この国の民主主義というヤツは、もはや断末魔かもしれない。
先週末のFNN系列の世論調査によれば、今回の総選挙に「関心がある」と答えたのは62.2%だったという。これは、2012年の衆院選での同じ調査での「関心あり」79.9%に比べ、なんと17.7ポイントも低くなっている。この数字が無視できないのは、2012年の総選挙の投票率が59.3%で、戦後最低を記録した選挙だったからだ。
他のメディアの調査でも、同じような結果が出ている。
この調査79.9%→結果59.3%だったという例から見れば、今回は調査62.2%なのだから投票率が50%を下回ることも十分に予想される。これが民主主義の行きつく先か。
そうなれば、40%台の投票率で、これから4年間の政権担当を任せることになってしまう…。
マスメディアの報道のように、安倍自民党が300議席以上の圧倒的多数を占めたとしても、多分、自民党の絶対得票率は20%~30%台ということになろう。だが、どんなに低投票率だとしても、結果は結果、それが民意だ…と安倍は言うだろう。何しろ、それが安倍の狙いだったのだから。
そして、この後4年間、民意を得たと称して、安倍政権はもっとキナ臭い政策を乱発してくるに違いない。
「国民に関心を持たせないこと」
それが今回の解散総選挙の、際立った特徴だと思う。
なにが起きているのか、なぜこうなっているのか、そしてその結果がどうなるのか。その判断を国民にさせないこと、国民を判断停止に追い込むこと、考える余裕を国民に与えないこと……。
多分、これが今回の解散総選挙での安倍戦略だったのだ。
関心を持たなければ、中身の吟味をしない。吟味をしなければ分からない。分からなければ「ま、よく分からないから、今のままでいいか」か「棄権」ということになる。「このままでいいか…」と刷り込むのに成功すれば、現政権が勝つのは目に見えている。
師走の1年で最も忙しい時期に、安倍首相は、突如として解散総選挙に打って出た。
アベノミクスの恩恵とやらは庶民にはほど遠い。超円安が加速し、それに伴い物価は上がり、年の瀬に悲鳴を上げている。日々の暮らしに追われて選挙どころじゃない。関心は高まらない。ちょうどいい。
争点は何か、とマスメディアはさまざまな問題に言及する。しかし、実は安倍本人は、争点などどうでもいいのだ。だから、最初は消費税率10%の実施時期がどーたらこーたらと口走り、それが批判されるや、今度はアベノミクスが争点だ、などと引っくり返す。争点が一夜にして変わる選挙など、聞いたこともない。
解散に打って出た首相本人の言う争点さえデタラメなのだから、国民がこの選挙に興味を持てるわけがない。
ところが、マスメディアはまんまと安倍の術中に陥り、争点探しに加担してしまい、あーでもないこーでもないとやたらにうるさい。
こうなると、国民は、よけいどーでもよくなる。関心は一向に高まらない。安倍が仕掛けた通りの成り行き、ますます都合がいい。
そして、その戦略は見事にあたった! もし、これを仕掛けたのが安倍本人だったとするなら、ぼくらが考えていた以上に、安倍とは知恵者、それも悪知恵の働く人間だったと認めざるを得ない。
すぐにカッとして切れまくる、相手の質問にはきちんと答えられない、訊かれてもいないことを延々と述べ立てる、自らのHPでほとんどヘイトスピーチまがいの意見を書き散らし、批判されればそっと削除する。批判が強まると側近のせいにして逃げる…。
どう考えても、一国の宰相の器にはふさわしくない人物である。だが、そう思わせておいて、実は着々とこの国を戦前の軍国国家へ“取り戻す”策略をめぐらしていたのだとしたら、この人、とんでもない策士だったわけだ。もしくは、途轍もない“軍師官兵衛”が安倍の背後に隠れているのか。
国民には何の中身も知らせずに、いや、知る余裕も機会も与えないまま選挙戦に突入し、勝てば民意はオレのもの! と旗振りかざして危険水域へ突っ込んでいく。
「誰に入れていいのかさっぱり分からない、ヒドイ選挙だ」という声がとても多い。その通りだと思う。
原発再稼働、集団的自衛権、特定秘密保護法、TPP、労働者派遣法、米軍基地問題、社会福祉政策、果ては憲法改定に至るまで、野党各党の主張はそうとうにかけ離れている。いや、野党第一党である民主党内ですら、これらの課題については意見がバラバラだ。誰に投票していいのか迷うほうが当たり前だろう。
しかし、もはやそう言ってはいられない。
この選挙の後に来る事態を考えれば、なんとしてでも安倍政権に「NO!」を突きつけなければならない。自由なんかなかった「戦前」に還りたくなければ、安倍与党に投票してはならないのだ。
「イヤでも、鼻をつまんで投票しよう」と、山口二郎法政大教授が東京新聞のコラムに書いていた。ベストどころかベターでもない、それでもワーストよりはましな候補者へ。そういうことだ。
数年前に「戦争の足音がする」などと言おうものなら「妄想もいい加減にしろ」と嗤われたものだ。しかし、それはもう妄想ではない。
安倍が狙うのは「戦後レジームからの脱却」だという。つまり、かろうじて生き延びてきた「戦後民主主義」の全否定だ。「戦後レジーム」などとカッコつけた言い回しだが、何のことはない、母方の祖父・岸信介元首相の悲願だった「憲法改定」を実現して「戦前の日本」、すなわち力を誇示して、世界に冠たるマッチョな強国へ先祖返りしたいだけだ。
これを書いているのは12月9日(火)だ。ということは、昨日が「開戦記念日」だった。あの悲惨な戦争に日本が突入してしまった1941年12月8日から73年目だ。あの時も、自衛だの生命線の死守だの領土保全だのと、都合のいいフレーズが使われた。いま、同じ臭いを感じる。それを振り撒いているのが安倍首相その人なのだ。
たった73年前、この国は何百万人もの人間の命を奪うという愚を犯した。それを繰り返していいのか。
「世界に恐れられる強国」よりも「世界に尊敬される平和国家」が百倍も千倍もいいと思う。
だから、投票に行こう。
投票に行って、安倍与党以外の候補者へ1票を。
民主主義の死に顔は見たくない。
投票して安倍政権を支持する。不作為、つまり投票を棄権することで安倍政権を支持する。人類英知の結晶である憲法に基づく政治、立憲主義。10人いれば考え方も10色。民意を反映、基本的人権を支える民主主義。この人達は本気でこれらを破壊、全体主義、つまり、「法の支配」より「人の支配」、独裁政治を望んでいるのだろうか。 立憲主義を樹立、民主主義樹立のため「一票」に命をかけ闘いをしている青年男女が世界を席巻している。ところが、破壊する方向へと向かう。とても不思議な国だ。
>民主主義の死に顔は見たくない。 私も同じだ。しかし、「騙された」という顔はしっかりと見届けたい。1945年日本敗戦。日本人の多くは「だまされた」といったという。「だまされていた」といって平気でいられる国民ならおそらく今後も何度でもだまされるだろう、と指摘したのは映画監督伊丹万作である(高文社・「だまされることの責任」)。
残念ながら、今見ているこれこそが民主主義の死に顔であろう。
各政党の候補を並べてそれぞれの候補者・政策の良し悪しを比較することをせず、「争点は安倍政権の存在そのもの」「ひたすら安倍にNO」なんて話が出てきているのがその証拠だ。こんなものを生きた民主主義といえるのか。
勘違いしないでいただきたいのだが、これは与党が悪いのではない。今の与党が良い党だなんて言うつもりはないが、政策で選挙戦が戦えないのは、ひとえに野党の能力不足に依るのだ。
「ためしにやらせてみる」なんて言論がまかり通った09年の衆院選から、すでに民主主義は死んでいる。そうして政権についた民主党の、案の定の失敗こそが、今の安倍政権の原動力になっている。
民主主義を殺したのは、徹底した野党への甘やかしである。
ただ野党に国政をしようという準備ができてなかった、やる気がないというただそれだけの話を、「与党はなんて姑息なんだ」なんてストーリーに仕上げようとするその姿勢である。
別に誰がどこに投票しようが知ったことではない。「野党の体たらくをまるまる容認してでも安倍政権にNO」なら、それもどうぞ。ただ、鼻をつまんで息を止めて投票したなら、その後も息を止めたままでいなきゃいけないし、それをそのまま放置しているかぎり、いつまでたっても息はできないと思っているだけである。