伊藤真のけんぽう手習い塾

●17年ぶりに出た違憲判決

 11月17日(水)のニュースや翌日の新聞に大きく出ていたので、ご存知の皆さんも多いと思います。私が今年5月から連載していた「1人1票実現訴訟」において、東京高等裁判所は11月17日(水)午後に違憲判決を出しました。これは今年7月に実施された参議院選挙が1人1票を実現しておらず、無効であるとして、全国8高裁6支部に提起した訴訟の最初の判決です。
 この違憲判決は、12月以降に順次なされる判決(2010年12月10日広島高裁、12月16日広島高裁 岡山支部、12月24日仙台高裁、2011年1月25日高松高裁、同日仙台高裁 秋田支部、1月26日広島高裁 松江支部、1月28日福岡高裁、同日大阪高裁、2月24日名古屋高裁、同日札幌高裁、2月28日名古屋高裁 金沢支部)にも大きな影響を与えると思っています。なぜなら、参議院選挙の無効訴訟について、違憲判決を下したのは1993年の大阪高裁以来17年ぶりであり、東京高裁では初めてでだからです。
 この判決において、裁判所は「特に近年においては、年金問題、雇用問題、税制問題といった、国民が等しく影響を受けるべき問題が国会での課題となっており、代表民主制において国民の意見を等しく反映すべき必要性が増大している」、「十数年にわたる投票価値の不平等状態の積み重ねの結果であることを視野に入れると到底看過し得るようなものではなく、国会の裁量の限界を超えたものというべきであり、既に本件定数配分規定は違憲の瑕疵を帯びていたと判断せざるを得ない」、「選挙は、憲法の定める選挙人の平等原則に違反し、違法たるを免れない」としました。
 まさに、その通りと皆さんも思いませんか。
 おさらいになりますが、この訴訟は今年7月に実施された参議院選挙において、鳥取の人は選挙権を1人1票持っているのに、神奈川県の人は0.2票、東京都在住の人は0.23票分の価値の選挙権しか持っていないのはおかしい、ということを訴えたものです。例えば、選挙において「男性は1票だけど、女性は0.2票です」としたら、女性のみならず、男性でもそれは平等ではなく、理不尽ではないかと思うことでしょう。
 つまり、性別において選挙権の価値の差別が許されないのなら、住所による差別も当然許されるべきではない、日本は民主主義国家なので、1人1票が実現されるべきだ、という当たり前のことを主張している訴訟なのです。

●同じ東京高裁で、異なる二つの判決が出た理由

 次に、ニュースや新聞を見て、同じ日に下された同じ東京高裁の判決なのに、なぜ違憲と合憲と判決結果が異なるのか? ということに疑問をもたれた方もいると思います。実はこの日に、別の弁護士グループの提訴した事件や本人訴訟といって弁護士をつけないで提訴した人の事件についての判決もあったのです。それらは同じ参議院選挙の無効を争っていながら5倍の格差を合憲としたものでした。
 まずそもそも東京高裁の中には、第1民事部とか第2民事部といった具合にいくつかの裁判体があるのです。それぞれの裁判体はすべて異なった裁判官3人から構成されています。つまり同じ東京高裁といっても、事件によって裁判する裁判官が違うのです。すると、それぞれの裁判官ごとに判断が違ってくるという現象が当然のように生じることになります。
 もちろん、どの裁判においても、原告は参議院選挙が投票価値の平等を実現していないので、無効であると主張しているのですから、同じ結論の方が国民の皆さんには分かりやすいかもしれません。しかし、憲法上は何ら不思議なことではないのです。なぜなら、憲法において裁判官は一人ひとりが独立してその職務を行うことになっているからです(憲法76条3項)。
 ではなぜ他の東京高裁の裁判体では合憲と判断し、私たちの事件を判断した第17民事部では違憲と判断したのでしょうか。
 もちろん、裁判での主張の違いはあります。しかし一番の違いは、裁判長だと思います。2009年9月30日の最高裁判例をさらに後退させて、5倍の格差、つまり0.2票の価値しかないものを「著しい不平等とはいえない」と理解不能のあきれるような判断を堂々としてしまう裁判長か、第17民事部の南敏文裁判長のように「著しい不平等状態が長期間継続していて違憲」というきわめて常識的な判断をする裁判長かの違いによるところが大きいです。

●国民の手で「1人1票」を実現するとは?

 この判決後、「違憲判決が出てよかったですね」という声をかけていただくことがあります。もちろん、違憲判決が出たことは嬉しいのですが、仮にこの先、最高裁で違憲判決が出たとしても、それではまだ不十分だと考えています。
 1人1票の実現は最高裁頼みであってはならないのです。あくまでも国民が自分の手で勝ち取らなければなりません。
 国民ひとり一人が自分には1票が正しく保障されていない。それは不条理な差別だ、「清き1票」と言われたら文字通り1票と考える国民の常識にあった裁判をしない最高裁判事を国民審査という手段を使って罷免して始めて、国民運動として意味を持ちます。
 つまり、裁判所で違憲判決をもらって、仮に日本に1人1票が実現したとしても、国民はまた民主主義を人から与えられたものとしか認識せず、結局、この日本に民主主義が国民が自ら勝ち取ったものとして定着しません。それではこの1人1票問題を国民運動としている意味が半減してしまうのです。
 この問題は主権者である国民一人ひとりの問題であって、決して他人事ではありません。今回の事件では東京の人は、鳥取の人が選挙で1票の価値を持っているのに対して、0.23票分の価値しかない。「清き1票が実は0.23票」はおかしい、といっているのですが、鳥取県以外の住民は誰もが1票を保障されていません。
 誰もが対等に1票分の価値のある選挙権を保障されなければならないのであって、鳥取県以外の国民の多くが「そんな一人前の人間扱いをされないのはおかしい!」と思って、1人1票に消極的な最高裁判事に国民審査の際に×をつけて罷免することで、始めて民主主義を国民の手で実現することになるのです。

●国民審査権は参政権である

 1人1票問題は、15人の最高裁判事で決着をつけるような問題ではありません。本来、国民投票で決めるべきであるくらいの、民主主義の根幹に関わる重要問題なのです。最高裁判事国民審査権は参政権です。国民主権の現れとしてきわめて重要な参政権である国民審査権を行使して、1人1票に消極的な最高裁判事を国民の手でクビにして判例を変えるのです。
 国民ひとり一人が×をつけることで最高裁判例が違憲に変わっていった。その結果、1人1票という民主主義が実現したという実感を持つことが大切です。具体的には最高裁による違憲判決を受けて国会に第三者機関が設置され、1人1票を実現する仕組みが構築され、定期的に定数配分が見直されるような仕組みが作り上げられていくことが必要です。
 なお、1人1票問題という単一論点で最高裁判事を罷免することはいかがなものかと疑問を持つ人が憲法学者の中にもいるようです。しかし他のどのような裁判でいい判決を書く裁判官であろうが、1人1票でなくてもよいというようでは民主主義国家の裁判官として失格です。この問題についての考え方は他の論点についての考え方とはまったく位置づけが違うのです。
 さて、まずは是非、皆さん自身の選挙権の価値を知って下さい。1人1票国民実現会議のHPで、簡単に調べることができます。きっとこんな理不尽は許されないと思うはずです。もしそう思われたら、1人1票実現運動のサポーターになって下さい。また、ツイッターなどでつぶやいて社会にこの理不尽を広めて下さい。1人1票の実現は「他人事」ではなく「自分事」と認識するところから始まります。
 次回は「1人1票実現訴訟の違憲判決について(2)」として、新聞の記事にあった参議院の独自性や定数削減について触れたいと思います。
 追記:昨日、近藤崇晴最高裁判事の訃報に触れてとても残念に思います。近藤判事は、これまでの1人1票裁判で少数意見としての違憲判決を書いてきた裁判官でした。

最高裁の判事は、「国民審査」(*)によって、私たちのひとり一人の判断で罷免することができます。塾長はこの制度を使って、日本の民主主義の根幹にかかわる「1人1票」を作り直そうという国民運動を呼びかけています。17日の東京高裁での違憲判決は、その一歩というわけです。みなさんも是非、この運動に参加しましょう。

*国民審査:
日本国憲法第79条第2項及び第3項と最高裁判所裁判官国民審査法に基づいている制度。最高裁の裁判官は、任命後初の衆議院議員総選挙の投票日に国民審査を受け、その後は審査から10年を経過した後に行われる総選挙時に再審査を受ける。

 

  

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伊藤真

伊藤真(いとう まこと): 伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長。1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。著書に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)、『憲法の力』(集英社新書)、『なりたくない人のための裁判員入門』(幻冬舎新書)、『中高生のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)など多数。近著に『憲法の知恵ブクロ』(新日本出版社)がある。

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