「違憲無効」判決は出たけれど
今年3月6日から27日の間に、一人一票実現訴訟で衆議院小選挙区に関して16件の高裁判決が相次いで出されました。昨年(2012年)12月の衆議院議員選挙の選挙区割りは一昨年3月に最高裁で「違憲状態」と判示されていましたが、国会は選挙区割りの修正を行わないまま解散総選挙を行いました。それに対しては投票前から、このままでは今度こそ違憲判決が出るかもしれないという声もありましたが、国会は「0増5減」の改正法案だけを成立させて、衆院解散・総選挙へと突入したのです。
政治家の中には「努力は示したのだから大丈夫」とか「無効にならなければいい」などという人もおり、最高裁判決の示した意味を理解できていない、あるいは意識的に理解しようとしない人もいました。
16件の訴訟のうち14件は、升永英俊弁護士、久保利英明弁護士と私などが中心となって全国14地域の弁護士有志を加えたグループが、残りの2件は山口邦明弁護士を中心としたグループが提訴したものです。
3月6日の東京高裁「違憲違法」判決を皮切りに、札幌、仙台、名古屋と続き、最終的には2件の「違憲無効」、12件の「違憲違法」、2件の「違憲状態」判決が出され、その全ての判決において、選挙区割りが「違憲」であったことが認定されました。
25日の広島高裁と26日の広島高裁岡山支部が「違憲無効」としたことに対しては、困惑や、「司法が踏み込み過ぎている」という政治家からの反発も聞かれました。報道は結論の違いだけを捉えて「無効が2件」と言って大騒ぎしていましたが、一人一票実現訴訟は決して「無効判決」を最終目標としているわけではありません。ご存知の方もいらっしゃるとは思いますが、ここで再度確認したいと思います。
1)「違憲状態」判決なら騒ぐ必要もない?
違憲違法という結論に至るためには2つの条件があるとされます。まず選挙区割りの投票価値が違憲であること、そして裁判所によって違憲と判断された後の合理的期間内に是正がなされなかったことです。たとえ合理的期間を経過していない場合でも、区割りが憲法違反と判断されていることには変わりありません。決して「軽い」ものではないのです。
2)「違憲違法」なのに無効にならないのは何故?
行政事件訴訟法31条1項に、「処分又は裁決が違法ではあるが、これを取り消すことにより公の利益に著しい障害を生ずる場合において、原告の受ける損害の程度、その損害の賠償又は防止の程度及び方法その他一切の事情を考慮したうえ、処分又は裁決を取り消すことが公共の福祉に適合しないと認めるときは、裁判所は、請求を棄却することができる」との定めがあり、これは「事情判決」と呼ばれます。たとえば区画整理事業における換地処分の取り消しを求めて私人が裁判をした際に、この処分が違法であったとしても、すでに行われている換地計画全体の修正が必要とされるようなときは、既成事実を尊重し、個人の利益保護よりも公共の福祉を優先させて、処分を無効にしないというものです。このように個人の利益を犠牲にしても多数者の利益を保護しようとするものですから、本来あってはならないことであり、極めて例外的に認められるに過ぎないものです。
よって、選挙訴訟について定めた公職選挙法は219条1項で、選挙訴訟には上の行政事件訴訟法31条を準用しない、つまり、事情判決は使えない、と明文で規定しています。
ところが、判例はこの事情判決を議員定数訴訟において、選挙訴訟であるから明文上使えないけれど、事情判決の考え方つまりその法理は使えるというにしたのです。昭和51年4月14日最高裁大法廷判決では、事情判決制度の「規定の基礎に含まれている一般的な法の基本原則(事情判決の法理)」に従って、違法を宣言するにとどめ、無効とはしない、という判決を出し、以後、その考え方が昭和60年の違憲判決でも踏襲されました。
しかし、事情判決はあくまでも行政法のレベルにおいて例外的に許されているものにすぎません。これを明文で禁止している選挙訴訟に、そして何よりも違憲なのに無効としないとして憲法訴訟でこれを言ってしまうということは、大変な問題なのです。この事情判決の法理が一般化してしまうと、「政府の集団的自衛権行使は違憲だけれども、無効にしない」というような形で、いくらでも憲法を無視した既成事実を認める判決を許してしまうことにつながるのです。本来は憲法に反する国家行為は効力を有しないとしている憲法98条1項違反の判決手法でありこれを使うことを原則のように考えてはなりません。
これを1人1票実現訴訟で使うことは、違憲違法の選挙区割りで選ばれた、言ってみれば違憲の国会議員がそのまま在職して議決を繰り返し、国政を率いるという違憲状態を放置することですから、本来許されないことなのです。本来は無効判決が当然の結果なのだと理解しておいてください。なお、念のためにいっておくと、無効判決が確定しても、その選挙区の議員が将来に向かって職を失うだけですから、国会にはなんの混乱も生じません(そんなはずではなかったと、事実上大慌てになるかもしれませんが)。
3)ついに「違憲無効」の判決を得られて良かった?
確かに訴訟の形態としては「選挙の無効」を求めていますが、私達の弁護士グループはこの一連の訴訟を「一人一票実現訴訟」と呼んでおり、本当の目的は無効とか違法とかの結論部分ではなく、区割りの基準について判決の中に「一人一票であるべき」とか「人口比例が原則だ」という判断を示してもらうことです。
その意味では、広島高裁岡山支部の違憲無効判決だけでなく、違憲違法とした同金沢支部判決や、違憲状態とした福岡高裁判決も、大きく評価しています。
福岡:「選挙区割りを決定するについて、議員1人当たりの選挙人数又は人口が出来る限り平等に保たれることを最も重要かつ基本的な基準とすることを求めて」おり、その「趣旨は、憲法上、人口比例に基づく選挙を原則とし、出来る限り投票価値の平等を確保しようとすることにあり、その志向するところは、人口比例選挙の保障に通ずるものと解される。」
金沢:「投票価値の平等に最も忠実な定数配分は、人口に比例して定数を配分する人口比例原則である」
岡山:「選挙区制を採用する際は、投票価値の平等(すなわち、選挙区〈国民の居住する地〉によって投票価値に差を設けないような人口比例に基づく選挙区制)を実現するように十分に配慮しなければならない。」
「0増5減」の区割り改正ならいいのか
衝撃的な「違憲無効」判決が出たことをうけて、与党自民党は解散前に成立させた「0増5減」の区割り改正を急ピッチで進めようとしています。マスコミの中にも「0増5減をまず先行させて」と後押しする論調がありますが、そもそも「格差2倍未満」を目指したギリギリの修正に過ぎず、到底十分なものではありません。区割り審(衆院選挙区画定審議会)が出した勧告案によると、最大較差は1.998倍になり、確かに2倍未満になっていますが、マスコミが今年1月の自治体による人口速報値を元に計算したところ、すでに超えてしまっていたそうですし、そもそも「2倍未満」という基準自体が、投票価値に直せば「0.5票」にしかならないものであり、到底妥当なものとは言えません。
議員定数不均衡問題は、1962年の参議院議員選挙について、当時司法修習生だった越山康さん(後に弁護士)が選挙無効を訴えて提起したのが始まりです。以来、衆参の選挙のたびに訴訟が提起され、およそ衆議院は3倍、参議院は6倍程度を境として、合憲・違憲の判断がなされてきました。従来のそれらの訴訟においては、定数の不均衡が14条違反、つまり法の下の平等を侵害しているかどうかで争われていたのですが、2009年から訴訟を起こし始めた私達のグループでは、平等の話ではなく「主権者の多数決論」、すなわち国民主権の問題として取り上げ、人口比例選挙が行われるべきだと主張しています。
国会議員は、あくまで国民の代表に過ぎません。国政の最終決定権は主権者である国民一人ひとりが持っているものなのです。しかしながら前回選挙の小選挙区の区割りをもとに試算すると、小選挙区300のうち有権者の少ない選挙区から順にその有権者を足した場合、全有権者数約1億396万人のうちの42%、4300万人余りで、その過半数である151名を選出することができる枠組みになっているのです。そんな理屈通りの選挙結果は実際に起こらないかもしれないけれど、この枠組みでは、その4300万人が束になってかかれば、残りの6000万人よりも多くの議員を選出することができるというのは、やはり合理的とはいえないでしょう。国会ではたった1票でも可決否決の結果が分かれます。現に今年2月26日には、12年度の補正予算が参院でたった1票差で可決されています。ですから国会議員の背後には、本来、同数の主権者がいるべきで、そうして初めて議員の1票が対等となるはずです。しかし現実は大きな格差が放置されており、まるで国会議員が主権者(国政の最終決定権者)のようにふるまっています。代議制民主主義がゆがめられてしまっているのです。
上に最高裁判決については3倍とか6倍、区割りの修正については2倍未満、という数値の話が出てきましたが、それらの数値は必ずしも最高裁が明示したものではなく、最高裁判所調査官の論文でもそう指摘されています。平成23年3月23日の最高裁大法廷判決(2009年の衆院選に関するもの)に関して、最高裁調査官の岩井伸晃氏と小林宏司氏が雑誌ジュリスト1428号に寄稿した判決の解説があるのですが、その脚注部分で次のような記述があるので、少し長くなりますが引用します。
従来の最高裁判例において合憲性の判定における較差の数値に係る量的な基準が示されたことはなく、本判決においても、この点は同様であり、憲法の投票価値の平等の制約となる要素として国会において考慮された事情にその制約を正当化し得る合理性があるか否かという質的な観点が問題とされ、1人別枠方式についてはその合理性に時間的限界がありこれによる較差を正当化し得る合理性は既に失われたと判断されたものであって、単純に較差の数値のみから直ちに合憲・違憲の結論が導かれるものではないと解される(本判決は、区画審設置法3条1項所定の区割基準につき、「投票価値の平等に配慮した合理的な基準を定めたものということができる」と判示しているが、これが最大較差2倍という数値を画一的に量的な基準とする趣旨のものでないことも、その前後の説示の内容等から明らかであるといえよう)。
合憲違憲の基準は「何倍」という数値で出されてもおらず、またそうやって判断されているわけでもないから、決して「2倍未満なら許される」というわけではないのです。政治家が「2倍未満になるように0増5減を」と言うのも、マスコミが「最新の人口統計によると『2倍を超える』から問題がある」と報道するのも、本質を理解していないことをさらけ出しているにすぎません。
上記判決に続いて昨年10月には、2010年の参院選に関する最高裁大法廷判決が出されましたが、この2つの判決を通じて、国会議員に地域代表的性質を持たせることは許されなくなり、また都道府県の枠組みが憲法上の要請ではないことが確認されました。選挙区割りの際に投票価値の不平等を生じさせてまで都道府県の枠を維持することには、もはや合理性が無いと判示されたのです。
以上のように、国民主権の立場から国会議員を国民の代表として捉えることで、単なる平等論の問題ではないことが判ってくると思います。そしてやはり、人口比例に基づいた選挙が行われることが望ましいということになります。
「違憲」の国会議員が憲法改正を主張している
最後に、憲法改正の動きにも注意しなければなりません。自民党の憲法改正草案には、皆さんもご存知のとおり内容的に大問題があるし、全体の改正に先んじて96条の改正要件緩和を目論むなど、看過できない変更が行われようとしています。この一人一票の問題と関係して大変重要なのは、今そうした改正を行おうとしている国会議員が、国民主権の観点から問題のある、いわゆる「違憲の」国会議員であり、そんな人たちによって憲法改正の発議が行われようとしているのですから、全くお話になりません。
本来ならば国会は、先の最高裁判決と今回の高裁判決をふまえて自制し、速やかに一人一票となるような区割り改正に着手すべきです。しかしながら、既得権を持った政治家は自らの環境変化を望みませんから、やはり自浄作用には期待ができません。
そこで最高裁には、憲法の番人、憲法の砦としての役割を十分認識した上で、「違憲無効」という決断を求めていきます。それには、多くの国民による最高裁への期待、世論の後押しも欠かせません。
民主的正当性がなく、現在の憲法すら守れない国会議員が憲法改正を主張するなどあってはならないことです。絶対に許してはなりません。
「人口比例に基づいた選挙を行う」ことは、国勢調査を行っているわけですから、事務作業だけを単純に考えればそう難しいことではないはずです。それがひとたび、既得権を持つ政党や政治家たちにとっては、困難極まることなのでしょう。民主主義の基本さえ理解できず守れない政治家には、憲法改正を言う資格はないのではないでしょうか。
私は一人一票の問題もさることながら、多くの死票が出てしまう、衆院の小選挙区制のほうが問題だと思います。小選挙区制の問題は、単に少数政党に不利な制度だからだけではありません。小選挙区制では2大政党に収斂するといいますが、その2大政党がそれぞれ反対の政策をかかげて妥協点を探すのならまだしも、どちらの党もその地区で最大多数の支持者の意に添わねば当選できないためかかげる政策は似通ってしまうのです。これでは最大多数になれぬ者たちの立場はまったく考慮されることなく政策が決まってしまう。選挙に行っても行かなくても同じだ・・・という、政治に対する閉塞感、不信感が増すばかりです。投票率が下がってしまうのもこうした制度が原因では。 過去において、故・田中角栄氏が小選挙区制を導入しようとしたことがありましたが、そのときは全野党(当時、自民党より右と言われた民社党までも)が「これは民主主義の危機だ」と、共闘してこれをつぶしたし、マスコミも応援した。それが何で細川政権の時代になると「政治改革」としていいことのようにされてしまったのか。今はどのマスコミも小選挙区制の害のことは言わない。実に奇妙です。