手許に小冊子「日本国憲法」がある。ときどき、これを開いてみる。最近は、風にそよぐ葦のように揺さぶられている憲法だけれど、きちんと読めば、これほど強靭な思想性をもった文章もない。
自民党が3年前に発表した「日本国憲法改正草案」と比較して読んでみるといい。その中身のあまりの落差に驚くだろう。
たとえば現行憲法には、こうある。
第七十三条 内閣は、他の一般行政事務の外(ほか)、左の事務を行ふ。
一 法律を誠実に執行し、国務を総理すること。
二 外交関係を処理すること。
三 条約を締結すること。但し、事前に、時宜によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。
四 法律の定める基準に従ひ、官吏に関する事務を掌理すること。
五 予算を作成して国会に提出すること。
六 この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。(七は省略)
これらの項目の中で大事だと思うのは「六」だ。「この憲法及び法律の規定を実施するために…」と明記してある。つまり、政令は「憲法および法律の規定を実施する」ためにのみ許されるということだ。閣議決定なども、当然のことながら、この規定に縛られるはずだ。
憲法の中の規定にはない「集団的自衛権行使」は、この憲法第七十三条に照らしてみても、完全に逸脱している。どう考えても「憲法及び法律の規定を実施する」ためとは言えないからだ。
むろん、安倍内閣はそんなことは承知の上で、集団的自衛権行使の容認を閣議決定した。
さらに「平和の党」を自認してきた公明党も、さまざまなポーズは取ったけれど、結局は安倍内閣の前に膝を屈した。公明党の罪は重い。もし、日本が戦争に巻き込まれるようなことになったとしたら、後世の歴史書は、公明党の役割をどう記すだろうか。
では、前述した自民党の「改正草案」では、この項はどう変えられているだろうか。
第七十三条
六 法律の規定に基づき、政令を制定すること。ただし、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、義務を課し、又は権利を制限する規定を設けることができない。(他の項目は省略)
お分かりだろうか。現行憲法にある「この憲法及び法律の規定」から「憲法」がそっくり抜け落ちている。どんな内容の政令だって、憲法からの制約を免れることも可能になる。単純に言えば、憲法の内容に基づかない「政令」も、時の内閣が発することができる。むろん「自民党改憲草案」は、それを見越しての案に相違ない。
現行憲法を否定したあげくの「自民党草案」なのだから、そういう成り行きも当然なのだろう。憲法の内容に基づかない政令を発布できるという、最初から「憲法を無視した憲法」である。語義矛盾といえば、これほどひどい矛盾もない。
現行憲法には、こんな条文もある。
第九十五条 一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。
ぼくはこれを読んだとき、すぐに沖縄のことを思い浮かべた。
もしどうしても、安倍政権が辺野古に米軍の新基地を建設したいというのなら、それに付随する事態に対処するために「特別法」が必要になるのではないか。政府はさまざまな法律を、むりやり辺野古へ適用して、強引に基地建設を推し進めようとしている。
しかし、新米軍基地建設は、沖縄への過重負担押しつけという、「一の地方公共団体」における大問題であることは、誰がどう言おうが明白だ。ならば、それらを一括して「特別法」を作ることを住民に図るべきではないか。
九十五条が規程するように、「その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得」てから、堂々と工事着工を行えばいいではないか。そうすれば、沖縄県民も納得するし、辺野古の浜での反対運動もその根拠を失うことになる。
親しい法律家に聞いたところ、この「一の地方公共団体」という言葉を、政府は広く解釈する。つまり、米軍基地は横田や岩国、三沢など日本各地に存在するから「一の地方公共団体」として沖縄だけを指すわけではない。ゆえに沖縄だけの「特別法」はできない、政府はそういう論法で来る、というのだ。
まあ、いかにも安倍政権が持ち出しそうなリクツではある。
しかし、沖縄は何もすべての米軍基地について反対しているわけではない。辺野古という場所に、新しく米軍基地が建設されるという「特別な状況」に対して反対しているのだ。とすれば、これは沖縄という「一の地方公共団体」にかかわることではないか。
現行憲法の第九十五条を活かすためにも「辺野古米軍新基地建設に関わる特別法」を、制定してきちんと沖縄県民の意志のもとで“粛々と”物事を進めるべきだと、ぼくは思う。
こんなことを考えていたとき、その沖縄から大きなニュースが届いた。沖縄県の翁長雄志知事が、ついに決断を下したのだ。
辺野古の海で沖縄防衛局が強引に進めているボーリング調査で、多くのサンゴが破壊されていることを県が確認、とりあえず、県がその破壊状況をきちんと調査するまで作業を停止するよう、翁長知事が文書で沖縄防衛局に指示したということだ。
「もしその指示に従わなければ、工事に伴う『岩礁破壊に関する許可』(仲井真前知事が出したもの)を取り消すこともある」と、翁長知事は強く警告した。記者会見で翁長知事は「腹は決めている」と述べ、決意が揺るがないことをはっきりと表明した。
この報に、辺野古の浜やキャンプシュワブ・ゲート前の座り込みの現場では、歓声が上がり、カチャーシーを踊り出す住民もいたという。それは喜びとは逆に、この闘いの辛さ、厳しさ、そして激しさを物語るものだろう。
ところが、この翁長知事の表明に対し、菅義偉官房長官は記者会見で不快感をあらわにし「政府は法にのっとって粛々と工事を行う。この期に及んでこのようなことを言い出すのは、極めて遺憾だ」と強い口調で言い放った。
よっぽど癇に障ったのだろう、菅官房長官は「この期に及んで…」というフレーズを、会見の中で“4度”も繰り返した。
だが、「この期に及んで…」とは、まさに安倍内閣へお返ししたい言葉だ。最近の沖縄における選挙結果を思い起こしてみればいい。
昨年1月の辺野古現地の名護市長選で、基地建設反対派の稲嶺進氏が市長に再選。続いて同年9月の名護市議選でも反対派が多数(定数27名中14名、賛成派は11名、中間派2名)を占めた。
さらに同年11月の沖縄県知事選では、基地反対を掲げる翁長氏が前知事の仲井真弘多氏に10万票という圧倒的な差をつけて圧勝。さらにさらに、同年12月の衆院選では、沖縄の4区すべてで基地反対を掲げる候補者が自民党候補者に全勝。つまり、新米軍基地建設賛成派は、昨年行われた沖縄県内の選挙で、4回にわたって敗北しているのだ。
どう考えたって、沖縄県民が明確に「辺野古米軍新基地建設に反対」しているのは間違いようのない事実だ。それだけ強い住民の反対の表明を“4度”も受けているのだ。それでも「この期に及んで」もなお、お得意のフレーズ“粛々と”を繰り返す安倍政権は、民主主義というものから最も遠い地点にいる政治家集団だというしかない。
菅官房長官は4度も「この期に及んで」と繰り返した。4度に及んだ沖縄県民の意志などまるで斟酌することもなかった。
民主主義が問われていると思う。
それは、沖縄のことだけではない。日本国民であるわれわれすべてが問われている。沖縄で民主主義が破壊されるなら、同じ日本、当然のように、ぼくが住んでいるここでも民主主義は破壊されるのだ。
国会の周りや、自分の住んでいる街でデモをするのでもいい。手紙を書き、電話することでもいい。ネット上で意見を発信するという手だてもある。居酒屋で政治談議をすることだっていいと思うよ。
何でもいいんだ。自分でできることを、今やらなければ、この国のかたちが壊されていく。安倍の手によって…。
デモには、ぼくはできるだけ参加している。反原発だったり、反特定秘密保護法、反集団的自衛権行使容認、沖縄の米軍基地建設反対だったりと、安倍政権になってから、テーマがやたらに増えてきて、忙しくって仕方がないと、ときおりグチが出るほどだ。
しかし、最近のデモには明らかな変化が出てきている。さまざまなシュプレヒコールが、ある言葉に収斂され始めているのだ。「安倍は辞めろ!」という叫びである。
もう、安倍政権には退陣してもらわなければならないと、ぼくも強く思う。
「安倍首相の発想の根底に、 自分が『国民の為』と思って行おうとする行動は憲法に縛られない、という特異な考え方がある」と指摘する憲法学者。だとすれば、「法の支配」に基づく政治は致しません、と宣言しているのに等しい。
これはもっとも権力を持たせてはならい人に権力を与えたことになる。「法の支配」は民主主義を民主主義で破壊したナチス・ヒトラーを教訓に登場したからだ。【「法の支配」とは権力者の意思ではなく、あらかじめ定められた「法」によって国家統治を行うということ(伊藤真著:「伊藤真の図解憲法のしくみがよく分かる本」】。 最近のシュプレヒコールが、ある言葉に収斂され始めているという。「安倍は辞めろ!」という叫びである。私にはとても健康的な叫びに映る。この一語に尽きる。
日中韓の首脳会談開催に「条件なしに開催したい」という条件を付ける日本側。隣国との友好関係を築くことに何に怯えているのだろうか。