2011年3月11日に起きた東日本大震災の影響で、福島第一原子力発電所事故が発生。事故後、国会前や首相官邸前には、多くの人たちが集まり、抗議の声をあげました。一人ひとりが自分の意思で集まり、それぞれ独自のスタイルで行う抗議行動が生まれていったのです。事故から数年が経ったいまも、毎週金曜日には脱原発を求める人々が全国各地で集まっています。国会前「希望のエリア」も、そうした「金曜行動」のひとつ。「希望のエリア」のスタッフが、そこに集まる人々の思いを連載で伝えます。
第14回
「希望」をつなぐために~なぜ手話を「希望のエリア」でつけているのか?~
希望のエリアに最初に行ったのは、毎週参加していた官邸前での脱原発・反原発集会が「大雨の予想」で中止になって、中止の告知をしていた人が、「国会前の集会はやっています」という案内をしていたからです。それで初めて参加したのです。
その時、希望のエリアでは「故郷に帰れなくなった福島の人に思いを寄せて」と「故郷」を歌っていたのですが、それに手話がついていました。
わたしはフクシマ反省組です。父が長崎の被爆者でもともと反核の意思はあり、それなりに反核―反原発ということは言っていたのですが、運動はしていませんでした。わたしは「言語障害者」で、その立場から「障害者運動」にかかわっていました。フクシマの震災が起きたときに、「避難弱者」の問題を考えていました。阪神・淡路大震災があったときに、すでに「避難弱者」の問題はそれなりにとらえていましたが、フクシマではそれに増して、目に見えない放射線被害の問題もあります。震災関連死、その中でも原発震災関連死ということがあります。避難中、帰りたくても帰れなくなって、亡くなっていく人がいます。「十分な避難計画の必要性」をいう人がいます。しかし、それ以前に避難計画を必要とする、そもそもそこに帰れなくなるような人工物を作ってはならないのです。
官邸前で原発再稼働の動きに反対して20万人もが集まる大集会が開かれました。ちょうど高齢で「障害者」的になっていく母の介護が必要になっていったときで、「障害者運動」をやっていた立場で捨て置けず、本格的に介護に入っていったときと重なり動けませんでした。母の介護をしながら、原発や環境問題関係の本を読みあさり、インターネットで情報を集めていました。
母を看取ってその後の整理をすませて、二重に「遅れてきた人」になっていたわたしが初めて官邸前に行ったとき(2014年9月)には、もう歩道半分に人が寄せられていました。ここの人数が減っていくと原発の再稼働がなされてしまうという思いで、「継続は力なり」というところで数のひとりに撤して、毎週金曜の集会に参加していました。
そういう中で何かおかしいと思い始めたのです。わたしは「言語障害者」の立場で手話を学びました。その立場から、集会が手話や通訳を必要としている人を想定していないことを感じました。それだけではありません。「障害者運動」の原則として、「誰も排除しない、させない」という標語があります。そして「視覚障害者」が一緒に遊べるおもちゃ作りから始まったユニバーサルデザインということから発した、「みんな一緒に」という思想も広まっています。そうした考えを学んだ立場からすると、「あれはいけない、これはいけない」と言われることや団体排除が起きてくる状況に、違和感をもたざるを得ませんでした。
ちょうど国会前ではSEALDsの集会もあって、官邸前の集会が終わってそちらにも参加していたのですが、フェイスブックにSEALDsの集会に筆談を受けながら参加している人のことを紹介している記事が載っていました。SEALDsの集会も官邸前の集会に似た集会になっていて、聞こえない人の参加を想定していません。しかし、しばらくはまだ官邸前の集会に参加していました。そこの「数を減らせない」、という思いがあったからです。
「希望のエリア」はそもそも「ファミリーエリア」と名付けられ、「子ども連れでも、赤ちゃん連れでも、高齢者も、障害者も、初めての人も参加できます」とうたって始められたところだと知りました。そして、ちょっと広いスペースがあるところで、ステージを作っているので、その脇で手話をつければみんなが見られます。そしてコールが、被災者や参加者の一人ひとりに思いを馳せたコールになっているのです。もちろん主催者の人たちの思いを込めたコールです。
「障害者運動」での標語に「障害者の生きやすい社会は、みんなが生きやすい社会である」というものがあります。そのことは運動にも言えます。「障害者の参加する運動は、みんなの参加しやすい、広がり得る運動」ということです。希望のエリアは、そのこととコールや主催者の思い、参加者の思いが共鳴し合っている場所だと感じとれたのです。手話は「障害者運動」の「誰も排除しない、させない」というシンボル的なものにもなっています。だから、手話をつけることによって、運動の原則である「一人ひとりの存在と思いを大切にする」という原則を確認して進めていけるという思いも持ちました。
それで昨年9月の末に、コールをしていた明日香さんに「手話をつけて歌っていたけど、手話通訳ができる人はいますか?」と訊きました。明日香さんからは「故郷の歌だけでなく、ほかにも手話をつけなくてはいけないと思っていたのですが、どうしたらいいか分からなくて」と言われました。それで「知り合いに手話通訳者がいるし、わたしも少しできるから、手話をつけさせてもらっていいですか?」と言って、翌週からつけ始めるという確認をしました。
さて、わたしは幾重にも手話通訳者向きではないのです。ですから、希望のエリアで手話をつけ始めたのも、通訳が誰もいない、ないよりあったほうがいいということで、「仕方がない通訳」として手話をつけています。そしてそのことで、「手話通訳が必要」だということを、運動―集会を主催する人たちに示しつつ、その中で聞こえない人や通訳者が参加してくれることを期待した「つなぐ」役割を担っているのだと思っています。
実際、希望のエリアのビデオを見て、聞こえない人からの参加がありました。「ひとりでは大変でしょう」と大切な仕事をもっている人で、毎回の参加は無理なのですが、通訳ができる人が参加してくれました。手話に関心をもってもらうために、抗議行動が始まる前に手話の学習会も始めました。
「つなぐ」ということは手話だけではありません。希望のエリアは「人と人をつなぐ」、「一人ひとりの思いをつなぐ」大切な場になっていて、いろいろな「地域をつなぐ」場にもなっています。「いのちを守れ、暮らしを守れ、未来を守れ」という明日香さんのコールの中で、未来に「つなぐ」、希望を「つなぐ」、希望のエリアの活動の一助として、手が動く限り、手話をつけ続けていきたいと思っています。
(国会前「希望のエリア」手話通訳者/杉本博幸)
国会前で大規模な抗議行動が行われていたとき、身体が不自由な家族から「私は行けないから、代わりに集会に行ってきて」と言われたことがあります。「赤ちゃん連れでも、高齢者も、障害者も、初めての人も参加できる」という視点はとても大切。さまざまな立場の方が集まることで、気づかなかった新しい視点をもつきっかけにもなります。希望のエリアの魅力をあらためて感じたコラムでした。
パラリピンクが開催中です。しかし、なぜかそのパラリンピックに聴覚障害者が参加できないのです。皆さん知っていましたでしょうか。私はなぜ参加できないのか分からないのです。 ところで、私は、手話に接する機会と聴覚障害者への理解は比例関係にあると考えています。お互いを受け入れる絶好のチャンスでもあります。ところが、スーパーなどで手話で話している人たちを見かけたことがないのです。北欧ではどこにでも見られる光景でした。