2015年最初の「風塵だより」です。
拙い文章ですが、本年もよろしくお願いいたします。
たくさんの年賀状をいただいた。なぜか、似たような文面が多かった。「とても危ない時代になりました」とか「この国はどこへ行ってしまうのでしょう」「軍靴の足音が聞こえそうな時代です」などと、例年になく世を憂える言葉を添えた年賀状が多かったのだ。
ぼくも「キナ臭い世の中ですが…」などと、多くの知己友人へ書き送った。みんな、危機感は共有しているのだと思う。ま、ぼくの友人にはそういう人たちが多い、ということもあるけれど…。
新年3日に、今年初めての「デモクラTV・本会議」に出演した。いつもは、さまざまな議題が用意されていて、それらについて個別に議論していくというスタイルなのだが、今回は「2015年の希望の種」というテーマで、司会を含め6人がいろいろと語り合った。田岡俊次、田中優、明珍美紀、後藤政志、横尾和博のみなさんとぼく。
テーマは年末に知らされていたので、ぼくなりに「希望の種」を探してみたのだが、どうもこれといった「希望」は見いだせなかった。それほど、2014年の安倍政権のやり口は酷いものだったと思う。むろん、ぼく以外のみなさんもとても困っていたようだった。
ぼくが考え抜いた末に、ボードに書いたのは「パンドラの箱の底の希望」という言葉だった。ギリシャ神話にある話だ。
人間に火を与えた神プロメテウスに怒った全能の神ゼウスは、あらゆる災いを詰め込んだ箱をプロメテウスの弟エピメテウスの妻パンドラに与えた。「絶対に開けてはならぬ」と言い渡されていたにもかかわらず、パンドラは好奇心に負け、ついにその箱を開けてしまう。その瞬間、ありとあらゆる災いがこの世の中へ飛び出してしまった。そして、空になった箱の底に、ほんの少しの「希望」が残っていた…という話だ。
日本の「浦島太郎の玉手箱」に似ていなくもないが、もっと激しく厳しい罰である。
昨年2014年、安倍晋三首相は、この国がかろうじて保持してきたもの(それを彼は「戦後レジーム」と呼ぶ)を、根底から覆そうとした。法的にはほとんど無理なことでも、強引に押し通そうとした。内閣法制局長官の首をすげ替えてまでのゴリ押しも行った。安倍首相がやったこと、これから狙うものを数え上げれば、この国の未来が暗澹たる姿で見えて来る。
特定秘密保護法、新エネルギー政策、原発再稼働、原発輸出、武器輸出解禁、ODA(政府開発援助)の軍事転用、TPP、沖縄の米軍新基地建設、集団的自衛権行使容認とそれに伴う法整備、社会保障制度改悪、高齢者医療費負担増、介護報酬引き下げ、極端な円安誘導、消費増税、法人税減税、共謀罪、海外派兵、そして、最終的にはむろん憲法改定…。
それらのうちの外交政策を「積極的平和主義」などと安倍はうそぶく。彼はこの国の「パンドラの箱」を開けてしまった。これまでは箱の中に封印されていたキナ臭い政策どもが、真っ黒な嗤いを放ちながら世の中へ躍り出てしまったのだ。
これが、ぼくが「パンドラの箱」と書いた理由だった。
しかし「パンドラの箱」の底には小さいけれど「希望」は残っていた、というのがギリシャ神話の奥深いところだ。
そう考えると、たしかに箱の底にキラリと小さな光が見える。それが、ぼくが抱いた「希望」…。
この「マガジン9」の「全国デモ情報」や「全国イベント情報」の欄を見てほしい。ほんとうにさまざまな人たちが、日本全国でいろいろな催しを行っている。負けてたまるか…。
ごまめの歯ぎしりと謗られようと、一寸の虫にも五分の魂という意気で世に抗して頑張る人たちがいる。その数が、このところ増え続けているし、新しい潮流が生まれつつあると言ってもいい。
例えば、「SASPL」(STUDENTS AGAINST SECRET PROTECTION LAW=特定秘密保護法に反対する学生有志の会)や、「ヘイトスピーチと排外主義に加担しない出版関係者の会」などといった若い人たちの動き。SASPLは一応解散ということだが、伸びた芽はやがて実を結ぶ。
「首都圏反原発連合」の闘いは現在も持続中だし、「経産省前テントひろば」や各地の反原発団体、反原発訴訟団などの活動も続く。
沖縄では辺野古や高江の座り込みが、もはや政府や沖縄防衛局にとっては、のどに刺さった鋭い魚の骨のようになっていて、政府はどうしていいか思案投げ首の状態に陥っている。彼らの息長い運動が、辺野古新基地建設絶対反対を唱える翁長雄志沖縄県知事を誕生させた一因でもある。
キナ臭い安倍政権に抗して「戦争をさせない1000人委員会」の呼びかけが各地に広まっているし、全国の「九条の会」の活動もこのところますます盛んになってきている。昨年は「憲法9条にノーベル賞を」という運動が一躍脚光を浴びた。
ヘイトスピーチやヘイトデモへの嫌悪感が、新たな運動を呼び起こしてもいる。連帯としての「のりこえねっと」の動きも新鮮だし、ヘイトデモへのカウンターも盛んだ。
こうして見ていけば、たしかに「希望の種」は残っているし、新たに生まれつつある。
しかし、それでも衆院選での自民党の勝利をカサに着て、安倍首相はますます危険水域へ突き進むだろう。まるですべてに「白紙委任状」を与えられたと勝手に思い込んでいるかのようだ。そして、それを煽るのが首相側近といわれる連中。彼らの復古主義的・歴史修正主義的・極右的な方向が改まるとは思えない。
別の意味での「希望」がある。危うい希望、つまり「絶望的な希望」とでもいうしかない「希望」である。
かつて「論座」2007年1月号(朝日新聞社発行の雑誌だったが、現在はない)に、衝撃的な論文が発表されて論議を巻き起こしたことがある。「『丸山眞男』をひっぱたきたい。31歳フリーター。希望は戦争。」という、赤木智弘さんの文章だった。
これを書いた当時の赤木さんは、タイトルどおり31歳のフリーター。その生活から溢れ出た思いが充満した「希望は戦争」という逆説的な言葉が、世に与えた衝撃は大きかったのだ。
自分の置かれた状況を、赤木さんは次のように記す。
(略)私はといえば、結婚どころか親元に寄生して、自分一人の身ですら養えない状況を、かれこれ十数年も余儀なくされている。31歳の私にとって、自分がフリーターであるという現状は、耐え難い屈辱である。(略)
夜遅くにバイト先に行って、それから8時間ロクな休憩も取らずに働いて、明け方に家に帰ってきて、テレビをつけて酒を飲みながらネットサーフィンして、昼頃に寝て、夕方頃目覚めて、テレビを見て、またバイト先に行く。この繰り返し。(略)
「就職して働けばいいではないか」と、世間は言うが、その足がかりはいったいどこにあるのか。大学を卒業したらそのまま正社員になることが「真っ当な人の道」であるかのように言われる現代社会では、まともな就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業職など、安定した職業とはほど遠いものばかりだ。安倍政権は「再チャレンジ」などと言うが、我々が欲しいのは安定した職であって、チャレンジなどというギャンブルの機会ではない。(略)
これは2007年1月の論文だ。つまり、今から8年前の第一次安倍内閣当時の状況を背景としている。では、第三次安倍内閣の現在、この状況は改善されたか?
厚生労働省が発表した数字を見れば、状況はむしろ悪化しているというほかない。厚労省のHPにこんな記述がある。
非正規雇用の現状
●非正規雇用労働者は、平成5年から平成15年までの間に増加し、以降現在まで緩やかに増加しています(役員を除く雇用者全体の36.7%・平成25年平均)。
●特に15~24歳の若年層で、平成5年から平成15年にかけて大きく上昇しています。
●また、雇用形態別にみると、近年、パート、契約社員・嘱託が増加しています。
添付されているグラフによれば、上記の赤木論文が発表された2007年の非正規雇用者の割合は33.5%だったが、2013年には36.7%まで増加している。未発表だが2014年の統計では、もっと非正規雇用者が増えているはずだ。ほぼ労働者の5人に2人は非正規ということになる。つまり、労働環境はますます悪化している。安倍首相が言う「雇用は増大しているではありませんか」の内実はこういうことなのだ。
赤木さんは、上記論文で「不穏な希望」を述べる。
少壮学者だった30歳の丸山眞男(後の東大教授)が軍隊に召集され、ある一等兵に執拗にいじめられた、という話から「中学にも進んでいない一等兵にとっては、東大のエリートをイジメることができる機会など、戦争が起らない限りありえなかった」というのだ。
その上で、赤木さんはこう続ける。
(略)しかし、それでも、と思う。
それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまは見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。
しかし、それでも社会が平和の名の下に、私に対して弱者であることを強制しつづけ、私のささやかな幸せへの願望を嘲笑いつづけるのだとしたら、そのとき私は、「国民全員が苦しみつづける平等」を望み、それを選択することに躊躇しないだろう。
はっきりと反論できない自分がもどかしい。かつて、この論文を読んだときに、ぼくはそう思った。その思いは今でも変わらない。いや、むしろ、あの当時より現在のほうがより反論が難しくなっていると感じる。
しかし、ただひとつ言える違いは、論文発表当時は差別された側からの悲鳴ともいえる「戦争」だったのに対し、現在の安倍政権では差別する側(権力側)からの「戦争」であることだ。
石破茂氏がテレビで「戦争をするにあたって…、し、失礼、集団的自衛権を行使するにあたって…」(BS日テレ「深層NEWS」14年12月26日) と、思わず口を滑らせたように、政権はすでに戦争を視野に入れている。
安倍政権下での貧富の格差拡大は凄まじい。それが、刹那的な殺人、罪を犯すことによる救済、引きこもりや鬱傾向の増大などの一因。どこにそこから脱する手段があるのか。
「愛国心」が、そのいびつな救済手段としてネット上などで蔓延していく。それが、やがて「反中」「嫌韓」に矛先を転じる。さらに、それを政治的手法として利用してきたのが安倍とその取り巻き一党である。キナ臭くなるのは当たり前だ。
ぼくがかつて書いた本のタイトルは『目覚めたら、戦争。』(コモンズ、1600円+税)だった。「希望は戦争」であるのなら、ある朝目覚めたら戦争が始まっていた…ということだってあり得る。
もし、これをも「希望」というのなら、それは「絶望的な希望」とでもいうしかない。
もうひとつ、「危うい希望」を読んだ。
『東京ブラックアウト』(若杉冽、講談社、1600円+税)という本だ。現役キャリア官僚が匿名で書いた小説で、なかなか面白い。
本書には、「天皇親政」(天皇自身による政治)についての記述がある。加部首相(むろん、安倍首相がモデルである)の原発再稼働への前のめりの方針に対する天皇の不信感によるものとされる。
これ以上は、本書のネタバラシになってしまうのでここには書けないけれど、もはや、天皇の政治的行動に期待するしか「希望」はないかもしれない、という著者の悲痛な叫びが盛り込まれているように受け取れるのだ。
日本国憲法に、こうある。
第六条 天皇は、国会の指名に基いて、内閣総理大臣を任命する。
天皇は、自らの意志で政治的行為をしてはならない、とされている。だが、あまりに政治が民意と乖離した場合には…、という著者の願望。
もし、ほんとうに「天皇親政」を望んでしまうなら、それは議会制民主主義の根底からの決壊を意味するだろう。
天皇は、とてもリベラルな考えをお持ちだといわれている。だから「天皇のお言葉」を期待する…というような声を、リベラルといわれる人たちからも聞くことが多くなった。安倍政権のあまりに極右的な方向への歯止めとして期待する、ということだろう。だが、それこそ「危うい希望」ではないか。
国民が天皇にそういう期待を抱かざるを得ないような政治を、許してはいけない。
>はっきりと反論できない自分がもどかしい。かつて、この論文を読んだときに、ぼくはそう思った。
>その思いは今でも変わらない。いや、むしろ、あの当時より現在のほうがより反論が難しく
>なっていると感じる。
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赤木さんが求めているのは、「人生勝ち組であり、さらに言論の自由と称して自由気ままにに発言している鈴木耕さんのようなインテリゲンチャに、具体的に真の弱者を救済するための相応の責務を果たすべきである」という事であり、それに対して他人事のように「反論が難しくなっていると感じる」という発言で返答されては、赤木さんを憤慨させることは間違いないでしょう。
「国民が天皇にそういう期待を抱かざるを得ないような政治を、許してはいけない」という事は、民主主義というルールの下でリベラル勢力が権威や権力を掌握し、弱者の救済も日本国の安定も維持できるということでしか達成できない話ですし、赤木さんが真に求めていることでもあるのですが、戦後70年間を通じてマトモにそれが日本国民に示せていない事が、「不穏な希望」と「危うい希望」という今の世相を創り出しているのではないのでしょうか?