風塵だより

 家の近所を散歩していた。少し疲れたので、小さな公園のベンチでひと休み。そのとき、ぼくの携帯が鳴った。
 「もしもし、こんにちは」。懐かしい声。
 「あ、お久しぶりです。どうも…」。意外な電話に、ぼくはちょっと驚く。
 「会社を辞めて、少しはノンビリしているかい?」
 「ええ、まあ、ボチボチですが…」
 「実はね、また新書を一冊、書きたいと思っているんだけど、もし時間があったら、鈴木くん、手伝ってくれないかな」
 「もちろんお手伝いしますよ。それで、今度は、どんな内容を考えているんですか?」
 「あのSEALDsの若い子たちの大活躍ぶりが嬉しくってね。彼らへのぼくからのエールを文章にしたいんだよ、どうだろうね?」
 「それ、すごくいい企画だと思います。さっそく、編集部に問い合わせてみましょう」
 というところで、目が覚めた。夢だった。

 電話の相手は筑紫哲也さん。
 むろん、夢でなければ筑紫さんから電話があるはずもない。でも、この前半部分は、2008年にほんとうにあったことだ。カミさんと一緒に近所を散歩中の出来事だった。今でも、その公園のそばを通ると、あのときの筑紫さんの声を思い出す。
 筑紫さんからこんな電話があったので、ぼくはかつて所属していた新書編集部へ話を持ち掛けた。
 このころすでにガンを患っておられた筑紫さんは、一気に新書1冊分を書き下ろすほどの体力はない、ということで、集英社が発行しているPR月刊誌『青春と読書』に連載し、それをまとめて新書にしよう、ということで話がまとまった。
 ぼくは1冊目の新書『ニュースキャスター』(2002年発行)の担当編集者だったので、ぜひ2冊目をと切望していたが、それが実現する前に社を定年退職した。だから、この話は嬉しかった。
 ということで、連載が始まった。
 筑紫さんは、自分の残された時間を知っていたのだろう。「どうしても若い人たちへ伝えておきたいことがあるんだ」と意図を説明してくれた。いろいろ打ち合わせた末、ぼくは『若き友人への手紙』というタイトルを提案し、筑紫さんもとても喜んでくれた。
 しかし、残念なことに病いの進行は早く、連載はたった2回で中断せざるを得なかった。そして筑紫さんは、2008年、去ってしまわれた。
 筑紫さんの2冊目の集英社新書の企画は、こうして頓挫したかと思われた。しかし、熱心な筑紫ファンだった新担当編集者のKくんが、早稲田大学大学院と立命館大学での筑紫さんの講義録を入手して、それを基に新書化できないだろうか、という提案をしてきた。
 文字起こしした講義録テープは、まさに筑紫さんそのものであった。その中から、もっとも筑紫さんらしいと思った部分を切り取って、読みやすく書き起こしたものが新書『若き友人たちへ 筑紫哲也ラスト・メッセージ』(2009年10月発行)として結実した…。

 なぜ今、筑紫哲也なのか? その理由は、筑紫さんがもっとも期待をかけていたのが「若い人たち」だったからだ。
 筑紫さんが編集長を務めた今はなき週刊誌『朝日ジャーナル』誌上で、1984年~85年にかけて展開された連続対談シリーズ『若者たちの神々』からも、それは読み取れる。筑紫さんは、若い感性から世の中が変わる、という考えを最後まで持ち続けた稀有な編集者でもあったのだ。
 このシリーズは、筑紫さんのアンテナに触れた若き時代のリーダーたちを次々に世に送り出したことで大きな話題を呼び、最終的には4巻の本にまとめられている。

 その後、新聞社からTVへ転じても、筑紫さんの姿勢は一貫して変わらず、「若い友人をもっともたくさん持っているジャーナリスト」とも評されていたほどだ。大学の客員教授として、学生たちに講義をすることも、筑紫さんの大きな楽しみのひとつだった。
 超多忙の身でありながら、毎回、きちんとした講義ノートを作って授業に臨んだ。学生だけではなく、早稲田大学の大学院の授業には多くの社会人も参加していた。

 ぼくは、今回の安保法制反対のデモに、ほぼ連日参加した。
 国会前で雨にずぶ濡れになりながら「民主主義って何だ!」「これだ!」、「立憲主義って何だ!」「これだ!」と叫び続ける若者たちに、ぼくも声を合わせながら、何度も何度も「筑紫さんがこの光景を見ていたら、なんと言うだろうか?」と自問していたのだ。
 『若き友人たちへ』に、次のような記述がある。

 私はかなりの年数、ワシントンDCで特派員をやっていました。ベトナム戦争の真っ最中ですから、デモ隊がホワイトハウスにいっぱい押し寄せます。大統領はそれが鬱陶しくて仕方ない。あいつらなんとかできないか、と言うのですが、なかなかそれはできない。
 アメリカ合衆国憲法修正第1条、ファースト・アメンドメントと言いますが、ここに言論・出版・集会の自由が謳われている。修正条文です。デモ隊を警官隊が抑えようとすると、普通の市民が「ファースト・アメンドメント!」と叫ぶわけです。「修正第1条!」です。つまり、自分たちの憲法の権利というものが血肉となって日常化しているわけです。
 日本国憲法にも言論・表現・結社の自由は、第21条に規定されています。みなさんの興味や関心が多岐にわたっているのは分かりますが、自分たちのもっている大事なものをもっと知っておくべきだと思うのです。(P48)

 筑紫さんは、若者たちの政治離れに少し憤っていて、こんなふうに講義の際に挑発していたけれど、ぼくはデモの渦中で思っていたのだ。
 「筑紫さん、SEALDsの活動は、まさに、筑紫さんの言っていたとおりの進み行きですよ」と。
 また、日本人の危うい変質について、こんなことも言っている。

 日本人は明らかに変わってきています。(略)
 例えば選挙戦のとき、候補者が一番喜ぶ新聞の書き方は「今一歩、もう少しで勝てるかもしれない」だったのです。選挙民に、判官贔屓(ほうがんびいき)、弱いほうを援けようとする心理が働くので、そう書いてもらいたいというわけです。それが選挙戦の常識でした。ところが小泉(注・純一郎)さんあたりから、選挙の様子はまったく変わってきました。勝てると書くと、みんなどっとそっちへ流れる。つまり、判官贔屓どころか勝ち馬に乗る、という傾向が強まりつつある。
 これを“バンドワゴン効果”などと言います。バンドワゴンとは、行列の先頭に立って宣伝用の音楽を流す馬車のことです。西部劇の映画なんかで観たことがあるでしょう。つまり、賑やかで面白そうなところへみんながついていく、という現象です。こういうことが、選挙で起きているわけです。
 (略)一つの流れができるとそっちへどっと寄せていくという傾向が、日本人の中には強まっている。判官贔屓なんてもう死語になるかもしれません。
 学生の就職人気ランキングなんていうのもそうです。とにかく大企業というと、安心してそこへ寄っていく。判官贔屓の裏返しに、寄らば大樹の陰、というのがありますが、二つの相反する言葉のうち、一つが消えていく。(P60~61)

 小選挙区制という現在の選挙制度が、筑紫さんの危惧していた日本人の変質を助長しているのかもしれない。勝ち馬に乗る…という安易な選択。
 でもね、筑紫さん、あの国会前の人たちの叫びや訴えを聞いていると、筑紫さんの危惧へのとても嬉しい反逆が起きているような気もするんですよ。若い彼らはこのいびつな選挙制度を逆手にとって「憲法違反の安保法制に賛成した議員たちへの“落選運動”をやろう。選挙へ行こうぜ!」と叫び始めたんですから。
 筑紫さんは、次のような心配もしていた。少し長いけれど、今回の安保法制についての成り行きを、正確に言い当てていると思えるので、引用する。

 そうやって素直で従順に従っちゃう国民を基盤にして国家を造ると、国家権力を握った人は、相当勝手なことをやれるわけです。それを単純に民主主義と言っていいのか、という問題だって出てきます。なぜなら、権力者が勝手なことをやることを許す国家を民主主義で造ると、極限形はファシズム、全体主義になるわけです。かつてのドイツやイタリア、そして日本みたいなことが可能になる。
 そのさらに極限形が戦争ですが、では日常のなかでは何が起こるか。それは少数者の抑圧です。つまり、少数者にとって、このような形の民主主義は専制国家、圧政の国家になっていくわけです。多数決で決めたんだからお前は従え、我慢しろ、ということになりかねない。
 今、右の人たちは「日本は戦後平和になれて平和ボケで、安全保障の議論をしてこなかった」と言う。それはその通りですが、何でそんなラクができたのか。アメリカに全面的に頼る代償として、沖縄を人質に差し出したからでしょう。全部沖縄に押し付けておいて、そういうことを考えずに戦後ずっと過ごしてきたわけです。考えないことに慣れると、本当に何も考えなくなる。そもそもこの国は、本当に独立している国なのか、そういうことも考えない。(P182~183)

 逆説的ではあるけれど「権力者が勝手なことが出来るような民主主義の極限形はファシズム、少数者を抑圧する専制国家…」とまで、筑紫さんは言っている。それはまさに、安倍政権が行った安保法制の数による強行、反対の声を圧殺する民主主義の破壊、すなわち国会での議席多数を振りかざして「多数決に従え」と居丈高に吠え立てる安倍の姿に重なるのだ。
 こんな現代の国会の状況を、筑紫さんはほぼ10年前(注・この講義は2005年)にはっきりと言い当てている。すぐれたジャーナリストの洞察力は、ここまで透徹していたのだ。
 しかし、筑紫さんの危惧として、この本の最後に記された文章だけは、当たらなかったのかもしれない。

 ところがこれほど外国人に排他的で、しかも今年(注・2005年)はその特徴がさらに出ていますが、こんなに近隣諸国との関係が悪くなった年もないでしょう。そういう国が、新しい日本人を作れますか?
 もう一つの問題はまさにこれであって、多分、後で振り返ってみると、日本がアジアで孤立する道を歩み始めた起点が2005年だったと言われるでしょう。靖国問題はシンボリックだったんですが、そのなかでナショナリズムというものが、特に若い世代にどんどん強まっていくという状況が、まさに今じゃないかと。
 これからこの国は、どこへ行こうとしているのか。残念ながら、私にはあまりいい方向は見えてきません。
 私の危惧が、杞憂に終わるといいのですが……。(P231)

 ぼくは筑紫さんに語りかける。
 筑紫さん、あなたの危惧は半分当たったけれど、実は、それを吹き飛ばすような動きがでてきているんですよ。聞こえませんか、あの「若い友人たち」の声が。
 「民主主義って何だ!」「これだ!」
 「ヤツラを通すな!」「ファシスト通すな!」
 民主主義も立憲主義も、筑紫さんが最後の希望を託した「若い友人たち」がしっかりと受け継いでくれているんですよ。国会前のあの若い叫びが、今や世代を超えジャンルを超えて、広がっている光景が、筑紫さん、空の上からも見えるでしょう。

 ぼくの携帯の電話帖には、まだ筑紫さんの携帯番号が保存されている。どうしても消す気になれない。いつか、こんなことを伝えたいと思っていたからかもしれない。
 そう思っていたから、天空からの電話が届いたんだ、夢の中で…。

 

  

※コメントは承認制です。
46 天空からの電話…」 に1件のコメント

  1. 田中美咲 より:

    終戦時10歳だった。成人後「負け戦だとわかっていた。日本は馬鹿だと思っていた」と言う当時すでに大人だった年配者に多く出会った。そのたびに、それならなぜ反対の声を挙げてくれなかったのか、子どもはあんなにつらい目に遭ったのに、と憤った。だから、自分は「わかっていたならなぜ止めてくれなかったのか」と子や孫の世代に思われるようなことはしたくない。でもひとりで活動していてもだめ。「自分はがんばった。でも馬鹿なやつらが賛同しないせいでこのざまだ」とのちに自慢話を語るだけになるから。人には世代責任があるので、二度と戦争を起こさないようこの時代の大人全体で努力して成果を上げる必要がある。そのために日々行動している。こんな話を筑紫さんが講演会でなさったこと、今も忘れません。大人の世代責任のこと、常に胸に刻んで生きています。「筑紫さん、皆がんばっていますよ」と私も伝えたい気持ちでいっぱいです。涙が出ました。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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