ようやく熱風の夏が終わったと思ったら、今度は妙な風が吹き始めた。「解散風」とかいうらしい。
二階俊博自民党幹事長は、10月10日、和歌山市での記者会見で「選挙の風が、もう吹き始めている。こんなにどんどん吹き始めると、いま準備にかからない候補者は論外だ」と語った。
なにしろ政権党の大幹部が、自ら「選挙の風が吹き始めた」と煽るのだから、ほんとうに解散が近いと考えて間違いないだろう。「解散風は吹き始めたら止められない」というのが政界の常識、もう待ったなしの状況だ。残る問題は「解散時期」だけ。
その時期を見極めるための前哨戦ともいえる選挙が3カ所で行われる
まず、10月16日に投開票の新潟県知事選。
ここは、現知事の泉田裕彦氏の突然の立候補取り止めによって混沌としていたが、自民公明は前長岡市長の森民夫氏(67)を推薦。固い自公の組織票に乗る森氏が断然優位とみられていた。だが「柏崎刈羽原発の再稼働に厳しい姿勢をとり続けた泉田知事の路線を引き継ぐ」と明言して立候補した医師の米山隆一氏(49)が猛追。情勢は伯仲という。
マスメディア各社が行った新潟県民の事前調査によれば、原発再稼働反対が軒並み60%を超え、再稼働賛成は20%程度。原発問題が争点になりつつある中、結果は予断を許さない。
鹿児島県知事選の前例もある。原発再稼働に待ったをかける知事が新潟にも誕生すれば、安倍政権にはそうとうな打撃になる。
しかし、問題は民進党だ。米山氏は元々、民進党の次期衆院選の候補者だった。その米山氏を、なぜか民進党は推さず、共産、社民、生活の3野党の推薦候補ということになった。民進党の蓮舫執行部は「次期衆院選も野党共闘で」とようやく決めたようだが、自分の党の候補者も知事選で推せないのに、野党共闘などできるのだろうか。
むろん、陰にはもはや“労働者の味方”であることをやめてしまった「連合」の存在がある。原発推進労組である電機連合が強い力を持つ「連合」は、再稼働に厳しい米山氏の路線を否定、逆に再稼働に前向きな森氏に乗ってしまったのだ。連合に逆らえない民進党は、そのため米山氏を推すことができない。みっともない。
だが、もし米山氏が勝つことになれば、民進党の存在価値は無きに等しくなる。それに、共産党嫌いで有名な(というより、民主党大敗北の責任者だった)野田佳彦元首相が幹事長を務める民進党なのだから「野党共闘」などはとても本心とは思えない。
東京10区、福岡6区の衆院補欠選は23日に投開票。東京10区は、小池百合子氏の東京都知事への転身、福岡6区は鳩山邦夫氏の死去に伴うもの。
このふたつも、複雑な事情を抱えている。東京10区では、自民党東京都連の意に背いて小池氏の支持に回った若狭勝氏(59)を、自民党中央が公認候補としてしまった。若狭氏を処分すると息巻いていた自民党都連は沈黙。もう何でもありの仁義なき戦い。
ここには民進党から鈴木庸介氏(40)が立候補、野党各党も鈴木氏に乗った形だが、民進党は共産党からは距離を置く、という煮え切らない態勢。これではとても野党共闘と言えそうもない。
同じく福岡6区。ここでは、鳩山氏の次男の二郎氏(37)と蔵内謙氏(35)に自民が分裂。その裏には、蔵内氏を推す麻生太郎財務相と鳩山氏に肩入れする二階俊博幹事長の対立があるといわれる。となれば、一応は野党がまとまった民進党の新井富美子氏(49)の目もあるかと思われるが、そううまくいくかどうか。
この3つの選挙の帰趨が、安倍首相の解散戦略に影響を及ぼすのは間違いない。もし3つとも自民系候補が勝つようであれば、安倍首相はますます強気になるだろうし「解散権」という伝家の宝刀をいつでも抜ける。
最初に書いたように、二階幹事長という自民党の大親分が「選挙の風」を煽り出したのは、むろん、安倍官邸とすり合わせた上でのことだ。民進党は新体制が固まっておらず、衆院選の立候補予定者をまだ多くの選挙区で決められていない。しかも、民進党の「野党協力」の本気度も疑われているような状況なのだから、安倍自民党としては、早い時期に衆院選を行ったほうが有利だと考えるのは当然だ。
その上、自民党の完全補完勢力に成り下がった公明党は、早くも選挙準備に入ったと伝えられる。もう何を言われても、自民党にくっついていくと決めたらしい。公明党の動向がひとつのカギになっていただけに、安倍首相にとっては「解散」のハードルが下がったのだ。
ということで、来年早々の解散総選挙が取り沙汰され始めた。この選挙で、またも自公+維新などの「改憲勢力」が大勝するようなことになれば、安倍首相はもう何の迷いもなく悲願の「改憲国民投票」に打って出るだろう。そうなれば、国民投票である。
だが「国民投票」とは、そんなに万能なのだろうか。確かに民主主義の大事な手法のひとつであることは間違いないだろう。けれど、全幅の信頼を置くことはできるのか。
それを考えるとき、いつもぼくの頭に浮かぶのは、ナチス・ドイツの先例である。“民主的な制度”によってドイツ首相に選ばれたヒトラーは、矢継ぎ早に多くの国民投票を実施、その結果、ドイツは次第にファシズムの泥沼に踏み込んでいった…という歴史だ。
それを「考え過ぎだ。日本ではそんなことは起きない」と一笑に付す人もいるけれど、麻生太郎財務相の「ナチスのやり方を学べばいい」発言や、「民主主義とはものごとを選挙で選ばれた議員の数で決めること」と言い放つ安倍首相の、安保関連法や特定秘密保護法の「強行採決」ぶりを考えれば、決して単なる危惧だとは思えないのだ。
朝日新聞(10月10日付)の「文化・文芸」欄が「国民投票を考える」という特集記事を載せていた。ぼくの危惧と似たようなことを話してくれている方がいた。以下、少し長い引用になるけれど、とても分かりやすい。
EUの雄・ドイツ。その憲法にあたるドイツ基本法には、国民投票を明確に定めた規定がない。「戦前への反省から外したと言われます」。ドイツ近現代史に詳しい石田勇治・東京大学教授はそう語る。「実際、戦後ドイツでは一度も国民投票が行われていません。徹底した間接民主制に切り替えた結果です」
戦前は逆に、直接民主制的な要素を多く持っていたという。「大統領を国民が直接選ぶ制度もあり、その大統領がヒトラーを首相に任命した」
首相になったヒトラーは国民投票を連発した。ドイツが国際連盟から離脱したことを承認するか否か(1933年)、自身が総統の地位に就いたことを承認するか否か(34年)……。「投票テーマは政府が決めていた。いわば『上からの』国民投票です。国民が賛成するであろうテーマを選び、十分な情報を与えず投票させた。狙いは、国民に支持された指導者だという印象を内外に広めること。国民投票が独裁の正当化に使われたのです。(略)
今夏の参院選の結果、「改憲勢力」が衆参両院で3分の2に達し、憲法改正が政治日程に上がる可能性が浮上してきた。国民投票についてドイツの教訓から有権者が留意すべきポイントとして石田さんは次の4点を挙げた。
①有権者の求める「下からの国民投票」か、行政主導の「上からの国民投投票」か ②投票前に徹底した情報開示が行われるか ③有権者に十分な検討時間と自由な発言空間が与えられるか ④民意を反映する投票方式になっているか。
「現行の国民投票法では最低投票率が設定されておらず、投票者が少なくてもその過半数が賛成すれば改正が承認されたとみなされる。これで民意が反映されたと言えるのか、改めて考えるべきだ」(略)
石田教授の意見に、ぼくは深くうなずく。ことに①の「下からの国民投票」か「上からの国民投票」か、という問題の設定は、決して見逃すことのできない項目だと思う。
もし、次期衆院選後に安倍首相の主導で「改憲国民投票」が発議されるとすれば、それはまさに行政主導の「上からの国民投票」そのものだ。少なくとも現在、国民の間から「早急に国民投票をやるべきだ」などという意見が澎湃と湧き上がってきている、というような状況にはない。ひたすら安倍首相個人とその取り巻き連中が主張しているだけだ。
安倍首相は、最初は「緊急事態条項」なるものの新設を手始めに「お試し改憲」から始める意向といわれている。
北朝鮮の脅威を取り上げ、中国の尖閣諸島や海洋進出への警戒感をあらわにする。その上で「緊急時の対策として『緊急事態条項』を憲法に書き込む必要がある」と訴えればかなりの国民の賛同を得るに違いないと、安倍首相は踏んでいるのだろう。これもまた、石田教授の言う「国民が賛成するであろうテーマを選び…」という戦略と同じだ。
そしてこれが通れば、次々に国民投票を連発するだろう。つまり「首相になったヒトラーは国民投票を連発…」と同じ手法で、最終的には「憲法9条を葬る」ことを狙ってくる。
②と③についても、危惧の念は消えない。とくに③については、テレビCMとの関連で、大いに危険だと思う。テレビCMには巨額の資金が必要だ。潤沢な資金を持っているのは、財界をバックにした改憲派か、市民グループが主体の護憲派か。考えるまでもない。
さらに、ヒトラーは「自身が総統の地位に就いたことを承認するか否か」をも国民投票で決めたという。これはいま、自民党総裁の任期を延長する方向で「自民党規約改正」が論議されていることと似てはいないか。むろん、任期延長の当事者は安倍“総裁”である。国民投票ではないけれど、自民党内での民主的手続きを一応はクリアして、独裁的色合いを強めていく。
「民主主義の中からファシズムが生まれることもある」ということを、我々は肝に銘じておく必要がある。
石田教授の言うように「国民投票が独裁の正当化に使われた」歴史もあるのだから。それこそ安倍氏の盟友・麻生氏が、つい本音として漏らしてしまった「ナチスのやり方」なのである。
ぼくは、安倍政権下での「国民投票」には、強い危惧の念を抱いている。
>「考え過ぎだ。日本ではそんなことは起きない」と一笑に付する人もいる。私は逆に一笑に府したい。
民主主義を民主主義で破壊したナチス・ドイツ。民主制を逆に利用したのだ。 人民投票を多用しドイツ国民の圧倒的な支持の下に自己の政治的な正統性を得ていった。しかし、ヒトラーは、高い失業率を半減させ、労働者には長期の休暇をとらせ、母子家庭に手厚い保護したのだ。
一方、安倍自民党は消費税は上げるが、社会保障は下がる。特定秘密保護法、安保法制の強行採決。そして、自民党憲法改正草案で立憲主義放棄を掲げる。でも、安倍政権は選挙のたびに議席数を増やしている。 選挙はほとんどが情緒的、感情的選択になっているのだ。加えて、「民主的」という言葉に思考停止し易いする国民性。つまり、「みんなで決めたのだから仕方がない」という発想だ。民主制も立憲主義の縛りがかかる、という発想がなかなか持てないのだ。
現在の日本は、当時のドイツに比べより一層ファシズムが生まれる土壌が肥えている、と見ている。