先週の土曜日(10日)、何の予定も入っていない休日だった。午前中は、ちょっとだけ調べ物をしたり原稿を書いたり。昼ご飯は、ぼくの好きなおそば。乾麺を茹でて卵を落とし、刻みねぎを散らして、一丁上がり。
昼食後は、このところ凝っているセロニアス・モンクを聞きながら、30分ほどの昼寝。
そのあとは、カミさんと一緒に、近所の多摩川まで散歩。土手をの~んびりと歩く。好天の土曜日。土手の上は、散歩する人、サイクリングやジョギングを楽しむ人、川には釣り人、河川敷の広場では凧揚げやサッカー、野球に歓声を上げる少年たち。心なごむ光景。
散歩帰りはスーパーによって、鍋料理の材料を買い込む。当然、夕飯は鍋。この日は寄せ鍋風。むろん、それにビールと熱燗少々。
夜は、ひとりでテレビを楽しむ。
テレビといっても、最近は不愉快になることが多いので、あまり一般の番組は観ない。ことに、NHKニュースなんかを観ていると「おいおい、また政府広報かよ」とか「安倍の顔が出すぎじゃねえの」とかぶつぶつ画面に向かって言うことが多くて、カミさんに「そーゆーの、年寄りになった証拠よ」と嫌われる。だから、観るのはもっぱら大好きなラグビーと、映画。そのために録画しておいた番組がハードディスクにいっぱい溜まっているんだ。
かくして、素敵な休日はおしまい。
小市民的だなあ…と笑われてもいいけれど、これがぼくの「小さな平和」なのだ。
翌日曜日。
若い友人夫妻に赤ちゃんが誕生。お祝いを兼ねて、赤ちゃんの顔を拝見、ということで、仲間たちと一緒に彼らのお宅を訪問。
いやあ、可愛かった。まだ2か月にもならないというのに、とってもしっかりした顔。こりゃなかなかのハンサムになるだろうなあ…と予想させる顔立ち。その子を楽しそうにあやす若いふたりを見ながら、自分の子どもたちが幼かった頃を思い出して、柄にもなくジンッとするぼく。
一緒に行った3人も、赤ちゃんをかわるがわる抱っこして大喜び。ほんのちょっとだけお邪魔するつもりが、1時間半もいてしまった。ほんとうに、楽しいひとときだった…。
帰りの電車の窓から夕陽を眺めながら、ぼくは真剣に思っていた。これが、これこそが「小さな平和」なのだと。
「平和」といえば、安倍首相が、何かと持ち出す「積極的平和主義」ってヤツと、ぼくが感じる小さいけれど穏やかな「平和」との間の、気が遠くなるほどの距離。こう書けば、また絡む人が出てくるだろう。
多分、こんな感じだ。曰く、
「そんな平和を守るためにも強い力が必要なんだ」
「近隣に危ないヤツがいてケンカを吹っ掛けてくるのに、そんな弱腰だからバカにされるんだ」
「危ないヤツは日本人じゃない」
「日本人じゃないくせに、特権を得ている」
「そんなヤツはさっさとこの国から出ていけ」
論理はいつの間にか飛躍する。
「平和は大切」だ。だから「平和を守るためには強力な軍備が必要」で「平和を乱すヤツらには毅然として対処せよ」、それはやがて「戦争も辞せず」につながる。実際、石原慎太郎が落選して、去り際に吐き捨てた言葉を思い出す。
「いちばんしたいことは、シナと戦争をして勝つこと」
時代錯誤の老醜…。
このリクツはさらに「その平和を守るためには、沖縄の米軍基地は存続させるべき」だとか、「平和を維持するための経済には、原発再稼働が不可欠」などと、どんどんおかしな方向へ歪んでいく。
近隣諸国と穏やかな関係を築くことが、平和のための第一歩だ、と考えるぼくのような者には、どこかから「非国民」だとか「売国奴」だとか、激しい罵声が飛んでくる。
穏やかな関係のためには、この国がかつて行った戦争という名の愚かな行為をまず反省し、その意を各国に真摯に伝えることだと思うのだが「あの戦争は自衛のためであって、正当なものだった」とか「もはやそんな時代は終わった。いつまで謝り続ければ気が済むのか」と、かつての村山談話や河野談話を否定しにかかる連中が、いまや政府中枢を占めている。
しかも、彼らの都合のいいことに「朝日新聞誤報問題」が突然、浮上。
確かに慰安婦問題についての「吉田証言」は誤報だったろう。その記事を、ようやく今になって朝日新聞は取り消した。
しかし「吉田証言」が誤りだったからといって、慰安婦問題すべてが誤りだったということにはならない。慰安婦の存在そのものを「吉田証言」に絡めて全否定するのは、明らかに論理の飛躍だ。
「吉田証言」は慰安婦報道のごく一部である。一部が誤りだったからといって全部が誤りだということにはならない。これは「重箱の隅をほじくる」ということだ。重箱の隅の小さな誤りで、重箱全体が誤りだったと決めつける。もし、慰安婦の存在すべてを否定するなら、慰安婦全体の否定の論理を組み立てなければならないはずだ。「吉田証言の否定」と「慰安婦の存在否定」は、単純には「=」では結べないのだ。
だが、朝日の対応はとても拙劣だった。重箱の隅をほじくられた朝日は、シドロモドロの言い訳を繰り返した。
落ちた犬は打て…。朝日は徹底的に標的となってしまった。
日頃から、朝日の批判的な論調に苛立っていた安倍政権は、これを奇貨として朝日バッシングの先頭に立った。一国の最高権力が、ここまで一新聞社の攻撃に躍起となるのは、不思議を通り越して“恐怖”だ。
“恐怖”はこれだけではない。
沖縄では、ついに辺野古米軍新基地建設を巡って逮捕者が出る事態になってしまった。
辺野古の浜への資材運搬の直接的な通路を名護市に拒否された沖縄防衛局は、キャンプ・シュワブ内へ資材をトラック輸送し、基地内から直接浜へ建設資材をおろそうとしている。それを阻止しようという住民たちは、夜を徹してキャンプ・シュワブのゲート前に座り込んだ。しかし、防衛局はついに機動隊を動員。住民たちと激しく対峙することとなった。
そして、負傷者や逮捕者が…。
安倍首相は、よく「民意」という言葉を口にする。それならば、何度も何度も繰り返して示された「沖縄の民意」を、なぜ無視するのか。「馬の耳に念仏」ということわざがあるが、いまやそれを「安倍の耳に民意」と言い換えてもいい。
その上、恥の上塗り、安倍内閣は次に、沖縄への予算減額という汚い手段に打って出た。呆れるしかない。「札束で頬っぺたをひっぱたく」の裏返し。ここまでロコツなやりたい放題の首相ってのも、見たことがない。
「札束で頬っぺたをひっぱたく」を、いまだに繰り返すのが原発だ。命よりカネ。電力会社は地元の有力議員の関係企業に原発関連工事を発注し、その議員たちは原発再稼働容認に向けて奔走する。
朝日新聞(1月13日)によれば、九州電力川内原発(鹿児島)で起きている事態だ。自民党の外薗勝蔵鹿児島県議と小幡兼興県議の関係建設会社が、3年間で2億9千万円の工事を受注していて、両県議は同県の「原子力安全対策等特別委員会」に所属して、再稼働賛成の旗振り役を務めていたというのだ。まさに、絵にかいたような癒着じゃないか。
この文章の冒頭で「小さな平和」と書いた。
日本の原発は、現在すべて停止している。1基も動いていない。動いていなければ事故の可能性は低い。むろん、停止中だからといって絶対に原発事故が起きないとは言えないけれど、稼働中の原発とは比較できないほど事故確率は低い。それだけ、事故に脅えなくてもいい「小さな平和」が保たれているというわけだ。
だが、そんな「小さな平和」よりもカネや経済を優先すべきだ、と考える人もいる。
沖縄の人たちが求めるのは、米軍基地に脅かされない生活だ。米軍機の事故、騒音被害、米兵による犯罪、そんなことから逃れたい。せめて本土並みの暮らしがしたい、ということだ。
それもまた「小さな平和」に違いない。せめて本土並みにという…。
危険な隣国とは意思が通じない、と声高に叫ぶ人たちがいる。
そうだろうか?
歴史認識が大きな足枷になっているところから、関係悪化が起きていることは事実だ。何度か、各国との共同歴史研究の試みがあった。それは挫折の繰り返しであり、一筋縄ではいかないのが現状だ。だが、息長く続けていくしかない。小さくても共通認識ができた部分から、お互いを認め合う。それ以外に道はない。
戦争は避けたい、というのは、少なくとも各国の共通認識だろう。ならば、そこへ向かって共通の努力をしていくことが、最低限必要なことだと思う。
「小さな平和」を、より「大きな平和」へ導いていく。軍備拡張や、抑止力整備などよりも、そういう話し合いの下拵えを地道に行っていくしか方法はないと、ぼくは思う。
今年度予算額は決まったようだ。その中で、介護報酬の引き下げが大きな話題になっている一方、防衛費(軍事費となぜ言わないのか?)はついに5兆円を突破した。本年度予算は4兆8848億円だが、補正予算という奥の手で2110億円を積み上げたので、ついに5兆円突破というわけだ。
介護報酬を切り捨て、軍事費を増額する。分かりやすいといえば、これほど意図が分かりやすい首相もいない。
近隣国と平和な関係を結べれば、そこまでの軍事費増額は必要なくなるだろうが、安倍政権はそうは考えない。平和な関係の構築よりは、抑止力に頼る道を選ぶ。
消費増税分はすべて社会保障費に、という“お約束”はまたも簡単に投げ捨てられた。せめて老後の安心を、と願う庶民の「小さな平和」には、安倍晋三首相はまったく興味がないのだ。
母方の祖父・岸信介の旧邸を訪れて「懐かしいなあ」と幼いころの思い出に浸るのはかまわない。だが、その岸元首相の考え方まで懐かしがって、そこへ回帰してもらっては困るのだ。
東京新聞(1月12日)の「平和の俳句」欄に、次のような句が載っていた。ここにも「小さな平和」がある…。
あたたかき孫の手九条あればこそ(浅井安津子)
「力に頼る平和」には賛成できない。
「小さな平和」でなにが悪い?
>穏やかな関係のためには、この国がかつて行った戦争という名の愚かな行為をまず反省し、
>その意を各国に真摯に伝えることだと思うのだが
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鈴木さんと同じ考えの韓国人、朝鮮人、中国人、リベラル・左派の日本人は多いでしょう。
ところで今年、アメリカとキューバが国交正常化する事になりました。
敵対関係が「穏やかな関係」となりつつあるのですが、その過程において、アメリカがキューバに反省する、あるいはキューバがアメリカに反省する事を要求しているのでしょうか?
勿論、そんな事はする筈もなく、お互いに相手言いたい事は山ほどあるでしょうが、そんな要求をしたら双方のナショナリズムが爆発し、国交正常化はオジャンです。
そう考えると、小さな平和の為に、近隣諸国との穏やかな関係を築く為に、「反省」や「歴史認識」は必要条件なのでしょうか?
むしろそれを求め続けた結果、近隣諸国との間に不信と嫌悪が増幅しているのではないでしょうか?
近隣国と平和な関係を結べれば、そこまでの軍事費増額は必要なくなるだろうが・・
そりゃそうですけど,すぐ近くにいったいいくら軍事費増やしているのかわからない国があるじゃないですか。
その国は赤い舌出して,色々なところで騒動おこしてますよね?
それの存在は無視ですか?
「小さな平和」を守るためには,ある程度力が必要。結局はそのバランスだと思います。
いつも読ませていただいてます。当方、57才の大阪のおばちゃんです。今、若い頃には考えもしなかった「安定」「安全」を求めています。が、それは、単に年をとったからではないと思います。右肩上がりの経済成長だった私の子ども時代とは違い、今や先の見えない日本経済の中で日々を暮らしていかねばならない我々市民にとって、「あたりまえの毎日」を過ごせることがどれほど大切かを感じます。「健康で文化的な生活」「思想・良心の自由」「集会・結社の自由」・・・、どれも「あたりまえの毎日」を過ごすためにどれだけ大切な文言か。9条はもとより、これらを謳っている憲法を、自らの意思で(国民の意思=民意ではなく!!)変えようとする安倍政権に深い憤りを感じます。日本国憲法第九十九条には「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」とあります。改憲を発議するなら、安倍首相は、せめて、総理大臣を辞めて、一市民として声を上げるべきだと言いたい。