少年が逮捕された。例の、コンビニなどでの万引きや、食品に楊枝を突き刺したりする場面を、得意げにネット上にアップして回った少年である。閲覧件数が増えることに無上の喜びを見出しているらしい、この少年の行動。いたずらをして、それが妙にウケたことを喜び、やがてエスカレートしていった孤独な少年の淋しい姿を、ぼくは想像する。
しかし、マスメディアには、とくにテレビには格好の“餌”になってしまった。多分、これから少年は、生い立ちやら交友やら趣味やら、根掘り葉掘りほじくり出されて素っ裸にされてしまうだろう。
「視聴者が望むから」というのが、テレビ側(週刊誌も同様だろうけれど)の言い分。しかしこれは、あくまでマスメディアの言い分だ。ほんとうに、視聴者や読者が望んでいるかどうかなんて、誰にも分らない。“新しく珍しいネタ”であれば、とりあえずは見てみよう、とは思うだろう。けれどそれは、一面では、繰り返し繰り返し再現されることによる一種の洗脳、興味や関心の刷り込みだといっていい。
取り上げなければ、関心は引かない。
そこで出てくるのが常套句「少年の心の闇」…。
誰だって、心に闇の1つや2つは持ち合わせている。そんなものは持っていない、なんて人はウソつき。だから、とにかくほじくり返す。それらしい何かが出てくるまで、ひたすらほじくる。結果、少年の「心の闇」なるものが、強引に映し出される。それを“新しく珍しい”ものに仕立て上げなければならない。興味を引くためだ。
一方、伝えるべきことが、ほとんど伝えられないという事実もある。
たとえば、17日に行われた、国会周辺での「女の平和 ヒューマン・チェーン」のデモだ。
これは、1970年代のアイスランドの女性たちが、赤いストッキングをはいて地位向上を訴えた、という運動をモデルにしたというが、この日、国会は7000人を優に超える、赤いものを身に着けた女性たちで包囲された。むろん、女性の地位への訴えが主体だったが、もっと大きかったのは「平和」を求める声だった。それは直接、キナ臭い政策を推し進める安倍首相への批判につながっていた。
各紙や各テレビニュースは、それなりに扱ったところもあったけれど、まったくスルーしてしまうところも多かった。
少年の逮捕と、この「女の平和」デモと、なぜこんなにも扱いが違うのだろうか?
もっと言えば、沖縄の辺野古で起きていることより、少年逮捕の報道が数倍(いや、数十倍)も多いのは、なぜだろう?
この国の将来に関わり、日米関係を左右する重大事。しかも、この米軍新基地建設問題への沖縄の民意は何度となく示されている。にもかかわらず、安倍政権がゴリ押ししているのが現状だ。住民が機動隊や海上保安庁の実力行使で傷つき、なぎ倒されていく動画が、ネット上ではたくさん流れている。だがそれは、全国紙や全国ネットの報道には、ほとんど取り上げられない。
読者や視聴者の興味の違いだ、と割り切ってしまっていいのか。ならば、新聞が「社会の木鐸」であることを放棄し、テレビニュースが「社会への窓口」であることを諦めてしまった、とみなしていいことになる。マスメディアが自らの役割を諦めてしまった…のか。
「マスゴミ」という言い方が、ネット上では蔓延している。ぼくは、決してこんな言葉は使わないが、それでもマスメディア批判はする。ぼく自身、かつて週刊誌の編集者でもあったことを踏まえつつ、自省の念を込めて書いているつもりだ。
籾井会長になってからのNHKニュースは酷すぎると思う。NHKには優れた番組も多いのに、ニュースに関しては、完全に政府に牛耳られてしまったというしかない。
日本で最大のメディアが堕ちていけば、国の品位の劣化にもつながる。残念ながら、その兆しが出ている。
チャンネル数の少ない地方へ行けば、NHKの権威はいまだに絶対である。「国が右と言うことを、左とは言えない」と恥知らずにも広言する籾井会長や、極右としか呼びようがない経営委員が口出しをするニュース番組が、どんな影響を及ぼすか。
それでも…、とぼくは思う。
ぼくは新聞を購読し続けるし、ニュース番組も見る。
ことに、新聞は複数紙を読み比べる。それでも足りなければ、ネットでほかの新聞の配信をチェックする。同じ事象を扱っても、そうとうの開きがある。だから読む。見比べて、情報の深さを測る。複数の紙面の違いを読み解けば、そこから見えてくるものがある。
最近、新聞を読まない人が増えている。「ネットで検索すれば十分」という人も多い。だが、ネット情報には弱点がある。ネットが「個人メディア」であるという点だ。ネット上の情報発信は、あくまで個人が行っている。つまり、チェックがない。
新聞も雑誌もテレビも、とりあえずは「複数の眼」を経て記事づくりをしている。一応のチェック機能があるわけだ。そこがネット発信ともっとも大きく違う点だ。かつてはそれが信頼性につながっていた(はずだった)。
新聞も雑誌もテレビも、デスクやキャップ、副編集長などが記事のチェックをし、裏付けを確認し、さらにそれを編集局長や編集長らの承認を得て発信する。そういうシステムが、確立している(はずだ)。
だが今、そのシステム自体が大きく揺らいでいるように思う。
『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』(青木理、講談社、1400円+税)を読むと、朝日新聞内部のそういうシステムがうまく機能していなかったことがよく分かる。日本最高のクオリティペーパーと呼ばれてきた朝日新聞が、今回の凄まじいバッシングにさらされた理由のひとつは、明らかにこのシステムの揺らぎにあった、ということだ。記事の誤りというよりは、それを指摘され批判された時の対応の拙劣さが、今回の事態を招いた。
しかし、それならば、朝日を批判し罵倒した側のマスメディアに理はあったか。理はなかった、と本書の著者・青木さんは主張する。それこそが、マスメディアの劣化を示す例だ、と青木さんは言うのだ。つまり、自らをまるで省みることなく、自社の失敗や誤報などは棚に上げて、朝日叩きに狂奔した。まるでヘイトスピーチまがいの罵声を朝日に浴びせかけた。それをマスメディアの劣化と呼ばずして何と言えばいいのか…。
その意味では、この国のマスメディアは危機に瀕していると言っていい。
ではどうするか?
読者が、視聴者が、マスメディアに関心を持ち続けなくてはならない、とぼくは思う。いい記事には喝采を送り、いい番組は称賛する。
スクープがあればそれを拡散して支持する。むろん、ひどい場合には批判を忘れない。そういう関心を、常にマスメディアに対して持ち続けることが、劣化を防ぐ唯一の方法だと、ぼくは思う。
と、ここまで書いてきたとき、「イスラム国に2人の日本人が囚われ、身代金2億ドルを要求」というニュースが流れて来た。「身代金を支払わなければ72時間以内に殺害する」と脅しているという。
とうとうこんなことが起きてしまった。まるで、安倍首相の中東訪問を狙ったようなタイミング。しかし、一方に与すればもう一方の反発を受ける、ということも考えておかなければならなかったはずだ。政府はそういう予測を、はたして持っていただろうか?
集団的自衛権行使となれば、自衛隊が「地理的制約」を受けずに、世界中のどこへでも派遣されることも考えられる。当然、反発する勢力も出てくる。今回のような事態が繰り返される可能性は高まるだろう。
暗く厳しい波が、日本にも押し寄せ始めたということか…。
今月25日に行われたデモは、”安倍政権打倒を掲げた首相官邸前、「安倍はやめろ」「健二を救え」「国民殺すな」「命を守れ」”だったそうですね。
https://twitter.com/minseishinbun/status/559250313983438848/photo/1
しかし一般常識の観点からして、これは「アリ」なのでしょうか?
「安倍政権打倒」だけで一貫しているならば「アリ」でしょう。
「健二を救え」と安倍政権に要求(要望)する事だけで一貫しているならば「アリ」でしょう。
「イスラム国打倒」「健二を救え」「命を守れ」と主張するのならば、もちろん「アリ」です。
しかし今回のデモは、相手に対して「自分達の要望を聞いてくれ」と「お前なんか滅びてしまえ」という事を同時に主張しているのですから、一般社会での常識ではもちろん「ナシ」でしょう。
今回のデモに対して毎日も朝日も紙面を割いていないそうですが、常識的な判断だったのではないでしょうか?
ともかく、マガ9は左側の混乱を他山の石として、冷静に今回のテロ事件についての持論を展開して下さい。