節さん。今、憲法学者の小林節さんがドキドキするような魅力で際立っています。
そう、思いません? ちょっとでもこころ惹かれると「?」「?」「?」としばし落ち着くところまで追っかけてしまう「気質」のわたし、です。
はい、心をわしづかみにされたのはこの動画なのでした。ほんとは自分だけが知ってることとして取っておきたい、誰にも教えたくないけれど教えちゃいます。
時間がない人は26:00あたりから聞いてください。幼稚園に上がる前の小林節少年とお母さまとの話がコタエます。ここしばらく、小林節さんのことを知りたくて知りたくて。『大学教授になった不登校児―「傷心キッズ」に贈る応援歌』(第三文明社)という本を取り寄せて読みもました。
中学後半から「不登校児」「引きこもり」、ついに高校1年で中退という経歴のわたしには、心が痛くなるほどの「傷心キッズ」の本でした。「こんなに素敵なオトコ」がいるってことを知るだけで、うれしくなります。お会いしたり会話したりすることができなくても、今、この今、同じ状況に、この人も生きているんだって知るだけで元気になります。
2011年3月11日以降、わたしにとって「大切な人」となった小出裕章さん(コラム第1回)。
小出さんに次いで小林節さんも「大切な人」となりました。偶然、おふたりとも1949年生まれ。独特に生きてらして超・素敵。いつの日か、このおふたりが好きなお酒など飲みながら緩やかに会話するなんてこと実現させたい…。企画書を書いて提案してみようかしら。
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そして8月1日には、軽井沢のセゾン現代美術館での「堤 清二・辻井 喬 ふたつの目 オマージュ展vol.2」のオープニングに行ってきました。
「堤 清二と辻井 喬という『ふたつの目』の原点を探りつつ、愛した収蔵作品、全著作、直筆原稿、身近に置いた作品等によって、その稀なる思想と感性を再確認するもの」
わたしの大発見は堤さんが書いた一句、「テロリストに なりたし 朝に 霜崩れる」を知ったことでした。
堤清二さんは夫・水野誠一の義兄弟であり、私たちの結婚保証人でもある親戚。ま、身内としてのお付き合いはありました。が、あまりにも特殊な存在ですから、わたしには遠慮があって、むしろ、こちらから遠ざかってるような、そんな関係でした。
が、2011年3月11日以降、「脱原発」に目覚めたわたしが同じく「脱原発」を表明される堤さんと同じ新聞紙面で真横に並ぶということがあり(!)、また「脱原発」のためにどんな「手」があり得るのかを考えようという趣旨のもと、いろんな立場の方々と会合する場でご一緒したりと、「親戚」としてではなく「脱原発」という同じ想いを抱いてる者同士としての会話がよちよちできるようになった、そんな頃、堤さんは逝ってしまわれました。
わたしとしては、後悔があります。
あんなに遠慮しなければよかった、もっともっとお話しすればよかったと、悔しくて残念でもありました。詩人・辻井喬として、そして同時に経済人・堤清二として生きられた堤さんのきらびやかな人生を彩った、たくさんの展示物の中で、一枚の展示物に釘付けになりました。
「テロリストになりたし朝に 霜 崩れる」
衝撃を受けました。
同じことを感じたことがあるからです。
「テロリストになりたしと思えど 道 遠し」などとノートに書きつけていたのです。堤さんの句の前で自分の無力を全身で感じていました。なんと非力な自分か。この句の前で、堤さんの孤独と自分の孤独を恐る恐る重ねていました。
展覧会では写真を撮ることは許されませんが、その作品の前で立ち尽くしていても、空いてさえいれば、許されます。想像でぼんやりしていても許されます。
展覧会オープニングを記念してのパーティでご挨拶してくださったドナルド・キーンさん。
こんな絶望の日本に帰化してくださったキーンさんは、やさしいやさしいお顔で、素敵でした。
人が少ないウィークデイにじっくり気がすむまで身を置きたい展覧会でした。軽井沢にお出かけでしたら、ぜひ、いらしてください。
東日本大震災以降、さまざまな人たちが、それぞれの場所や立場で活動を始めています。木内さんは、そのなかでたくさんの素敵な人たちと出会ってきたのでしょう。あの3月11日や安保法制の問題がなければ出会わなかった人たちもいたかもしれない、そう思うと複雑な気持ちですが、こうして思いを重ねられたことが「よかった」と、いつか言えるような未来をつくっていかなくてはと思います。