2014年5月15日、安倍首相の私的諮問会議である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会(略称:安保法制懇)」(北岡伸一座長代理)から、安倍首相に報告書が提出されました。安倍首相は、これをもとに公明党を含めた与党内で、月内にも集団的自衛権の行使容認など安全保障に関する憲法解釈変更や法整備を巡る政府方針を表明するものと思われます。
安保法制懇の性格
この安保法制懇は「法的基盤の再構築」という名称とは裏腹に、メンバーのほとんどは国際政治や安全保障など政策論の研究者で、法律の専門家がほとんど入っていません。唯一憲法学者である西修駒澤大学名誉教授は、現行憲法下でも集団的自衛権行使を可能とする、現在の日本の憲法学界ではほとんど支持者がいない独特の憲法解釈を主張されておられる方です。
そして、この安保法制懇メンバーについては、集団的自衛権の行使容認に反対の立場の者がいないとの批判がされていますが、このような安保法制懇の性格に関して、北岡伸一座長代理の発言として、次のような報道がなされています。
「北岡伸一座長代理は19日、自民党の会合で、『安保法制懇に正統性がないと(新聞に)書かれるが、首相の私的懇談会だから、正統性なんてそもそもあるわけがない』と語った。北岡氏は首相に提示した報告書の作成で中心的な役割を果たした。……北岡氏は、安保法制懇のメンバーに集団的自衛権の行使に反対する人がいない、という報道についても『自分と意見の違う人を入れてどうするのか。日本のあしき平等主義だ』と強調。さらに『NHKだって必ず番組に10党で出すから、議論が深まらない。鋭い論法でやっていても、あとで視聴者から反発が起きる。安全保障の専門家は集団的自衛権に反対の人はほとんどいない』と持論を展開した」(朝日新聞デジタル2014年5月20日「安保法制懇、正統性なんてない」 北岡座長代理)
座長代理の北岡氏自身が「正統性がない」と認めている上に、意見と違うメンバーを入れることを「日本の悪しき平等主義」と居直るような発言をしていること自体が、この安保法制懇という組織が、安倍首相の思惑どおりの結論をだすための、「結論ありき」で体裁を整えるために作られた機関であることを如実に示しているといえます。
安保法制懇メンバーの憲法観
―憲法論を欠いた政策論議―
そして、報告書の作成で中心的な役割を果たしたとされるこの北岡氏は、今年4月21日の東京新聞で、「憲法上の縛りを軽視しているのでは」との問いに対して、以下のようにコメントしています。「憲法は最高規範ではなく、上に道徳律や自然法がある。憲法だけでは何もできず、重要なのは具体的な行政法。その意味で憲法学は不要だとの議論もある。(憲法学などを)重視しすぎてやるべきことが達成できなくては困る」
また、同氏は、『中央公論』6月号(中央公論新社)に掲載された「憲法に固執して国家の安全を忘れるな」という論文において、以下のような自らの憲法観を明らかにしています。
「憲法は大切ではあるが、所詮は国内の最高法規である。憲法に加え、世界の規範である国際法と、軍事バランスで平和は守られるのである。いかにして憲法を守るかというところから出発すること自体が誤りである。いかに安全を守るかが第一であって、そのための方法を国家は考えなくてはならない」(同号79頁)
これは、国家の安全が第一で、憲法を無視してもかまわないという態度を示しているものといえます。国家の目的は、国民の安全や幸福の基礎である国家の安全、それ無しでは国民の安全や幸福はありえないということ自体はその通りですが、その目的のためにどう権力を行使するのかを定めているのが憲法です。その憲法が定めた枠組みでは問題があるというのであれば、具体的にどんな問題があるのかを指摘し、国民に理解を求め、国民の意思で憲法改正手続きをとるべきなのですが、憲法に則って国家権力を行使させる立憲主義の考え方は、北岡氏の文章からも、発表された報告書からも微塵も見受けられません。
また、西修氏も、同誌98頁「自衛と他衛は不可分の関係 解釈改憲は立憲主義を侵さない」において、「個別的自衛権なり集団的自衛権なりを行使するかは解釈上の問題ではなく、政策上の判断であると整理されなければならない」と述べています。「法的基盤の再構築」を標榜し、憲法解釈を検討すべき懇談会で唯一の憲法学者であるメンバーが、集団的自衛権行使の容認の可否について、全く法的視点を持たずに憲法解釈ではなく、政策判断をすべきであるという考えを持っていることが特筆されるべきです。
報告書の問題点1
―立憲主義を無視している―
次に、報告書の内容について検討していきましょう。報告書7頁では、従来の政府の憲法解釈の変更の可能性について、以下のように述べられています。
「更に言えば、ある時点の特定の状況の下で示された憲法論が固定化され、安全保障環境の大きな変化にかかわらず、その憲法論の下で安全保障政策が硬直化するようでは、憲法論のゆえに国民の安全が害されることになりかねない。それは主権者たる国民を守るために国民自身が憲法を制定するという立憲主義の根幹に対する背理である」
これは、従来、政府が示してきた憲法解釈の枠組みを守っていては、「国民の安全が害されることになりかねない」ので、それにとらわれずに安全保障政策をとるべきであり、それが「立憲主義」にかなうものであるという主張です。
しかし、本来、立憲主義とは、国家の権力行使を憲法に則って行使させ、もって国民の権利・自由を守るというものです。国家権力は国民が制定した、いわば国家権力に対する命令書であるところの憲法にのっとって行使されるべきものであり、もし現行の憲法の枠組みでは国民の安全を守るための安全保障政策をとりえないというのであれば、主権者たる国民に憲法改正を行うように問い、憲法改正が行われた後にそれに則って政府が安全保障政策をとるべきでしょう。それが立憲民主主義の考え方です。「国民を守る」ために権力を行使する立場の人が憲法を守らなくても良いという発想は、決して立憲主義にかなうものとはいえません。
どうも自分たちは安全保障の専門家なのだから、自分たちの政策判断は正しいという幻想にとらわれてしまっているような気がしてなりません。しかし、2003年に始まったイラク戦争に際して、イラクには大量破壊兵器が存在するという米国の虚偽情報を鵜呑みにし、これを支持したのは、他ならぬ、北岡伸一座長代理、岡崎久彦氏という安保法制懇のメンバーです。人はどんなに優秀でも過ちを犯すことがある。そこであらかじめ憲法によって一定の政策判断にも歯止めをかけておこうというのが立憲主義なのですが、そうした発想とは無縁のようです。
報告書の問題点2
―国民に理解してもらう文書になっていない―
次の報告書の問題点としては、国民に向けて、国民を説得しようという文書になっていないことがあげられます。一定の政策を実現しようとするのであれば、事実と論理と言葉で国民を説得すべきなのですが、結論ありきで、そういった姿勢が全く見受けられません。
報告書では、あるべき憲法解釈として、「こうすべきだ」「こうすべきだ」と縷々述べているわけですが、およそ法解釈とはいえないようなものばかりです。例えば、集団的自衛権については、「事実として、今日の日本の安全が個別的自衛権の行使だけで確保されるとは考え難い。したがって、「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである」(報告書21頁)と述べたり、憲法9条の解釈としては、「(憲法9条1項の解釈として)自衛のための武力の行使は禁じられておらず、また国連PKO等や集団安全保障措置への参加といった国際法上合法的な活動への憲法上の制約はないと解すべきである」(同18頁)と述べているのですが、どのように憲法を論理的に解釈すればそのような結論が導けるのかについて全く説明がありません。
また、報告書は、「個別的又は集団的を問わず自衛のための実力の保持や、いわゆる国際貢献のための実力の保持は合憲であるという考え方は、憲法第9条の起草過程において、第2項冒頭に『前項の目的を達するため』という文言が後から挿入された(いわゆる「芦田修正」)との経緯に着目した解釈であるが、政府はこれまでこのような解釈をとってこなかった」(同19頁)、「逆に言えばなぜ個別的自衛権だけで我が国の国家及び国民の安全を確保できるのかという死活的に重要な論点についての論証は、(中略)ほとんどなされてこなかった」(同19頁)としていますが、なぜ従来の憲法解釈ではダメなのかについて説得力ある説明がされていません。
そして、今までの憲法学界ではほとんど支持者のいなかった西修氏の独自の憲法解釈を持ち出して、「あるべき憲法解釈」(同17頁以下)として、あたかも普遍的な憲法解釈であるかのようなものにしてしまっています。記者会見では、安倍首相はこの点採用はしないとしましたが、安保法制懇に過激なことをいわせて、自身はそれよりも穏健派であることをアピールする演出だったのかもしれません。
さらに、報告書7頁では、「我が国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない」という砂川事件大法廷判決の一部を引用し、「我が国が持つ固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権とを区別しておらず、したがって集団的自衛権の行使を禁じていない」ことを導いています。しかし引用部分の続きを読んでみると、「必要な自衛のための措置」とは、日本の防衛力の不足を他国に補ってもらうことができることを意味しているのであり、駐留米軍の存在は合憲であることを指摘するための記述にすぎないとわかります。つまり、集団的自衛権はまったく想定されていないのです。法律学において、判例は事案との関係で意味を持つことは常識であり、ある部分だけを都合よく解釈することなどできないのは当たり前のはずですが、それを平気でしてしまっています。このようなことがまかり通るようであれば、判例の先例としての意味など無くなってしまいます。
以上のように、報告書は、今まで積み上げられた政府解釈の重みや、憲法学の蓄積を無視して独自の解釈を展開しています。権力を拘束するための憲法について、拘束される側の都合で拘束を緩やかにする解釈が自由にまかり通るのであれば、立憲主義の意義を失わせてしまう暴挙といってよく、憲法どころか法そのものへの信頼が失われてしまうでしょう。
報告書の問題点3
―国民のリスクなどについて検討していない国家優位の思考―
この報告書では、そういった新たな憲法解釈を取ることによって、国民生活にどのようなリスクや不利益、危険性が生じるのかということについても、全く配慮がありません。「国民の安全」ということを散々言っていながら、提言された政策を実現した場合に国民にどれだけリスクが生じるのか、そうしたデメリットについて全く触れられていません。政策論としても、国民不在の、国家優位の政策論になってしまっています。
例えば、集団的自衛権の行使をしたりするとなると、同盟国の敵が自国にとっての敵となり、国民と企業が武力攻撃・テロの標的になる危険が増すことになります。また、特定の国とだけ同盟関係を深める国は、日本の外交の幅を狭め、国家という観点からも大きなリスクを抱えることになりかねません。しかし、報告書では、自衛官も含めた国民にどういう影響を及ぼすのかについて、分析・検討がなされていません。主権者たる国民を、事実と論理と言葉で説得して納得してもらうための報告書ではなく、米国と対等な関係に立ちたい、あるいは国際社会において認められたいという想いに偏り、安倍首相の意向に沿った都合の良い結論を出すための、国民不在の報告書といわざるを得ません。
また、過去において集団的自衛権が行使された例についても分析・検討がなされるべきなのですが、これについても非常にお粗末なものとなっています。報告書20頁では、「国際連合憲章では、第2条4により国際関係における武力の行使が禁じられているが、第51条に従って個別的又は集団的自衛のために武力を行使する権利は妨げられない。これは、同条に明記されているとおり、自衛権が国家が当然に有している固有の権利(「自然権」(droit naturel))であるからである」と述べています。
しかし、1945年に国連が発足した後、現在までの約70年の間に集団的自衛権を理由とした武力行使は、国連加盟国193カ国のうち、アメリカ、ロシア(旧ソ連)、イギリス、フランスなどの大国によるものがほとんどです。これらの国が「集団的自衛権行使」を名目に武力行使した事例の多くは、その実態は他国の内戦やクーデターへの介入です。
特に、今回、日本が集団的自衛権行使のパートナーとしているアメリカは、「集団的自衛権行使」を口実として、ベトナム戦争、ニカラグア内戦介入、グレナダ侵攻、イラク戦争など、過去において国連憲章違反とされ、又はその疑いの強い軍事行動を多く行っています。
ベトナム戦争の発端となったトンキン湾事件はアメリカ軍のでっち上げであったことが明らかになっていますし、ニカラグア内戦介入事件では、国際司法裁判所(ICJ)が正当な集団的自衛権の行使であったとのアメリカの主張を明確に退けています。イラク戦争ではアメリカが「ならずもの国家イラクは大量破壊兵器を持っているおそれがあり、それがテロリストに流れてアメリカや同盟国を攻撃するかもしれず、そのような場合には『予防的自衛権』を発動できる」という理屈で多国籍軍がイラクを攻撃しましたが、結局大量破壊兵器は見つかっていません。
このような過去の事例における「集団的自衛権」行使の正当性について何ら検証をしておらず、事実に基づいた集団的自衛権行使の必要性について検討しているとは到底いえません。
後半につづきます
「いかにして憲法を守るかというところから出発すること自体が誤りである」と指摘する座長代理。その通りである。 「人はどんなにも優秀でも過ちを犯すことがある」。すべてはここから出発しなければならない。これは歴史の教訓だからだ。「歴史を記憶しないものは、再び同じ味を味わざるをえない」。これはアウシュヴィッツ強制収容所(ポーランド)4号館入り口に刻まれていたものだ。そこで学んだのが、民主主義の怖さ、「人の支配」の危険性である。だから立憲主義を醸成させ「法の支配」を徹底させなければならないのだ。その為の憲法なのだ。
それにしても 「日本の悪しき平等主義」と居直るような座長代理の傲慢さはどこからくるのか。 「安全保障の専門家は集団的自衛権に反対の人はほとんどいない」という同代理。人は多数派にいるととかく周りが見えなくなる。「自分たちの政策判断は正しい」、と幻想にとらわれても不思議ではない。命を武器に紛争を解決しようとする割には謙虚さが足りな過ぎないか。
憲法解釈変更するのに憲法の専門家ではなく、政策論の研究者がほとんどだという不可思議さ。「安保法制懇」に正当性がない、と認める座長代理。そこからの報告をあたかも「有識者」からの報告として検討する安倍内閣の軽さ。これが国民の前で繰り広げられている光景なのだ。そうそう観れる光景ではない。
戦争へ行かなかったものとして、孤独に耐え、想像力を高め、「思考停止」に陥らないようにしたい。
繰り返す。「人はどんなにも優秀でも過ちを犯すことがある」。すべてはここから出発しなければならない。
安倍政権による集団的自衛権の行使容認など安全保障に関する憲法解釈変更や法整備に反対していくには、それに反対する側が「9条に対する解釈がどこまでなら許容でき、どこまでが許容できないのか」というルールを反対者同士で討議したうえで合意し、それを日本国民に提示しなければ、反対者側の主張もまた国民に理解されないのではないでしょうか?
これはサッカーのルールを例にとれば、反対者達は自民党の「サッカーでハンドしても反則にならない」という主張には一致して反対しているけど、その他は「オフサイドは反則だ・反則でない」とか「ヘディングは反則だ・反則でない」等々、反対者達同士で意見が食い違っていていっこうにまとまらず、観客としては、「自民党も、反対者も意見がバラバラで、わけがわからないよ」ということになっているのではないでしょうか?
そして、伊藤真先生はかつて9条に完璧に則った「非暴力防衛」を主張されていましたが、その主張を押し通して他の反対者達の共通認識として確立させるか、はたまた伊藤先生自身が他の反対者達の意見を受け入れ、「非暴力防衛」を捨てるなりして、「9条のルール」を確立して反対者達と共に提示ければならないと私は考えます。
第72回で「市民による非暴力防衛が実効性を持つためには、ある程度の価値観の共有が必要となります」と伊藤先生は仰いましたが、他ならぬ伊藤先生が価値観を共有させる活動をすべき時期になったのだと思います。