司法試験界のカリスマ講師の伊藤真塾長に、時には明快な切り口で、時には懇切丁寧な解説で、「憲法の根本的な意義や役割について」連載で教えていただきます。第1回は、先日発表になった「自民党の新憲法草案」の問題点についてです。
新憲法制定の発議は
現憲法では憲法違反である
これからしばらくこの『マガジン9条』にいろいろと書く機会を与えていただきました。今、しっかり自分に与えられた役割を果たさないと後で後悔するので頑張ります。第1回は、先日発表された自民党の「新憲法草案」について気になったことを書いてみます。
10月28日に自民党の新憲法草案が発表されました。予想されたものよりも復古的色彩が後退していましたが、その内容はいろいろと問題が多いように思います。多くの識者は、これを改正案として読んでいるようですが、自民党自身が言っているようにこれは新憲法の草案です。内容的にも現在の憲法の根本価値を否定しているので、これは明らかに新憲法の制定です。ですが、そもそも私たち主権者は国会議員に新憲法制定の権限など与えていません。改正のための発議権を国会に与えているだけです。
確かに国会議員が憲法改正の議論をすることは、憲法96条がある以上認められています。しかし、新憲法の制定となると話は別です。改正は現行憲法と連続性を保ちつつ、内容のマイナーチェンジをすることですが、新憲法の制定は既存の憲法の価値を否定して、新たな憲法秩序を構築することを意味します。つまり、現行憲法秩序を否定するのですから、これは明確に憲法99条違反となります。これは一種の政治的クーデターともいうべき行為です。名古屋大学の浦部法穂教授が指摘されるように、そもそも平時に新憲法の制定を行う国などありません。戦争や革命、大きな政治体制の変化があったときに初めて新憲法の制定が行われます。百歩譲ったとしても、国民が憲法制定会議の代表を選出して初めて新憲法制定の議論が可能となるはずです。現憲法下の国会議員に新憲法制定の発議などできません。
このようにそもそも前提に大いに問題があるのですが、その内容にも疑問を感じます。ここでは3点だけ指摘しておきます。
自衛軍創設が意味すること
第1は自衛軍の創設です。しかも単に戦力不保持規定を削除して自衛隊を自衛軍に格上げしただけでは終わっていません。9条の2によって総理大臣を最高指揮権者とし、20条3項、89条1項によって、社会的儀礼の範囲内なら宗教的活動も許されるとして、戦争に不可避の戦死を美化するお膳立てをしています。さらに72条によって総理大臣が閣議決定を経ずに直接、行政各部を指揮監督できるとして、その権限を強化しました。
この三位一体の構造で戦争へのハードルを限りなく低くしています。現行憲法の一番の特徴であった平和を人権として主張することも廃止し、将来に向かっての積極的非暴力平和主義の展望をも奪ってしまう内容になっています。
9条の2の2項には「自衛軍は、前項の規定による任務を遂行するための活動を行うにつき、法律の定めるところにより、国会の承認その他の統制に服する。」とあります。つまり文民統制を規定しているのですが、ここでは国会の承認が不可欠となっていません。その他の統制でもよいことになっています。文民統制は骨抜きです。
9条の3の3項には、自衛軍の活動が3つ規定されています。その3つめには、「緊急事態における公の秩序を維持し、または国民の生命もしくは自由を守るための活動を行うことができる。」とあります。つまり、国内で暴動などが起こったら自衛軍がその鎮圧にあたるということです。何を持って公の秩序を維持するための活動なのかがはっきりしませんが、とにかく国民に対して軍の銃口が向けられるということです。
そしてこうした活動には国会の承認はおろかなんの統制も憲法上は要求されていません(国会の承認その他の統制は2項によって、前項つまり1項の活動のみに要求されています)。
憲法の本質を変えてしまう恐れがある
第2の問題点は、公の強調でしょう。従来の公共の福祉、つまり人権相互の矛盾衝突の調整という概念を否定し、個人を越える価値として、国家とつながる公益や公の秩序を強調しています。
本来、公とはpublicつまり人々のはずですが、この国では天皇や国を示す言葉として使われてきました。個人の尊重が最高価値とは言えなくなります。また、国民の義務や責任を強調(前文、12条、13条、29条、91条の2第2項)し、軍事裁判所の規定(76条3項)を置くことで、人権保障規定という憲法の本質を変容させようとしています。前文では国に対する愛情を義務付けて強制することで私たちの内心にまで干渉しようとします。
さらに、憲法改正要件を緩和することによって、国家権力への歯止めという最も根本的な憲法の本質を変えてしまう危険性を持っています。
第3に地方自治の問題です。地方自治に関してはずいぶんと条文が増えて、充実しているように見えます。多くは地方自治法の規定をそのまま持ってきたようなものですが、それでもいくつか重要な意味があります。
まず、91条の2の2項によって、住民に地方自治体の役務の提供の負担を分担する義務を負わせます。憲法に義務負担の規定を置くことの問題は先に述べたとおりです。
そして、92条では、国と地方自治体の適切な役割分担を規定します。誰が適切と判断するのでしょうか。どのような役割分担がなされるのでしょうか。この規定によって、国防や外交、軍事、国際協力などは国の役割であって、地方は口を出すなといわれる危険性があります。横須賀市や神奈川県が原子力空母入港反対と声を上げることができなくなります。沖縄県が独自に米軍と交渉したり意見を述べたりすることもできなくなります。無防備地域宣言などの平和活動も大きく制限されることになるでしょう。まさに地方が国の言いなりにならざるをえなくなるわけです。
それを決定づけるのが95条の削除です。現行憲法の95条では、特定の地方公共団体だけに不利益に適用される法律を作るときには、その地域の住民の住民投票が必要となっています。つまり、国がかってに特定の地域に不利益な法律を押し付けることができないのです。この条文を削除してしまうのですから、国は特定の地域に不利益な法律も自由に作れることになります。まさに地方は国のいいなりです。地方自治体は法律の範囲内でしか権限を与えられていませんから、国が法律によっていくらでも自治体の権限を制限することができてしまうのです。これで地方の時代などといえるのでしょうか。
国民は、新憲法に何かを期待するのかもしれません。しかし、現在の憲法の下でもその価値を実現できているとはいえない状況で、権力への歯止めを緩やかにして国民は何を得られるのでしょうか。
憲法は魔法の杖ではありません。人に頼ったり、強いものに依存して何かを与えてもらうことを期待したりするだけではだめです。自分自身が主体となって、獲得する努力をしなければ何も得られません。閉塞感から抜け出すには、自分で道を見つけること、自分でもがくこと、自分で苦しむこと、そして自分で獲得することが必要なのです。