しばらくコラム(時々お散歩日記)を休んでいたけれど「再開してください」という数少ない声に励まされて、何かをまた書き始めようと思った。「マガジン9」編集部からも催促されていたし…。
ぼくの書くことなんて、たいした価値などないことは分かっている。言ってみれば、風に舞う塵のようなもの。それでも言わなきゃならないことはあるし、ぼく自身の小さなメモとして残しておきたいという思いもある。みなさんも、そんなつもりで読み流してほしい。
というわけで、またしばらくおつきあいをお願いします……。
なんだかイヤな出来事が続く。
9月24日未明、沖縄・辺野古の新基地反対の座り込みテントに暴漢が乱入。テント内部がかなり荒らされたという話が、事件直後に沖縄の知人からもたらされた。これで2度目だ(1度目は今年の6月20日)。平和的な座り込みを暴力で破壊する…。なんともやりきれない事件だ。
ぼくがこの9月初めに辺野古を訪れたとき、テント村にとても心に沁みる横断幕が掲げられていた。ツイッターなどで紹介したけれど、そこには「勝つ方法はあきらめないこと」と書かれていた。辺野古における本格的な「基地建設反対座り込み」はすでに10年を超えている。まさに「あきらめない」闘いである。その幕も持ち去られたという。まったく酷いことをする。
座り込みが続く間には、さまざまなことがあった。先日の「マガ9学校」で上映した三上智恵さんがディレクターを務めたTVドキュメンタリー作品『海にすわる』(2006年制作)が描いた住民たちの海上での闘い。それは、沖縄防衛局の海底への杭打ちを阻止した住民勝利の闘いだった。
しかし、勝利も束の間、政府がこれで辺野古新基地建設を諦めると思いきや、安倍政権はより一層の強硬手段に打って出てきた。海上保安庁を前面に押し立ててのほとんど暴力的ともいえる住民運動弾圧である(その暴力の様子はネット上で確認することができる)。
今回の辺野古座り込みテント村襲撃事件は、そんな背景のもとで起きたのだ。安倍政権の極右政策に、嬉々として躍る人たち。
同じようなテント村襲撃事件が、東京のド真ン中でも起きた。
経済産業省前に設営され、原発反対を訴えるテント村だ。これも2011年9月から続く息の長い闘いの象徴である。10月12日午後5時半ごろ、4人(男3人女1人)がこのテントを襲った。そしてテント内部に押し入り、乱暴狼藉のし放題、散々暴れまわってから意気揚々と引き揚げていったというのだ。しかも、その一部始終を“マリちゃん”と名乗る女性がコメント付きで嬉しそうに撮影していたのだ。それを彼らはネット上に流したのだ。ぼくも見たけれど、ほんとうに“おぞましい”動画だった。
ただし、このおぞましい動画には、笑える場面がひとつだけあった。マリちゃん、看板を読み上げるのだが「えーと、この漢字、読めな~い」…。そこにあったのは「廃炉」という文字。思わず失笑した。
なんとまりチャン、反原発テントを襲いながら「廃炉」も読めないのだった。では、彼女は何を考え、何のためにテントを襲ったのか? 原発問題についての深い(いや、深くなくてもいいけれど)考えなどなしにテントを襲ったのか。おぞましさを通り越して、いっそ淋しい。
それにしても、こんな暴力が大手を振りまわす世の中は、やっぱりどこかおかしい。暴力を容認する人たちが、何のためらいもなくそれを口走ることができるようになったのは、やはり、安倍政権のやりたい放題がまかり通るようになってからではないか。
もうひとつ、なんとも“おぞましい”動画があった。
兵庫県川西市で、市会議員に立候補している“ある女性候補者”の発言である。彼女が街頭で大声あげて万歳をしている映像がネット上に流れている。そこで彼女は「朝鮮人を射殺しろーっ!」と、万歳をしながら喚いているのだ。最初はジョークかと思ったが、そうではない。至極真面目だ。だからよけい不気味なのだ。公衆の面前で、ある特定の人たちを「射殺しろ!」と叫ぶ。それをも「表現の自由」というのだろうか? そういう人物が市会議員に立候補している(投票日は19日)。
「ヘイトスピーチ」などと英語にするから、なんとなく見過してしまう。しかしことは重大だ。これは憎悪であり、悪罵であり、罵詈であり、しかも犯罪なのだ。人を殺せと、しかも特定のカテゴリーの人たちを名指しして殺せと叫ぶ。犯罪と言わずに何と言えばいいのか。
こういうことが、あまり違和感も持たれずに世の中に蔓延していく。
なんとしてでも、歯止めをかけなければならない。
かつては、こんな憎悪表現に走るのは“虐げられた社会底辺の不満層”だという説が横行していた。だが、どうもそうとばかりは言えないようだ。さまざまな調査が報告されているが、例えば『奥さまは愛国』(北原みのり、朴順梨、河出書房新社)などを読むと、何の変哲もないフツーの“奥さま”たちが、妙にどす黒い言葉を吐き、憎悪を撒き散らしていることがよく分かる。
「彼女たちは『韓国人は射殺しろー!』と叫んだ帰りに地元の店で食材の買い物をして、家では夕食の支度をして家族とテーブルを囲んだりするのだろうか」…と、著者の朴さんは言う。まさに、フツーの人たちのところへまで、憎悪の感覚が浸透してきているのだ。
牽強付会と謗られるかもしれないが、ぼくはやはり、これらの一般化されつつある“憎悪感情”が、安倍政権の(特に近隣外交に見られる)対外的憎悪政策と抜きがたく結びついているような気がして仕方ない。
憎悪を撒き散らす政権。慰安婦問題や歴史修正(改竄)主義、自虐史観批判と自由主義史観…。
安倍側近である萩生田光一自民党総裁特別補佐は、慰安婦問題に関するいわゆる「河野談話」について、「この談話の役割は終わった。政府は見直さないと公言しているので見直しはしないが、骨抜きになっていけばいい」(10月6日)などと、それこそ“広言”している。対外的にケンカを売っているとしか思えない。
こういう人が安倍側近なのだ。菅官房長官も安倍首相本人でさえ(いやいやながらも)「河野談話は見直さない。引き継いでいく」と言っているのに、こんなことを言う。つまりそれは「安倍総裁の本音はこうですよ」と、側近が解説してくれたに等しい。
ケンカを売られれば買うだろう。韓国は、日韓首脳会談に応じるつもりはないという。
ヘイトデモに対抗する人たちが掲げるプラカードに「仲良くしようぜ」というのがあった。
当たり前の、人間として当たり前の感覚。ぼくはそちらに与する。
小さいことは大きいことの始まり。関東大震災における朝鮮人虐殺事件。ナチス・ヒトラーによるユダヤ人虐殺事件。元祖は国全体が霧で覆われていた様な「偏見」であった。
市会議員立候補者が、「街頭」で「朝鮮人射殺しろーっ」と、「万歳」しながら「喚いている」という。「過去に目を閉ざすものは、現在にも盲目となる」ヴァイッゼッカ大統領の有名な演説の一節。これを再現しているかのようだ。 ところが、「人殺せ」感覚がフツーの奥さま達まで浸透しているというから驚きだ。とすれば、日本は「思考停止」状態に陥り精神が退行している様に映る。「日本固有の」という声が強まり、「人類普遍の」という意識を失ってしまったか。 憲法で保障したのは「表現の自由」であって「暴力の自由」ではない。人権保障のためだ。「人を殺せ」は人権侵害の最たるもの。「暴力」をなぜ取り締まらないのか。
「一人一人の力は微力であるが、無力ではない」。次回が待ち遠しい。
こういうヘイトスピーチで連想するのは明治初期に、農民が竹槍で被差別部落を襲撃した事件である。彼らはさんざん人を殺しておきながら連行された警察署で「御一新以来奴らが自分たちに土下座をしなくなって心がひどく傷ついた。自分たちこそ被害者だ」とぴーぴー泣いたそうである。一説にすぐ土下座する人間ほど他人に土下座を強要するそうである。日本では最下層以外の人々も常に何かにひざまずかせられている気持ちをいだいて生きているのではないだろうか。