とかく、「難しい、とっつきにくい」と思われている「法」。だから専門家に任せておけばいいと思われている「法」。しかし私たちの生活や社会のルールを決めているのもまた「法」なのです。全てを網羅することはとてもできませんが、私たちの生活や社会問題に関わっている重大な「法」について、わかりやすく解説してもらうコーナーです。今あるものだけなく、これから作られようしている「法」、改正・改悪されようとしている「法」、そして改正の必要があるのに、ちっとも変わらない「法」について、連載していきます。「法」がもっと身近になれば、いろんなことが見えてくる!
日の丸・君が代の「強制」という記述は
間違いなのか
参院選最終日の夜、自民党の街頭演説を聞きに東京・秋葉原へ出かけた。安倍晋三首相がどんな人たちに何を訴えるのか、きちんと確かめておきたかったからだ。
「日本を取り戻したいという思いで集まっていただき、ありがとうございます」。安倍首相は、ご満悦な表情でマイクを握った。
演説のほとんどは、アベノミクスに充てられた。政権に復帰して半年余の成果の宣伝に加えて、「庶民が実感するのはこれからだから、引き続き政権運営を任せてほしい」という呼びかけ。最後の最後に「憲法を変えていこう」とさらりと触れたのは、今後、改憲の取り組みを進めることへのアリバイづくりなのだろう。もちろん、見過ごせないけれど。
気になったのは、むしろ聴衆の様子である。主催者発表で1万人が、駅前広場やペデストリアンデッキをぎっしりと埋めていた。若い世代が中心で、女性や親子連れもけっこういた。目立ったのは、数十本の日の丸の旗。さらに全員に配られた日の丸の小旗が、演説の合間に「そうだ!」の掛け声とともに盛んに打ち振られ、エールを送っていた。
表現の自由は最大限に尊重したい。でも、戦争や天皇と密接不可分だったこの旗の意味を、若者たちはきちんと理解しているのだろうか。もし憲法が改正され、自衛隊が国防軍になって徴兵制が導入されれば、この旗に送られて戦場に赴くのはあなた方の世代なのだよ、と心配せずにはいられなかった。
たぶんに「教育」の成果なのだろう。国旗・国歌法が1999年に施行され、公立学校の卒業式や入学式では日の丸を掲げて君が代を歌うことが当たり前になった。若者たちが日の丸や君が代を違和感なく受け入れるのも、そういう背景があってのことなのだと思う。
そんなことを考えていたら、東京都と大阪府、神奈川県の教育委員会が日の丸や君が代に関する特定の高校教科書の記述を批判して、この教科書を選定しないよう各校に求めている、というニュースが耳に入ってきた。
俎上に上げられているのは、実教出版の教科書「高校日本史A」と「高校日本史B」である。こういうくだりがあるらしい。
「国旗・国歌法をめぐっては、日の丸・君が代がアジアに対する侵略戦争ではたした役割とともに、思想・良心の自由、とりわけ内心の自由をどう保障するかが議論となった。政府は、この法律によって国民に国旗掲揚、国歌斉唱などを強制するものではないことを国会審議で明らかにした。しかし一部の自治体で公務員への強制の動きがある」(朝日新聞から引用)
教育委員会を刺激したのが、最後の一文であることは言うまでもない。
ご存じの通り、東京都教委は2003年に、学校行事で君が代の起立斉唱を義務づける通達を出し、不起立の先生には度重なる懲戒処分を科してきた。大阪府では橋下知事時代に、君が代の起立斉唱を全教職員に義務づける全国初の条例ができ、不起立者に懲戒処分をしている。神奈川県教委は懲戒処分こそしていないものの、04年に起立斉唱の徹底と厳正な対処を求める通知を出し、不起立者の氏名を校長に報告させている。
で、実教出版の日本史教科書に対して、東京都教委は6月27日、一部の記述が都教委の考えに合わないとして「使用は適切ではない」とする見解を議決し、都立高校に通知。大阪府教委は7月9日付で、記述が「一面的」だとする見解を府立高校などに示した。神奈川県教委は7月24日に、この教科書の使用を希望した校長に対し、「一部記述が県教委の方針と相容れない」として再考を依頼した。
神奈川県教委の「介入」を最初に報道したのは、7月28日付の朝日新聞朝刊だった。ちょうど記事が出る前に県立高校の先生たちの話を聞く機会があったので、記事の内容と合わせて整理すると、こういう経緯らしい。
各校は校内の教科書選定会議で新年度の「使用希望教科書」を選び、7月10日までに県教委に提出していた。ところが、県教委は24日の校長会の後で、実教出版の日本史を希望した28校の校長を残し、「再考」を促したのだという。
これを受けて、各校で「再考」が始まった。ある県立高校では翌日、校長が社会科の先生の1人に「不採択になる可能性があるので再考を」と伝えた。夏休み中でもあり他の社会科の先生と話し合えないまま、その先生は自身の判断でその日のうちに教科書を変更する「修正文書」を校長に提出したそうだ。実質的に拒否できない雰囲気だったのだろう。
新聞記事には、県教委が校長に再考を求めた席で「不採択になって学校名が公になれば混乱を招くと話した」と書かれている。先生たちの話によると、複数の校長が学校に戻って「右翼の街宣車が来る」といった心配を漏らしていて、「混乱」の中身として示唆された可能性もあるそうだ。事実なら、脅しに近い。
いったん各校が選んだ教科書を後から変更させようとしているだけでなく、それを「再考」という方式で各校の責任に委ねているところに、神奈川県教委の狡猾さが透けて見える。採択する教科書を決める8月の教育委員会までに、実教出版の使用希望校をゼロにさせようとしている、と私が話した先生たちはみていた。表面的には、県教委が「強制」したのではなく、各校が自主的に対応したという形で。東京都教委や大阪府教委のやり方も根は同じだ。
教育委員会が強気の対応に出るのは、公立高校の教科書採択権は教委が持っていると解釈されているためらしい。公立高校の教科書採択の方法には、小・中学校のような具体的な法令の規定はなく、文部科学省は「各学校の実態に即して」との前提を付けながらも、「採択の権限を有する所管の教育委員会が採択を行う」との見解を示している。
一方で、学校での授業の具体的な内容を最終的に決める権限や、教育課程(カリキュラム)の最終決定権は学校現場にあり、このことは文科省も認めているという。どの教科書を使うかはこれらと表裏一体の関係にあるから、そこからアプローチすれば、教委の解釈とは逆に、学校現場の採択権が保障されて当然ということになる。
神奈川県のケースで言えば、県立高校で使う教科書は学校ごとに選定し、その希望通りに教委が採択する方法で運用されてきたそうだ。つまり、今回の教委の対応は「不当な介入」にあたる、というわけだ。教委への批判が起きるゆえんである。
それにしても、と感じさせられることが2点ある。
言うまでもなく、実教出版の教科書は文科省の検定を通っている。教育委員会が「記述の内容」を理由に各校に選定するなと指示するのは、「二重検定」にあたる。報道によると、文科省はこの記述について「検定上誤りとは考えられず、許容される」とコメントしているようだから、尚更である。
何より、この教科書が使っている「強制」って言葉、間違っているのだろうか。特にこれまでの東京都教委のやり方を見ていると、そんな思いを強く抱かざるを得ない。
先生たちに君が代斉唱時の起立を求めているのは、教育委員会の指示を受けた校長の職務命令によってである。嫌がる先生がいると知ったうえで、「職務として必要だからやれ」と命じているわけだ。しかも、それに従わないと懲戒処分が待っている。不利益な取り扱いを明示したうえで、職務命令を出しているのだ。起立が嫌なら、退職するか、処分を受け続けるかしか、先生たちに選択肢はない。
こういうやり方を、普通は「強制」と言うのではないだろうか。
起立を「強制」することの是非を、この場で争うつもりはない。起立を拒否する先生たちが「憲法が保障する思想・良心の自由や表現の自由を侵害する」と訴える一方で、「児童・生徒に指導する立場の公務員には、憲法上の権利が制約されてでも起立する義務がある」という主張があることは承知している。
教育委員会がそこまで起立が重要と考えていて、職務命令で起立させることが間違っていないと自負しているのならば、「強制」してまで起立させることの正当性を納得してもらえるように、丁寧にわかりやすく説明すれば良いだけの話ではないのか。なのに「強制ではない」なんて、どうして事実を歪曲するような小手先の反応を見せるのだろう。自分たちの主張に自信がないからでは、なんて勘繰りたくもなる。
高校時代は、社会の多様な事象や意見に触れ、いろいろなことを体験・吸収しながら、自分の考えや人間性を培っていく時期だ。結果として、日の丸と君が代を愛する国民になっていくとしても、少なくともその歴史、意味や、反対する人たちの理由、気持ちについては幅広く知っておいてほしい。教科書は、その取っ掛かりとなる。だからこそ、自分たちと違う見方を「強制的」に排除してはなるまい。
式典での君が代の斉唱をめぐっては、一部の学校で、
実際に歌っているかどうかを監視する
「口元チェック」が行われていた、という報道もありました。
そこまでの現状があってなお、
「強制」がない、と言いつのるのはあまりにも無理がありすぎる。
いろんなものの見方があること、考え方の違いがあることを、
きちんと子どもたちに伝えることこそが「教育」では? と思うのですが・・・。