前回ご紹介した国連の「国際非暴力デー」について書きたかったのですが、世の中の状況が状況なので、それは次回にして今日は「原発再稼働とガンジーの関係」についてです。
今週中にも野田首相は大飯原発の再稼働を決めてしまうと報道されています。彼は17日にメキシコで開催されるG20へ出席する予定ですから、タイミングとしては15日、もしくは16日の夜に記者会見で、そのまま飛行機に乗って海外へ行ってしまいたいのではないでしょうか?
しかし、これを許さないのが国民感情。15日の金曜日から16日は、各地でデモや集会が多く開かれるでしょう。
そんな時に、知っておきたいのがガンジーの「非暴力・不服従」というコンセプトです。「何をいまさらそんな昔のことを」と言う人もいるかもしれませんが、私は「古くて新しい」コンセプトだと思います。
「国民の世論も味方していて、倫理的にも正しい。でも政治家が暴走している」というときに、どうすればよいのでしょうか。ガンジーだったらどうしているのでしょうか?
•「倫理観、正義感 > 法律」?
日本の教科書にも出てくるマハトマ・ガンディー(ここではガンジーと表記しています)やキング牧師。それぞれ、イギリスからのインド独立を指揮したり、アメリカの公民権運動を「非暴力」で指揮したりしたことで有名です。私たちは、彼らを「偉い人」として子供たちにもそのストーリーを語り、学校でもそう教えています。
しかし、彼らは当時、法律に従わなかったり、警察に逮捕されたり…の、今だったら「犯罪者」と呼ばれる人たち。なぜ、「犯罪者」がそもそも「偉い人」と呼ばれるようになったのでしょうか…?
「そんなの当たり前でしょ。良いことをしたからでしょ」と言うかもしれません。でも、彼らが生きていた時代は、差別や抑圧が「当たり前」で「良いこと」だった時代です。
それでも彼らは、人間の「倫理観」や「正義感」に忠実に行動し、多くの人々の共感を得たのです。それゆえに、たとえ当時の法律を破ったり、逮捕されたりしても、人々の支持を集め、後世に語り継がれていったのです。
日本人は「ルールはルール」、「規則は規則」と子どものころから理由もなくルールを守ることを強制されてきましたので、私たちにはなかなか理解できない考えかもしれません。
•ガンジー、キング牧師は生きている?
さてさて、このガンジーやキング牧師の例ですが、普通の日本人だったら、遠い国の昔の話のように聞こえます。つまり、教科書の中のお話で、実際に自分の生活とは関係ない「偉人伝説」。
しかし、今の日本でも、あからさまな差別や戦争などが起きていないだけであって、「不正義」はたくさんあります。特に、3・11以降は、それが顕著で「福島での原発事故で被害を受けた人の生活ももどらないうちに、原発の再稼働を認める」なんて典型的な例です。
だからこそ、今、日本にガンジーやキング牧師が必要なのです。
•再稼働、ガンジーだったらどう止める?
さて、上の写真は、6月4日の福井県庁前の入り口へとつながる道路の真ん中で座り込みをする市民をとらえた写真です。そう、中央に写っているのは山本太郎さんで、その背後に写っているのは市民、そしてさらに一番後ろに映っているのはずらりと道路にバリケードを作る警察官たち。
この日、再稼働容認を求めて細野原発担当大臣が福井県庁を訪れるというので集まった市民が、「細野大臣と面会」を求めて座り込んだわけです。ただ、写真を見れば伝わるように、市民が暴力的に何かを訴えようとしているという感じはしません。むしろ、背後に立つ警察官の方が威圧的に見えます。
ですから、自然発生的であったとはいえ、道路のど真ん中に座り込んでいるにもかかわらず、警察も「あれよあれよという間」の座り込みに何もできませんでした。ちなみに、福井県庁につながる道は、ここ正面と、裏口の2か所しかなく、このまま座り込みが続けば、いったん福井県庁に入った細野大臣は出ることができなくなってしまう状況でした。
最終的には、車の出入りにあたり、市民が座り込みをゆずったため、細野大臣は車で福井県庁を出ることができましたが、こんなときガンジーだったらどうしたのでしょう。
ガンジーであれば、細野大臣が出ようとしても、糸車をくるくるまわしながら微笑んで、「私たちは、動きません」と、強制的に排除されるまで座り続けたでしょう。そして排除されるときは、無抵抗で非暴力、さらに大声をあげることすらしないと思います。排除されても排除されても、彼の行為に賛同する周囲の人が同様のことを続けます。
もし、1000人がガンジーと同様の座り込みを県庁前で行っていたら、強制排除することすら警察はあきらめて、細野大臣をヘリコプターか何かで福井県庁から出すことになるでしょう。その映像が、全国でニュースになったとき、「非暴力・不服従」のパワーを知ることになります。
•「非暴力と不服従」って?
非暴力とは 悪を行う人間の意志におとなしく服従することではなく、
暴力者の意志に対して全霊をなげうつことである
マハトマ・ガンジー
自分の意思ではそこを動かないという「不服従」で相手に反応や対応を迫り、そのうえで決して暴力を用いずに「非暴力」で人間性や倫理観に訴えるというのが「非暴力と不服従」のセオリーです。
ガンジーは、見ている人の「人間性」や「倫理観」に訴えるシーンを創ることが上手です。見ている側が、どちらにシンパシーを感じるのか、助けてあげたいと思うのかは、抗議している人たちの対応が「尊敬に値するように見えるか」によるのです。
•抗議は見え方が99%?
ガンジーが人々の共感を得るために、重要視したのは「見え方」です。もちろん、訴えたいことを精いっぱい声を大にして伝えたい、邪魔をする警官に抵抗したいという気持ちもわかります。ただ、そこはぐっとこらえて、静かに落ち着いて「非暴力・不服従」を貫くのです。
これによって、警察が荒々しく無抵抗の市民を排除する映像があったりすれば、見ている人の気持ちは市民に同情します。逆に取り乱している市民が警察ともみ合っている映像が報道されてしまえば、「一部の怒った人」として市民は距離を置いてしまうことになりかねません。
「人は見かけが99%」なんて言われますが、デモやパレード、座り込みも見かけがその効果を大きく左右するのが現実です。デモやパレード、座り込みも見え方自体がメッセージだと意識するのがとても重要です。
平和的に活動しすぎると無視されるし、暴力的に活動しすぎれば軽蔑・批判されます。非暴力で相手や社会が無視できないところに体を投げ出し、社会や相手に判断を迫ること、これがガンジーの行動手法です。
日本でも沖縄の米軍基地への反対運動として辺野古や高江という場所で非暴力運動が続けられています。
もしあなたが、先週金曜日の野田首相の記者会見を聞いて頭に血が上っているのであれば、ぜひガンジーの「非暴力・不服従」を考えてみるのも良いのではないでしょうか?
私は法を無視するのではありません。
人間の存在から響いてくる最も高い法
即ち良心の声に従っているだけです。
マハトマ・ガンジー
まさに「政治の暴走」を感じる最近、ガンジーが今の世に生きていたら、果たしてどうしたでしょうか。
もしかしたら、力や武器で立ち向かうよりもはるかに難しく、勇気がいることなのかもしれない「非暴力不服従」、平和主義を謳った日本の憲法9条にも重なって見えます。
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