風塵だより

 ぼくは退職した時、「これからどうするんですか?」と訊かれて「平和ボケ老人になりたいと思っています」と答えた。
 たいした欲もなく、特にカネのかかる趣味もないのだから、贅沢さえしなければなんとか食べてはいけるだろうと思っていた。散歩と映画と読書とスポーツ観戦。たまにはオンボロ愛車でちょっと遠出。あとは、頼まれれば編集の仕事や原稿を少し書き、ゆっくりと老いていく。それが「平和ボケ」と揶揄されるなら、こんな名誉な称号もない。だって、平和な世界で静かに生き、少しずつボケていく。そういう生き方ってステキじゃないか。
 ところが、そうはならなかった。そんなゆとりがまるでない。気持ちが揺さぶられては、平和の裡にボケることもできない。

 沖縄が好きで、けっこう通っている。これがぼくのたったひとつの贅沢かもしれない。安いチケットを探し、適度なホテルを見つけて、年に一度の沖縄通い。でも、通っているうちに、海の美しさだけではない沖縄の現実に目を醒まさせられていく。それも「平和ボケ老人」になれない理由のひとつだ。
 このところの政府と沖縄県の抜き差しならない対立の構図を見るにつけ、ぼくは安倍政権の冷酷さに慄然とする。ボケてはいられない。

 10月13日、翁長沖縄県知事は、仲井真前知事が出した「辺野古の海の埋め立て承認」を正式に取り消した。「承認取り消し」を公約に知事選に当選し、その後の数度に及ぶ種々の選挙でも、辺野古米軍新基地建設反対派がすべて勝利したのだから、翁長知事の「取り消し」は、沖縄県民の民意に沿ったものだと明確に言える。
 だが予想された通り、安倍政府は「行政不服審査法」を振りかざして、この決定の「執行停止」を求めた。ふざけるなっ! と思う。「行政不服審査法」が、いったいどんな趣旨で作られたものかを考えれば、政府のやり口の汚さや狡さが、誰にだってすぐに分かる(はずだ)。
 この法律の第1条には、こう書かれている。

第一条 この法律は、行政庁の違法又は不当な処分その他公権力の行使に当たる行為に関し、国民に対して広く行政庁に対する不服申し立てのみちを開くことによって、簡易迅速な手続による国民の権利利益の救済を図るとともに、行政の適正な運営を確保することを目的とする。

 つまり、こういうことだ。
 行政(権力を持った側)がある政策を行う。それが住民(一般庶民と言い換えてもいい)の権利や利益を侵害することになる、という場合、住民が行政機関に対して「不服申し立て」をすることができる、というものだ。国民に「それは私の生活や人権を脅かすことになるので止めてもらいたい」と訴える権利を保証する、という趣旨なのだ。
 そこには「権力」対「私人」という明確な対比があったはずだ。ところが今回、なんと政府(防衛省)側が、沖縄県に対してこの法律を用いて「知事の承認取り消し決定」の「執行停止」を申し立てたのだ。
 国側は「防衛省は一私人の立場」(辺野古の工事を行う一事業者という立場)であるという論法を用いたわけだ。こんなデタラメがあるか。国が私人だというのなら、我々住民はいったい何? 
 それなら、我々がなにか国から不利益を押しつけられたとしても、不服を申し立てることができなくなるではないか。何を言っても「私人」対「私人」の争いになって「行政不服審査法」などは何の効力も持たないというリクツになりかねない。
 国(政府)は、いつの間にか、どんな立場にでも変身できる魔法の蓑を手に入れたらしい。
 しかも恐るべきことに、この「不服」を審査するのが、やはり「国」であるという。所轄官庁は国土交通省であり所管大臣は石井啓一氏(公明党)である。つまり、国の訴えを国が審査する、ということだ。これで正当な審査が行われると思う人がいたら、その人はどうかしている。
 とりあえず石井大臣は、翁長知事の「埋め立て取り消し」の「執行停止」を命じ、その後に「不服審査」を行うという。ところが、この「不服審査」の過程は非公表であり、審査期間も決まっていない。審査が終了するまでは、国交大臣による「翁長知事の決定の執行停止」が続く。
 何をどう審査しているのか藪の中である上に、ズルズルといくら時間を引き延ばしてもかまわない。その審査中は、工事は“粛々”と進められることになる。「審査」に5年かかるとすれば、その間、工事は進められてしまう。沖縄県の訴えは、実質的に無視される。こんなヒドイことが、沖縄では平然と行われるのだ。
 そこで例の「#菅官房長官語で答える」が登場する。むろん「何の問題もないと思いますよ」である。ウソつけ、問題だらけじゃないか!

 これに対し、沖縄県側も指をくわえて見ているだけではない。次の一手は「国地方係争処理委員会」への訴えだ。
 これは、地方自治法の改定によって生まれた制度で、国と地方自治体は対等な立場である、ということが前提。「係争処理委員会」は官僚や政治家が一応は関与できない仕組みになっているから、前述の「行政不服審査法」による審査よりは多少は“まし”かもしれない。
 だが本当に“まし”なのだろうかという疑問も残る。こんなニュースが飛び出したからだ(朝日新聞10月19日付)。

辺野古 環境委員に寄付・報酬
移設影響監視4人 業者側から

 米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の同県名護市辺野古への移設計画で、国が進める工事を環境面から監視する専門委員会の委員3人が、就任決定後の約1年間に、移設事業を受注した業者から計1100万円の寄付金を受けていた。他の1委員は受注業者の関連法人から報酬を受領していた。朝日新聞の調べでわかった。

 いやはや、恥も外聞もないらしい。これが学者とか有識者と名乗る連中のやることだから呆れ返るしかない。この記事はかなりのスクープで、各社が後追い記事を出し始めた。
 それらによると、京大・荒井修亮教授(海洋生物環境学)、東大・茅根創教授(サンゴ礁学)、横浜国大・中村由行教授(水環境学)、全国水産技術者協会・原武史理事長らが、工事を請け負う環境コンサルタント「いであ」や「五洋建設」、建設コンサルタント「エコー」などから多額の寄付や報酬を受けていたというのだ。まさにベタベタの関係。こんな関係の中で、どうやって中立、公正、厳正な監視が続けられようか。
 一応は政治や官庁から独立した委員会という建前だが、選んだのが国であればこんな癒着が起きてしまうという、典型的な悪例だ。

 安倍政権のやり口は、沖縄県民の気持ちを逆なでするばかり。島尻安伊子氏を沖縄担当大臣に任命したのも、県民の傷口に塩を擦り込むような所業だった。島尻氏がどれほど地元で評判が悪いか、知った上での人事だったのだろうか(注・選挙区が地元とはいえ、彼女は沖縄出身ではなく宮城県出身)。多分、例の「沖縄振興予算」と称するカネを地元に持ってくる、ということで島尻氏の人気回復を図り、来年の参院選(島尻氏は改選期)での当選を目指すのが目的なのだろう。
 だが、いわゆる「沖縄振興予算」にまつわる話も、事実とは違う。
 「沖縄には膨大な『振興予算』が投下されているのだから、その代わりに多少の基地負担は我慢しろ」という知ったかぶりの意見がまことしやかに語られる。だがそれは本当か?
 普通なら各省庁から割り当てられる予算も、沖縄では一括して「振興予算」と呼ぶので、額が膨大に見えるだけで、県民ひとり当たりの予算額をみれば、2013年度で全国6位でしかない。決して、沖縄が全国一の優遇措置を受けているわけではないのだ。ここにも言葉のまやかしがある。
 その「振興予算」を手土産にぶら下げて就任した島尻大臣に、さっそくスキャンダルが噴出した。
 前選挙の際、顔写真入りのカレンダーを選挙区で配ったという。かつて松島みどり法相が辞任に追い込まれた「似顔絵入りのウチワ配布事件」とそっくりな構図だ。本人は「後援会のみに配ったのだから、選挙違反には当たらない」と抗弁しているが、実際は「欲しい方は事務所へご連絡を」とブログに書いていたのだから、後援会のみというのはまったくのウソだ。
 また「週刊金曜日」10月16日号には「『沖縄攻略』の尖兵 島尻安伊子沖縄北方大臣の権力欲と暴力団疑惑」という記事が掲載されている。内容は「金曜日」を読んでほしいが、夫・昇氏が経営する日本語学校にも不明瞭な融資が行われている疑いがあるなど、かなりキナ臭い。
 こんな人物を沖縄担当大臣に据える安倍政権の感覚は、沖縄県民のことを考えているとは到底思えない。

 これからも、沖縄県と安倍政権の対立は続くだろう。
 しかし、なぜこんなことになっているのか、その裏には、沖縄の痛苦な歴史があるのだ。ある沖縄県民の言葉が、ぼくには忘れられない。ツイッターにも書いたけれど、再掲しておこう。

 銃剣とブルドーザーで強引に住民を追い出した土地に軍事基地を造り、それを返してくれと言えば、では代わりの土地に基地を造って差し出せ、と言う。これが日本政府の言い分だが、なぜこんな無法なことが許されるのだろうか…。

 

  

※コメントは承認制です。
50 沖縄を足蹴にする安倍内閣」 に1件のコメント

  1. 島 憲治 より:

    「銃剣とブルドーザーで強引に住民を追い出した土地に軍事基地を造り、それを返してくれと言えば、では代わりの土地に基地を造って差し出せ、と言う。」 怒りを取り越し,国民を見くびる姿に思考経路が完全に破壊されているとしか言いようがない。「泥棒が、盗んだものを返せと言うのなら別な物を持って来い。」聞いたことがない。勿論政府は泥棒ではない。憲法尊重擁護義務を負う人達だ。違憲法案に対案を出せ、と迫る政府と何処か通底していないだろうか。       では、なぜ思考経路が破壊されたのか。 「思考が出来なくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです」。これは映画「ハンナ・アーレント」の一幕だ。
     思うに、どんな人が思考停止状態に陥りやすいのか。 正義と邪悪。主体性と非主体性。「非主体的に生き、正義を好まず」。という型にあてはまる人達では、と想像している。だとすれば、このタイプは何処にでもいる。 思考の大切さをつくづく感じる。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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