風塵だより

 散歩の途中などで、ふっと何気なく口ずさんでいる歌がある。もう60年以上も昔(多分、敗戦直後)の子どもの歌で、まったくのうろ憶え。タイトルさえ思い出せない。けれど、なぜか妙に記憶に残っていて、気がつけば鼻歌で歌っている。
 そんなわけで、歌詞の正確さに自信はないが、最後の部分だけは間違いないと思う。こんな歌だ(どなたか、知っている方がいらっしゃったら、教えてください)。

 さくらと富士の明るい国に
 文化の花を咲かすのは
 ぼくたちきみたち少年少女
 明るく強くゆたかに伸びて
 平和な国をつくろうよ

 敗戦から間もない時期、「さくらと富士」以外はみんな破壊され、焼け跡だけが茫々と広がっていた国土。
 〈国破れて山河あり 城春にして草木深し〉
 そういう状態だったこの国に文化を花咲かせ、「平和」を実現しようとした国民の切なる願いを、子どもたちへの希望に託した歌だったのだと思う。託された子どもたちは、必死に焼土を生き延び、文化を再建し、そして何よりも「平和」を守ってきた。
 その結果、日本は少なくとも70年間、国家の意志として戦争をせず、したがって一度も海外で戦闘行為をせず、それゆえ、日本の兵士が海外の人たちをひとりも殺すことなく、また殺されることもなく過ごしてこられたのだ。それが、この国の「戦後の選択」だった。
 だが、その選んだはずの道が、いま揺らぎ始めている。

 イスラム国に人質にされたおふたりの死について、ぼくは言葉を持てない。ただ、その結末の哀しさに頭を垂れるだけだ。
 とくに、後藤健二さんの最期は切なすぎて胸が痛くなる。
 そして、日に日にやつれていく後藤さんのお母さんの映像には、本当に心をかきむしられる思いだった。だから、ネット上での、あのお母さんに対するバッシングには、心底腹が立った! そして、それを増幅させた一部の週刊誌の記事の浅ましさ…。
 
 しかし、だからこそ書いておかなければならないこともある。
 この間の安倍政権の対応について、マスメディアは一斉に、批判の「自粛モード」に入ったように思われた。野党すら、政府批判を控えるべきという態度に終始してしまった。
 「非常時だから」という理由づけだが、「非常時だからこそ」批判の手を緩めてはならなかったはず。「非常時だから政府に協力すべき」として国民の戦意を煽り、泥沼の戦争へ踏み込んでいく原因の一端を担った戦前の新聞などの「反省」は、いったいどこへ行ったのか。
 そんな雰囲気の中で踏ん張って安倍政権批判を行ったメディアは、凄まじいバッシングの嵐にさらされた。ことに「報道ステーション」に対するネット上での批判(というより罵詈雑言)は、“炎上”を通り越して、まるで“爆撃”のような激しさだったという。
 めげずにガンバレ! と、ぼくはエールを送る。

 ネット上でも、安倍批判の呟きには、口にするのもはばかられるようなどぎつい文句が投げつけられていた。それらはまず、反日、売国奴、非国民、国賊、左翼、プロ市民、アカ、在日…などというネット右翼定番の悪口雑言から始まる。
 それにしても、気に入らないことがあると、すぐに「在日」と条件反射的に叫んでしまう人たちの精神構造って、いったいどうなっているんだろう。まるで「パブロフの犬」状態、思考拒否。考えなければラクだもんねえ。
 その上で、書くことでさえ指が汚れるような気分になる汚濁語句の絨毯爆撃が続く。

 だけど、見ず知らずの他人へ、どうすればあんなどぎつい罵声を浴びせることができるのだろう。ぼくにはその神経がよく分からない。
 だって、普通、いきずりの見知らぬ他人に、バカとか死ねとか腐れ○○などと言えるか? たとえその人が誰かと話をしているのを耳にして、その話の内容が気に入らなかったとしても、やおら胸倉つかんで「このバカ野郎、オマエ在日だろう、北へ帰れ」などと言うか?
 なんで、同じことがネット上だとできるんだろう?
 そういう人に限って、ほとんどが匿名であり、「日本の伝統を守れ」「日本大好き」「日本の品格を大切に」などとプロフィールに書き込んでいる、まるで悪いジョークのようなオチ。“品格”だって…。

 ただ、ツイッター上にも、さすがに悪口雑言だけじゃない、それなりのリクツを持って批判をしてくる方も、少数だけれどおられる。
 たとえば、こんな例。
 「アメリカも、実は捕虜交換に応じていた、という事実がある。それなのに、アメリカが『テロに屈するな』『捕虜交換には応じるな』『身代金支払いは拒否せよ』などと日本政府に圧力をかけるのはおかしいではないか。アメリカのダブルスタンダードだ」という意見について、ある人がこんなふうに書いてきた。
 「米軍兵士は政府の政策に従って作戦に従事し、捕虜となった公人。後藤さんのように勝手に戦地に入り込んだ私人とは違う。アメリカが兵士の捕虜交換に応じたのは当然で、後藤さんのケースとは違う」
 これは、ある評論家がテレビで言っていたことのパクリとしか思えないが、おかしなリクツである。「兵士は国家政策上の捕虜だから捕虜交換に応じるが、私人はその限りではない」となると、企業の海外駐在員などは見殺しにしていいということになるのか。
 援助金のばら撒きを餌にするかのように、大企業幹部を引き連れての“売り込み外交”で、意気揚々と海外を飛び回る安倍政策と、どう整合性がとれるのか。これじゃ、もう誰も海外駐在も出張もしたがらなくなるよ。
 中東地域は言うに及ばず、欧米各国においてだって「日本人だから」ということでテロの標的になりかねないんだから。
 実際、「イスラム国」のメッセージにはこうある。

…安倍よ、勝ち目のない戦いに参加するというお前の無謀な決断のために、このナイフはケンジを殺すだけでなく、お前の国民を、場所を問わずに殺戮する。日本にとっての悪夢が始まる…

 明らかに、日本人はテロの標的となってしまった。しかも、安倍のせいだと名指しされている。少なくとも、テロの口実を“過激派”に与えてしまった原因のひとつは、安倍首相よ、あなたにある。
 もしあなたが、中東で「米英中心の有志連合」の戦いを支持すると発言したり、イスラエルの右翼首相と、それもイスラエル国旗の前で親しげに連携ぶりをアピールしたりしなければ、「イスラム国」でさえ「日本をテロの標的にする」という口実は使えなかったはずだ。
 それに対する安倍首相の答えはこうだ。

…非道、卑劣極まりないテロ行為に強い怒りを覚える。テロリストたちを決して許さない。その罪を償わせるために国際社会と連携していく。日本がテロに屈することは決してない…

 アメリカ主導の「対テロ戦争」に、日本は本格的に巻き込まれてしまった。いや、巻き込まれたというより、安倍は自らそこへ足を踏み入れたのだ。日本にとって、新しい事態が始まってしまった。
 安倍の発言の「罪を償わせる」という言葉は何を意味するのか。菅官房長官は会見で「法的に罪を償わせる、という意味だ」と述べ、国会答弁で安倍首相も同趣旨を繰り返した。だが、「イスラム国」に日本の法的影響力が及ぶはずもない。とすれば、やはりそこは「法的」ではない何かを意図していると考えなければならない。そうでなければ、これらの答弁は、ただのその場しのぎの発言でしかないことになる。
 安倍政権は、いったい何をするつもりなのか?
 
 さらに「国際社会と連携」とは、いったいどこの国との連携を指すのだろう。安倍の頭の中の国際社会とは、アメリカが90%で、他の国は付け足し、困難にあえぐイスラム社会などは「国際」の片隅にもないに違いない。
 だから、安倍の言う「国際社会との連携」とは、テロの最大対象国であるアメリカとの最大限の連携にほかならない。日本にテロが及ぶ危険性は、それこそアメリカ並みに増大する可能性もある。
 この首相、本気で危険だ。

 こういう例もある。
 「日本は平和国家というイメージを持つ国だから、これまでテロリストの標的にはされてこなかった。だが、安倍首相の中東歴訪での不注意な発言や行動で、そのイメージを失い、一挙にテロ対象国へと落ち込んだ。責任は、やはり安倍首相にある」との批判が強い。
 ある方がぼくのツイートに、こんなふうに噛みついてきた。
 「日本人が初めてテロにあった、などと嘘を書くな。アルジェリアで企業の日本人駐在員が10人もテロで命を失ったではないか。そんなことも知らないのか!」
 この方の名誉のために汚い言葉は省いてあるが、趣旨はこんなことだ。ぼくの名誉のためにも言っておくが“そんなこと”を知らないわけがない。むろん「日本人が初めてテロにあった」などとは書いていないし(こちらが書いてもいないことを、あたかも書いているようにあげつらって罵倒してくるのもネット右翼の手口のひとつ)、アルジェリア事件のほかにも、香田証生さんの例も知っているし、エジプトの観光地ルクソールでの日本人も含めた多数の観光客射殺事件も記憶にある。
 ただし、これらと今回の事件には決定的な違いがあることを指摘しておかなければならない。
 少なくともこれらの例は、日本人そのものが「標的」にされたわけではない。たまたまその場に居合わせた、ないしは他の国の人たちと同等に扱われた…ということだ。つまり「テロに巻き込まれた」のである。
 「巻き込まれ型」と「標的型」とでは、まったく意味が違う。「巻き込まれ型」では日本人であるかどうかは問われない。だが「標的型」では、日本人であることが条件となる。日本はテロの標的になった。これまでにはなかったまったく新しい事態が到来したのだ。
 繰り返すが、その一因を作ったのは、安倍首相である。

 安倍首相は今回の中東での援助表明は「周辺国への民生支援であり、軍事支援では決してない」と強調する。
 だが、不思議な映像が流れている。重武装の「イスラム国」の兵士たちが、新車らしき日本製トラック何十台にも分乗し、パレードしている映像だ。これはどういうことか? 
 むろん、民生用のものが軍事転用されたのだと思うけれど、どのような経緯でそうなったのか。民生用が、ほんとうに民生使用だけに限られているのか。きちんと検証しなければならない事象だ。

 さらに、安倍が言う「難民支援」も眉唾物だ。
 もし本気で「難民支援」というのなら、日本における「難民受け入れ」政策の見直しが優先だろう。いま、世界中に難民が溢れている。各国は、難民をそれなりに受け入れている。では、日本ではどうか?
 NHK「時論公論」(2014年6月20日)は、以下のように伝えている。

…レバノンではシリア難民が110万人に上り、経済的な負担は重く社会的不安も広がっています。このため国連各機関はこうした国々への財政的な支援とともに、難民を国際社会が分担して受け入れるよう求めています。それに応えて各国はシリア難民の受け入れを相次いで表明しました。
 毎年数千、数万の規模で受け入れている難民とは別に、シリア難民を一時的に受け入れようというもので、ドイツは2万人の受け入れを表明しています。
 では、日本はどうでしょうか。日本はこれまで50人をこえるシリア人が難民申請しましたが、難民として認定された人は1人もいません。シリア人に限らず、日本の難民受け入れは主要国の中でも極めて少なく、評判が良くありません。
 去年(注・2013年)1年間の各国の難民認定者の数を見ますと、移民が多いアメリカやフランスは別格としても、ドイツ、さらに2000年代になって受け入れを始めた韓国と比べても、日本は極めて少なく、3260人の申請に対して認定されたのはわずか6人でした。

 そして、具体的な数字が表組みされているが、それによると2013年の難民受け入れ数は、米21,171人、独10,915人、仏9,009人…韓57人、日6人となっている。
 これが安倍の言う「難民支援」の実態なのだ。たった1人のシリア難民も受け入れずに「難民支援のため」などと言う。安倍の“口先外交”の典型例である。

 人間一人ひとりに関わる難民支援などのソフトな外交政策は眼中になく、自衛隊を海外へ送り出して武力行使も辞さないというハードな安全保障政策ばかりに熱心なのが安倍首相だ。それを「積極的平和主義外交」などというわけの分からない言葉で推進する。
 日本が「テロの標的」にされるのは、やはり安倍の外交姿勢が一因だと言わざるを得ない。
 
 だからぼくも言う。
 I am not Abe.

 

  

※コメントは承認制です。
16 揺らぐ「戦後の選択」」 に4件のコメント

  1. くろとり より:

    ISISはただのテロ組織であり、一般のイスラム教徒とは異なります。
    一番多くISISの被害にあっているのはほかならぬイスラム教徒であり、ISISとの戦いには中東各国も参加しています。
    いわば国際社会の敵がISISなのであって、ISISとの戦いに協力することは国際社会の一員として当然の事なのです。

  2. ピースメーカー より:

     鈴木耕さんも愛用されているツイッターにて、こんな皮肉の一句を目にしました。
     「安部を憎んでテロを憎まず」
     さて、想田和弘さんが中心となって「(人質事件に対する政権批判等の)自粛という名の翼賛体制構築に抗する言論人、報道人、表現者の声明」をいうものが出され、鈴木さんもそれにリツイートされておりましたが、私も「首相責任論」等は自由に発言されるべきと考えます。
     しかし同時に「首相擁護論」も並行して自由に発言されるべきであり、それが容認されないのならば「翼賛体制構築に抗する」など単なる詭弁です。
     そして「今回の事件と絡めて憲法9条改正論議を行うことは、無意味かつ間違っている、と思う」と述べた江川紹子さんは、「敵を見間違えてはいないか」とも論じ、以下のような寄稿をされました。
    http://biz-journal.jp/2015/02/post_8805.html
     さて、鈴木さんは江川さんにどう答えられますか?
     この様な投稿が承認されないのならば、単なる「安部を憎んでテロを憎まず」だと思います。

  3. Yakko Kiyo より:

    素晴らしく説得力ありました。弁も筆もたつ議論で感動しました。ただ、アベはアカンと言っているだけでは何にもならないですね。私は、アベの顔も見たくないため、この1年は、テレビのニュースも見なくなりました。今日は、励まされました!

  4. 木内みどり より:

    難民の受け入れが「6名」だなんて!
    悲しい国になりました。
    わかりやすく書いてくださってありがたいです。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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