伊藤真のけんぽう手習い塾

 2010年7月の参議院選挙が憲法に違反するかどうかをめぐって、違憲判断が全国各地の高等裁判所で相次いでいます。15件のうちこれまでに12件の違憲判断が出ていて、あと3つを残すのみとなっています。
 2009年8月の衆議院選挙をめぐる違憲訴訟でも、9件の裁判中、実に7つが違憲判断を示しました。そして舞台は最高裁に移り、2月23日には口頭弁論が行われます。

●なぜ違憲判断が出続けるのか

 なぜ、ここにきてこのように多くの違憲判断が出されるようになったのでしょう。1つには、これらの裁判においては、平等権だけではなく、統治システム論と個人の尊重論に基づいて憲法違反を主張していることが考えられます。
 統治システム論とはこういうことです。同じ選挙制度の下で選出された国会議員であれば、その1人の議員の背後に同数の主権者が控えていて初めてその議員の国会における審議と議決は正当性を持ちます。そして国会議員による多数決は常にその背後の国民の数においても多数決となるような制度でなければ、国民の多数意思によって国政が運営されているとはいえません。つまり民主主義の根幹である多数決が機能しないのです。実質的な1人1票、すなわち人口比例主義は、この民主主義を制度として機能させるための不可欠の要素なのです。
 もうひとつの個人の尊重論とはこういうことです。投票価値の平等は憲法13条が保障する個人の尊重、個人の人格価値に基づいています。投票価値とは、その1人の個人が国家に対してどれほどの発言力があるのか、どれほどの政治的影響力があるのかを決めるものに他なりません。これが住所によって差別され、発言力1の者もいれば0.2の者もいるというのでは、国家から半人前以下の扱いしか受けない者がいることになります。このような人間の尊厳を踏みにじるようなことが、今日の日本で堂々とまかり通ってよいわけはありません。

●一人ひとりの国民が動きだした

 このように、原告が提示した新しい立論が裁判所に新しい風を送っているのですが、変化をもたらした原因はそれだけではありません。国民意識の変化も新風の大きな原因です。このことは、いくつかの判決文でもはっきりと書かれています。
 高裁判決によって違憲判断が連発され、そのことがマスコミによって連日報道され、各新聞の社説でも取り上げられるようになると、一人ひとりの国民が、自分には1人1票が実は保障されていないのだということに気づきはじめました。
 1人1票twitterのつぶやき数や、全国各地で行う憲法講演で私が感じる反響からも、そのことははっきりわかります。2009年の衆議院議員総選挙で政権交代がおこなわれたことで、国民が選挙権のもつ重みを知ったこともその背景にあります。1人1票が重要な原則だということがこのような意識変化に支えられ、それが裁判所による違憲判断に結びついているのです。
 裁判に関わる有志の力だけでは、日本は変わらないのです。個々の国民が、他人事ではなく「自分事」としてアプローチして初めて変化が起こり、民主主義に向かって前進するのです。
 では、現実の選挙区割りが1人1票原則を軽んじていることに対して、私たちはどうすればよいでしょうか。この国の選挙制度は、民主主義を実現するものとはいえません。個人の尊重の理念からも外れたものです。憲法の理想にはほど遠いのです。
 日本国憲法が、国に憲法を守らせる任務を負わせたのは、最高裁判所を頂点とする裁判所です。裁判官が憲法の規範力を保つ任務を負う以上、裁判官、特に最高裁裁判官は、いま最高裁で審理されている選挙訴訟で違憲判断を示すほかはありません。
 仮にもし、万が一、そう判断しない裁判官がいたとすれば、それは、1人1票を積極的に肯定しない裁判官ですから、民主主義国家の最高裁裁判官としての適格がないことになります。

●国民審査権は参政権である

 そのような裁判官に私たちは何ができるのでしょうか。日本国憲法が国民に認める参政権には3つのものがあります。選挙権、国民審査権、憲法改正国民投票権です。このうち、選挙権と国民審査権は、「入り口」と「出口」で民主政治をチェックするものです。選挙権を使って国会議員を選び、国会議員が内閣総理大臣を選び、内閣総理大臣が内閣を作り、内閣が最高裁判所裁判官を決めるのが、日本の民主主義です。普通に1人1票が実現できていれば、わたしたちは選挙で誰に投票するかに関心を集中していれば十分です。が、現状のように1人1票が実現できていない状況では、民主政治を「入り口」でチェックすることはできません。そういうときのために、憲法は国民審査権を保障しているのです。
 国民審査権は参政権です。たとえ内閣で選ばれた最高裁判事であろうとも、憲法を実現することに後ろ向きな態度を示すならば、衆議院議員総選挙の際に行われる国民審査で×印をつけ、最高裁判事として不適任である意思を表明するのです。これを適切に行使することは、公務員選定罷免権として国民固有の権利です。このことは、国民主権原理を表明する憲法15条1項に明記されています。この「出口」における民主政治のチェックは、選挙区制度によって1票の価値が歪められることのない、完全な1人1票です。入り口の1人1票が歪められているときに、完全な1人1票を出口で正す仕組みが、国民審査権なのです。
 選挙権が正常に機能していないときの最後の頼みの綱が国民審査権です。この権利を国民が適切に行使するためには、15人の最高裁裁判官一人ひとりに、1人1票に対する考えを判決の中でどうしても示してもらわなければなりません。1人1票でなくても良いというのであれば、それを含めて説明責任を果たすべきです。国民主権のもとで、国民が主権を適切に行使するためには、権力を担う者に説明責任があります。裁判所も、司法権という国家権力を行使する機関ですし、国民審査権は公務員罷免権という国民主権を具体化した権利なのですから、合憲判断にしろ、違憲判断にしろ、理由を国民がわかるような説明責任を負うのです。

●2013年に行われる国民審査に向けて

 遅くとも2013年には衆議院議員総選挙に伴う国民審査が行われます。私たは、今回の選挙訴訟に注目し、最高裁判事の誰がどういう理由でどういう判断を示したか、それをしっかり覚えておく必要があります。民主主義を正常化する役割は、弁護士有志でも最高裁判所でも国会でもなく、私たち自身の責任で行わなければ意味がないのです。
 先に触れたtwitterでも、毎週日曜日の午後9時から10時30分までみんなで1人1票をつぶやきあっています(1人1票祭り)。それぞれが最後に #ippyo のハッシュタグをつけてつぶやくだけです。このつぶやきのランキングをあげることがさらにマスコミに着目してもらうきっかけにもなり、とても重要な意味を持つことになります。皆さんもぜひ参加してください。

●私たちが今、なすべきこと

 日本の歴史の中で今日ほど、わたしたち国民それぞれが各自の役割を果たすことを求められている時代はありません。最高裁裁判官の方々は、今回の選挙裁判において、与えられた権限を適切に行使し、日本を真の代議制民主主義国家にするように行動されることと思います。もし、説明が果たされないまま、1人1票を軽んじるような判断をした裁判官がいるならば、わたしたちには、国民審査権を使って民主政治を正常な姿に戻す責任があるのです。

いよいよ一人一票衆院訴訟は、最高裁大法廷に場所をうつします。
2月23日(水)午後1時30分より、口頭弁論がおこなわれます。
塾長も弁論を行うそうです。是非みなさま、裁判傍聴に!!
最高裁裁判官一覧⇒ http://bit.ly/90t404

 

  

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伊藤真

伊藤真(いとう まこと): 伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長。1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。著書に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)、『憲法の力』(集英社新書)、『なりたくない人のための裁判員入門』(幻冬舎新書)、『中高生のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)など多数。近著に『憲法の知恵ブクロ』(新日本出版社)がある。

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