映画、テレビ、舞台と幅広く活躍してきた女優の木内みどりさん。
3・11以降は、脱原発についても積極的に活動しています。
脱原発への思いや憲法のこと、政治や社会参加についてなど、
日々の暮らしや活動のなかで感じていること、気になっていることを
「本音」で綴っていただきます。不定期連載でお届けします。
第16回
人間の鎖
「人間の鎖」、ご存知でしょうか。
1989年8月23日、およそ200万の人々が手を繋ぎました。200万人の人と人が手と手を繋いだその長さ、640㎞。リトアニアの首都・ヴィリニュスからラトビアの首都・リーガ、そこからさらに国境を越えてエストニアの首都・タリンまで。
支配されてきたソビエト連邦からの独立を訴えて、願って、祈って。人間の鎖は確かに、血の通った一本の温かい線としてこの3つの国を貫きました。
写真・動画が残されています。記録映画もあります。
世界が見つめたこの出来事はソビエト連邦を動かしました。それまでの乱暴なやり方では世界が許さないことが明白となり、バルト三国は、後に、独立を勝ち得ました。なにひとつ武器を持たない人間が連帯することで勝利したのでした。
日本リトアニア友好協会会長を務める夫・水野誠一が、この15年の働きに対して、リトアニア外務省から勲章を授与されることになり、わたしは連れとして同行しました。3回目のリトアニア。公式訪問でしたから、ヴィリニュス市内の外務省・文部省・経済省、カウナス市の杉原千畝記念館、クライペダ市庁舎、そして日本大使館と、経験したことがない公の空間で公の時を過ごしました。
強い印象をうけたのが、ヴィリニュスの新市街にあるKGB博物館と慰霊碑と公園。リトアニアは1940年6月ソ連の侵攻により独立を失います。その後、ナチスドイツに占領され、1944年に再びソ連に編入。この1944年から1952年までリトアニア人はソ連と戦い続けました、が、KGB(ソ連の国家保安委員会)の圧倒的な残酷さで、多くのパルチザンと共に一般市民が拷問を受け、殺され、シベリアに強制移動させられたのでした。
博物館では、懲罰房・独房・雑居房・拷問部屋・監視室・通信室と残されていて、中を見学できるようになっていました。時間的にも無理でしたが、こんな恐ろしい建物の中に入る気は毛頭ありませんでした。通りに面した場所に石をたくさん積み上げた慰霊碑があり、そこでしばらく立っていたのですが、女性がひとり、お花を飾っていました。わたしに気づくと「ラシアン、パンパンッ!」と言って右手で自分の頭を撃つ仕草をしました。緊張しました。女性が話しはじめます。
通訳さんによると、或る日突然、KGBが来て家族全員シベリア送りにされたそうです。お父さんがリトアニア軍将校だったことと、お母さんが知識人として有名な人だったことから12歳のお姉さん、9歳のお兄さん、そして2歳だった彼女もシベリアに。苛酷な労働と激烈な環境の下、両親が亡くなり、姉、兄も若くして亡くなり、末娘の彼女だけが生き延びて苦難の連続の人生だと言います。
リトアニア各地から届けられた石を積み上げたこの慰霊碑に、毎月お参りし、お花を供えて「ここで、亡くなった家族と話をしてるの」と優しい顔で言った時、聞いていたわたしの胸は張り裂けそうでした。
1991年、ソ連からの独立を求める抗議が次第に高まり、1月12日(土)の夜から翌13日(日)早朝までの衝突が「血の日曜日」事件となりました。テレビ塔を守ろうと集まっていた民間人の群衆に対して、戦車で囲んだソ連兵士が発砲。少なくとも13人が殺害され140名が重傷を負いました。この時使われたバリケードや鉄条網、巨大なコンクリ塊(戦車の侵入を妨害するための塊)、旗、壁に描かれた漫画やスローガンなどが、きれいなガラスの建物に覆われて残されています。
いくつもいくつもある単語の意味を教えてもらいました。
LAISVE-自由、LIETUVA-リトアニア、LANDSBERGIS-当時の国家元首・ランズベルギス。
このランズベルギスさん、82歳ですが現在も当時のことをお話ししてくれるそうです。
公園の真ん中にはスターリンの像があったそうですが、独立以降はリトアニア国旗が翻っています。
ナチスやソビエト連邦を想起させるものは、一切公の場所から追放されています。軍服や軍帽など「軍」につながるものは着てはいけないという法律もあるそうで、迷彩柄もいけません。
過去の恐ろしい時間を風化させないで、事実は事実として遺していく。同じ過ちを起こさないために、過去の事実から学ぶために、大切に残していく。
肌寒い午後、重い気持ちでした。移動のバスの席で、福島県双葉町の看板撤去の件を思いだしていました。「原子力 明るい 未来のエネルギー」。小学6年生だった大沼勇治さんが考えたこの標語が選ばれて、双葉町の通りに大きな看板として飾られてきました。きっと、どなたも見たことのある看板です。
→連載第3回「震災から3年半ー-『帰還困難区域』を訪れて」
これを双葉町役場が撤去する予算を計上していることが分かり、大沼さんが立ち上がり、撤去反対運動を展開されています。わたしも小さなお手伝いをしています。古びて危ないからというのがその理由なのですが、おかしな話です。倒壊しそうな気配はありませんし、なにより、立ち入り禁止区域なのです。たとえ倒れたとしても犬・猫さえいない区域、傷つく誰ひとりいないのです。撤去するために400万円も使える予算があるなら、補強したらいい。
原発再稼働させたいがために着々と進められている動きの一環。でも、事実は事実。なかったことにしてはいけない。勝ち目がないことがわかっていながら止めることができなかった戦争。敗北宣言していればなかった筈の広島の原爆。翌日にでも敗北宣言していればなかった筈の長崎の原爆。世界で初めて恐ろしい原爆の被害を経験しているのに、1966年に東海原子力発電所で始めてしまった原子力発電。世界一の地震大国なのに、17カ所に48基。英語で「NUCLEAR」、日本語では「核」「原子力」と巧妙に使い分けてきた。
3・11以降、世界は変わりました。放射能汚染からは未来永劫、逃れられません。一旦出てしまった放射能は消えないし無毒化出来ない。黒や青のバッグに詰めて山積みしても時間の問題で漏れ出してくる。汚染水も溢れ出しっぱなし。もう誤魔化されてはいけない、と思う。騙されてはいけない、と思う。事実は事実。そこから学ばなければ。
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5月3日、横浜の大きな公園で「平和といのちと人権を! 5・3憲法集会」があり、司会をしました。3万3千人を前に進行を任されている緊張感と充足感は独特でした。
大江健三郎さん、澤地久枝さん、落合恵子さん、鎌田慧さん、雨宮処凛さん、香山リカさん、樋口陽一さん。たくさんの方の心に響くスピーチがあり、最後は全員で声を出しました。「憲法を守ろうっ!」「9条を守ろうっ!」「再稼動反対っ!」「子どもを守ろうっ!」「未来を守ろうっ!」「大人が守ろうっ!」3万3千人の声がひとつになっていきました。ヘリコプターでその様子が空撮された大きな出来事でした。
が、3万3千人です。30万人ではありません。300万人ではありません。バルト三国、3つの国を足した数字よりはるかに多い人口の日本です。もし、300万人が国に対して反対の声をあげたら、もし、3千万人が手を繋いで抗議をしたら…。
リトアニアの政治家は、詩人だったりお医者さんだったりピアニスト、作曲家、トランペットプレイヤーだったりします。みなさん若いし生き生きとしています。国民が心をひとつにして訴え・願い・祈って、勝ちとってきた自由を大切に大切にしています。
私たちの国、日本が壊れ始めているとたくさんの方が警告しています。心で反対と思っていても黙っていたのでは「賛成」なのです。抗議を表明しなければ「賛成」なのです。何かしら行動しなければ「賛成」なのです。
日本というこの国を構成している大人のひとりとして、今こそ、自立して抗議の手を繋ぎたいと、リトアニアでも「発熱」してしまうわたしなのでした。
200万人の人が同じ思いで手をつなぎ、独立への強い思いを平和的に表明し、国際社会へと訴えた「人間の鎖」。弾圧を恐れながらも、この抗議デモのあと、平和的抗議運動は各地へ広がっていきました。いま、これだけの鎖を私たちはつなぐことができるでしょうか。もしそれが実現できたら、社会は変わるかもしれません。この国は、いま大きな転換点にあります。政府だけでなく、世界に対しても、私たち国民の意思を示していかなくてはいけないとあらためて思いました。