ホテル集会会場拒否事件の問題
日教組の全国集会が行われる予定だったグランドプリンスホテル新高輪が、契約していた2月1日からの会場提供を拒否した事件がありました。東京地裁、東京高裁での仮処分決定でも、会場を使用させるように求められていたのに、ホテル側はそうした裁判所の判断をも無視したわけです。
右翼団体が会場周辺で大規模な街宣行動を展開するおそれがあり、利用者や周辺住民に迷惑がかかることが理由だそうです。
日教組側は当然、損害賠償請求をすることができますが、1年前から予定していた会場を利用できず、全体集会が行えなかった不利益は金銭賠償によっては償えない性質のものです。
この事件の重大性の割には大きく報道もされず、マスコミもあまり問題にしていないようです。これだけ、コンプライアンスが叫ばれているにもかかわらず、民間企業が契約どころか裁判所の判断を無視していることに対して国民がなんら反応しないようでは、法治国家もコンプライアンスもあったものではありません。
企業として存続不可能になるくらい大きなダメージとなるような懲罰的損害賠償でも認めなければ法の執行を強制できないようになるでしょう。法治国家として果たしてそれでよいのでしょうか。
民主主義のもと“敵意ある聴衆”は
排除してはならない
今回は、この事件の憲法上の問題を少し検討してみます。 まず、ホテル側の言い分であるところの、右翼団体が押しかけるおそれがあるから貸せないという理屈ですが、これが憲法の保障する集会の自由(憲法21条1項)を制限する理由になるかという点です。
この点、公民館のような公共施設では、集会のための施設利用を反対派が押しかけて混乱するおそれがあるからという理由で制限できるのは、「警察の警備等によってもなお混乱を防止することができないなど特別な事情がある場合に限られる」という最高裁の判例があります(最判平成8年3月15日上尾市福祉会館事件)。
単に思想、信条において反対する者が集会を妨害しようとして紛争を引き起こすおそれがあるというだけで、会場の利用を制限できてしまったのでは、論争となるようなテーマの集会を開くことができなくなるからです。
民主主義は多様な異なる意見を闘わせるところに意味があるのですから、論争を引き起こすような発言、集会を制限してしまったら、そもそも民主主義がなりたたなくなります。敵意ある聴衆の存在は集会を制限する理由にはならないのです。
憲法価値を守ることが、
最低限のコンプライアンス
この考え方は基本的には、一定の社会的影響力を持つ企業にも当てはまります。もちろん、私企業ですから、そこには私的自治の原則(契約自由の原則)が働き、どのような集会に会場として利用させるかは、原則としてホテル側の自由です。
しかし、いったん契約をした以上は、契約の拘束力が働きます。これを破棄するにはそれ相当の理由がなければなりません。その際に先の憲法上の要請が考慮されて、敵意ある聴衆(団体)の存在は契約破棄の理由にならないのです。
今回の事件でも裁判所は、こうした日教組側の集会の自由とホテル側の営業の自由とを比較考量したうえで、集会の自由をより重視して使用を認めるべきとの判断を下したものと思われます。
憲法の人権規定はこのように、大企業のような一定の社会的権力をもった私的団体との関係でも適用されます。これを私人間効力といいますが、もともと国家権力を拘束するために生まれた憲法が、現代社会においては、企業のような社会的強者の理不尽を制限するためにも機能するようになっているのです。
ですから、企業であっても憲法価値を守ることが最低限のコンプライアンス(法令遵守)として当然に要求されるのです。
国家の存在意義を問い直す
次に、今回の事件で、ホテル側は警察などによる警備では、右翼団体の妨害や混乱を防止できないと判断したことになります。これは警察がまったく信用されていないことを意味します。国民の表現の自由など人権を守るために警察は存在するにもかかわらず、それを期待できないというわけです。
市民団体の集会やパレードなど弱い者を相手に、その自由を規制するときには頑張る警察も、右翼団体相手では腰が引けると判断されたのでしょうか。日本の警察もずいぶんとみくびられたものです。右翼の妨害をしっかりと防いでみせて警察権力の正当性をアピールするチャンスだったのに、警察としてもさぞかし残念でしょう。
今回のことで、ある右翼の幹部は、自分たちの行動の成果だと言っていたそうです。騒音などの暴力や迷惑をかけることで、自分たちの主義や主張を押し通そうとする人たちが存在し、それを規制できないと思われてしまう国家権力とはいったいなんなのでしょうか。
国家の存在意義は、市民の自由と安全を保障し、対等な言論を闘わせることができる自由な公共空間を作ることにあるはずです。権力はあくまでも、市民の人権や自由を守るために国家に与えられているものであるという民主主義国家の基本を忘れてはなりません。
ただ、そのためには、そうした言論の意義を理解し、多少、迷惑や不快に感じても、自分と主義・主張の違う人々の発言や集会を許容できる国民の存在が不可欠です。
我々国民は、
民主主義や人権に価値を置いているのか
ホテルが右翼団体の妨害にもかかわらず、集会の自由を守ろうとする姿勢を貫くことを国民が評価し、それによって企業価値が高まるような社会でなければ、憲法価値を守るというもっとも根本的なコンプライアンスは実現できません。
つまり民主主義や人権に価値をおくことができる国民あっての憲法であり、コンプライアンスなのです。単にホテルを批判してすむ問題ではありません。
集会の自由を含む表現の自由などの人権や民主主義は国民が本気で維持しようと努力しつづけないと、あっという間に失い、気がついたときにはもう手遅れとなってしまうものなのだと改めて感じました。
憲法は12条で「この憲法が国民に保障する自由および権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。」と規定しますが、その意味を再認識させられた事件でした。
前回、国会での実質的な議論が行われずに「補給支援特措法」が成立してしまったことを受けて、日本では議会制民主主義が未成熟であり、こんな国会に文民統制など無理だと指摘しました。
ですが、今回の事件をみて、国会だけでなく、国民の間においても、議論することの重要性、多様な意見への寛容性といった民主主義の基本が根付いていない、この国では文民統制は本当に危ういと思ってしまいました。
国民が主権者になってまだ60年そこそこですから、まだまだなのはわかりますが、テロなどの暴力に屈して軍国主義を許容してしまった戦前の失敗を二度と繰り返さないだけの力量が、私たち国民についているだろうかと考えると、不安になります。
軍隊を民主的にコントロールする力量は政治家のみならず、最終的には国民に必要であることを忘れてはなりません。自分たちにその力があるのか、結果の重大性を考えたとき、この点に関しては、慎重でありすぎることはないと思っています。