アフガニスタンでの武装解除を指揮した伊勢崎賢治さんは、現在、東京外国語大学で平和構築・紛争予防講座長を務めています。そのクラスには、世界各国から学生たちが集まっています。学生といっても、紛争地から国費留学でやってきた、国を再建する命を受けている官僚の卵や、国連の元上級幹部など、出身地もバックグラウンドも実に多様。
「マガ9」では、伊勢崎さんをナビゲータとして、学生たちの出身国、出身地の現状について紹介。伊勢崎さんとのやりとりを通して、国際平和を作るために何が求められているのか? 生の声を聞きつつ、日本の現実的で有益な国際協力について考えていきましょう。
伊勢崎賢治 いせざき・けんじ●1957年東京生まれ。大学卒業後、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動に携わる。国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シェラレオネ、 アフガニスタンで紛争処理を指揮。現在、東京外国語大学教授。紛争予防・平和構築講座を担当。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)『自衛隊の国際貢献は憲法九条で』(かもがわ出版)などがある。
ニュン・スウェ Nyunt Shwe ●1945年生まれ。大学卒業後、国営企業に地質学者として勤務。民主化・反政府運動にかかわったことから出国をやむなくされ、1991年にオーストラリアを経て日本へ。2006年に難民認定を受けた。翌年からPCS(平和構築講座)で学ぶ。
■同僚たちの前で、「非国民」と罵られた日
伊勢崎 前回、ビルマにネ・ウィンの軍事独裁政権が成立し、のちに大規模な反政府デモが起こるまでの話を聞きました。
それについて話す前に、ニュンさんのパーソナルヒストリーを聞いておきましょうか。生まれたのはいつ?
ニュン
1945年の8月14日です。日本が降伏する前日だから、私は平和を持って生まれてきたんだ、という話をよくしています(笑)。
——5歳のとき、ペストの流行で両親を相次いで失ったニュンさんは、父親の親戚の寺に預けられて育った。4歳年上で、中学校に入ったばかりだった姉は「学校をすぐにやめて働きだしたけど、毎日の食事もろくにできないくらい苦労しました」という。
それでも、のちに姉が小学校の教師と結婚したのが縁で、ニュンさんも小学校に進学することができた。11歳と、周囲より遅れての入学だったが、飛び級を重ね、22歳で大学に入学する。
ニュン 大学に入ってからは、共産党を支持するようになりました。党員にはならなかったけれど、レーニンやスターリン、毛沢東の本を、専門の地質学の本よりも熱心に読んでいましたね。もっとも、10歳までは寺で育ったので、やはり自分のベースには仏教があったし、大学を出た後は共産主義よりもそちらのほうにまた関心が移っていったんですが…。
ともかく、そうして共産党を支持していたので、私はネ・ウィンのビルマ社会主義計画党(BSPP)には入党しませんでした。実は、当時のビルマでは労働者のほぼ全員が党員だったんです。入らないと圧力を受けることがあるし、逆に入ればわずかでもいろんな場面でメリットがあるので。でも、私は入らなかった。
——大学卒業後、地質学者としてある国営企業に就職し、1974年から2年間、企業派遣でオランダに留学。「そのあたりから、上司との関係があまりよくなくなっていった」とニュンさんは言う。そして1988年、再度の留学を目指してスカラシップを希望し、受けた面接の会場で「事件」は起こった。
ニュン 会社の役員はほとんどみんな軍人なので、そのときも面接官は軍人でした。その1人に「おまえはBSPPのメンバーか?」と聞かれたので「違います」と答えると「なぜ入らないんだ」と言うんですね。仕方がないので、いろいろ理由をつけて答えましたよ。「両親が早くに亡くなって、育ててくれたおばあちゃんが政治嫌いだったから。亡くなった人との約束は守らなくてはいけない」とかね。でも、結局スカラシップは認められませんでした。成績は十分に条件を満たしていたにもかかわらず、です。
そして次の日、会社に行くと、3000人くらいいた社員が全員集められての「会議」が行われていたんです。中央の椅子に社長が座って、他の社員がその周りにずらりと座っている。私は社長の前に引き出されて、小さなスツールにまるで犯罪者みたいに座らされました。
そこから「なぜ国の政党に入らない、おまえは非国民だ」とか「入らないならもう外国に行くチャンスなどない、出世もできないぞ」と、30分ほどひたすら責められ続けたんですね。身動きすると「立つな!」と怒鳴られて、ただもう「はい」「はい」というしかなかった。でも「BSPPに入るか入らないか、もう一度考えろ」と言われたときには「入らない」と答えました。
——なんとかその場は解放されたものの、これ以上この会社で働くことはできない、と考えたニュンさんは、会社に退職の意思を伝えた。しかし、会社からの返事は「認められない」というもの。どうしても退職するなら、日本円にして数十万という巨額の罰金を払えとまで言ってきた。最終的には、友人の医師に「病気でこれ以上働けない」旨の偽証明書を発行してもらい、ようやく退職できたのだという。辞める前の数カ月間は、給料なしでただ働きの状態だった。
■非武装のデモに、銃を向けた軍隊
伊勢崎 さて、そうしてニュンさんが会社を辞めて、その後に1988年の大規模なデモが起こるんだよね。
——1988年3月、ラングーン工科大学の学生と地元有力者の息子の口論を発端に、学生のデモ隊と治安警察部隊が衝突。学生が警察部隊の銃撃で命を落とすという事件が起こる。
これをきっかけに、ネ・ウィン政権の独裁体制や人権抑圧、経済政策の失敗に対する人々の不満が爆発。大規模な反体制・民主化要求運動が地方へも波及していく。7月23日、辞任を求める声を抑えきれずにBSPP議長辞職を発表したネ・ウィンは、辞任会見で「騒動を起こす者に対しては、軍は威嚇射撃などしないで狙って撃つ」と、民主化勢力を威嚇する演説を行った。
それでも、学生たちを中心に呼びかけは広がり、8月8日、ついに大規模な民主化要求デモが勃発する。のちに言う「8888民主化運動(※)」である。反体制の運動に深く関わるようになっていたニュンさんも迷わずこれに加わり、人々とともに街を歩いた。
ニュン
その夜は、1日中歩き回って疲れたので、私はダウンタウンから少し離れた自分の家に帰ったのですが、帰らずに公園で朝まで過ごした人も多かった。そうしたら、夜の9時か10時ごろになって、軍事政権の兵士たちがやってきて、「すぐに解散して帰れ」と言ったそうです。「20分だけは待ってやる。それで帰らなかったら発砲する」と。それで結果的に、本当に発砲があったんです。まったく武器を持っていないデモ隊に対して。これは私が自分の目で見たのではありませんが、たくさんの人が亡くなったようです。
そして次の日も、私が朝起きてシャワーを浴びていたら、「パン、パン」という音が聞こえました。それですぐに飛び出して、自転車で音のした方向へ向かった。そうして、人だかりのしている場所に着いたら、そこの地面に血が流れているのが見えたんです。すでに遺体などは残っていませんでしたが、周りの人が、「小学生がデモをしていたら、そこに警察の発砲があって4人の子が死んだんだ」と教えてくれました。その他の場所でも、大けがをして腹から腸が出てしまっている人の姿などを、私も自分の目で見ました。
それから、そこから交番までデモをしていたときに再び警察の発砲があって、私も急いで逃げました。
■群集心理が、民衆を暴走させた
——このときの一連の抗議行動に対する軍事政権の攻撃で、命を落とした市民の数は数千人にのぼるという説もある。正確な数こそ明らかになっていないものの、非武装のデモに対する軍や警察の発砲で、大勢の人が亡くなったことは間違いない。
その一方で、ニュンさんは一部の民衆による「暴走」の事実も指摘する。
ニュン
1人、民衆の中に紛れ込んでいる警察のスパイがいたんですね。どこの家がBBCなど外国の放送を聞いているとか、ラジオを持っているとか——「どこに集合だ」とか、デモの情報を流すのもそのときはラジオだったから——の情報を全部把握して、それを警察に流していた。
デモの混乱の中で、そのスパイが民衆に捕まって、殺されたんです。殺されただけではなくて、その遺体をばらばらにして、手や足を掲げてデモしたグループもいました。ちょうど私の家の近くを通って行ったので、私もこの目でそれを見たんですよ。
伊勢崎
警察に対する報復ということですね。
ニュン
そうです。警官たちは途中で交番を捨てて逃げていってしまったので、民衆がその後を占拠しました。
ほかにも、「政府のスパイだ」と言われて殺された人がいたようです。誰か1人が「あいつはスパイじゃないか」と言い出すと、みんなその人のことをよく知らないので「じゃあ殺してしまえ」となるんですね。
伊勢崎
まさに群集心理だ。
ニュン
あと、私の家から1キロほど離れたところに、退役軍人が大勢住んでいる地区があったのですが、そこにも火が放たれました。「やつらは軍の味方だ」と言って。さらに、200人近い人が捕まって、ダウンタウンのある建物に集められたんです。本来はお寺の中の、みんなが集まってお坊さんの説教を聞く場所なんですが。
私は朝5時くらいにその火事の様子を見て、自転車でダウンタウンへ向かったのですが、その途中、ある交差点を通ったときに、とても驚きました。普段なら週に1回の市が立つ場所なんですが、そこに2つの生首が並べて置いてあったんです。
ともかくそこを通り過ぎて、捕まった人たちが集められている建物に向かいました。捕まった中に、私の職場の先輩がいることが分かっていたからです。彼は軍とは関係ないんだけど、土地が安いという理由でそこに住んでいた。それで捕まってしまったんです。尋問されて、場合によっては殺されてしまうかもしれないから、「助けないとだめだ」と思ったんですね。
入り口まで行くと、最初は「関係者以外は入るな」と言われたんですが、私はそのとき、数日前からカメラを持ってデモの様子を記録して回っていたので、「私はレポーターだ。私たちのやってることを広く外に知らせたほうがいい」と言って入れてもらいました。
お寺なので、中に入るとお坊さんがいました。私は彼に「こんなことをやってたら、この革命は必ず失敗するよ」と言ったんですが、彼がそれに応えて小声で囁いたのは、「あなた、首にお気をつけなさい」という言葉。「私も、もう何の力もないんです」と。
伊勢崎
みんなのやってることを止める力はない、と。
ニュン
そうです。その後、なんとか「この人は私と一緒に働いていた地質学者で、軍人じゃない」と説明して、先輩を助け出すことはできました。あともう1人、やはり勘違いで捕まっていた牧師さんもいたので、その人も逃がすことができた。
でも、中ではひどい拷問も行われていました。しかも、私が「犯罪者の写真を撮りたい」と言って、カメラを持ってそこに近寄っていくと、拷問をしていた張本人たちが、「俺たちも撮ってくれ」と誇らしげに言うんです。
伊勢崎
正しいことをやっていると思っているわけだ。
ニュン
そうです。結局、顔は入れないで撮りましたけどね。
※8888民主化運動…1988年8月8日、学生や僧侶などの呼びかけによって展開された、ビルマの大規模な反政府・民主化要求運動。軍による激しい弾圧を受けながらも全土に拡大し、ネ・ウィン独裁体制を退陣に追い込んだが、ソウ・マウンによるクーデターで鎮圧された。現在もビルマ民主化運動の原点とされており、毎年8月8日には、民主化運動家やその支援グループによる、「8888」を記念したデモ行進などが世界各地で行われる。
■「暴走」を止められなかった民主化運動の首脳部
——そうして知人たちを救いだすことに成功したニュンさんは、急いで自宅のほうへ駆け戻り、近所に住む元共産党員の知人を訪ねた。ニュンさんらの運動を、かねてから応援してくれていた人物だ。
ニュン
「こんなことを続けていたら、この革命は必ず失敗する。止めなきゃならない。私たちにその力はないから、運動の首脳部に知らせに行こう」と言ったんです。でも、その人はこう言いました。「ニュンさん、あなたが知っているようなことは、彼らも当然知ってるはずですよ」。
伊勢崎
どんなことが起こっているのか、首脳部だってすでに知っているはずだ、と。
ニュン
そうです。だから、私たちが「止めてくれ」と言っても意味はない。止めるべきだと思っているなら、もうすでに止まっているはずだ、というんです。
…その後、何人が殺されたのか、そのうちの何人が本当の「人民の敵」だったのかはわかりません。私が撮った写真も、しばらくはフィルムを保管していたのですが、後に紛失してしまいました。
——この混乱のさなかの8月24日には、病気の母親を見舞うために移住先の英国から帰国していたアウンサンスーチー氏が、ラングーン市内のシュエダゴン・パゴダ前での50万人集会で演説を行う。以後、独立の英雄・アウンサン将軍の娘として、彼女の姿はビルマ民主化のシンボルとなった。
そうして独裁政権打倒をなしとげたかに見えた「8888民主化運動」は、しかし再び権力によって武力鎮圧される。9月18日、ビルマ軍のソウ・マウン将軍が軍事クーデターを起こし、権力を掌握。これが、現在のミャンマー軍事政権の前身である。
「8888民主化運動」を鎮圧する形で、権力を掌握した現在の軍事政権。
スーチーさんの拘束もいまだ続く中、民主化実現への道のりは見えるのか?
引き続き、ニュンさんの意見を聞いていきます。