とかく、「難しい、とっつきにくい」と思われている「法」。だから専門家に任せておけばいいと思われている「法」。しかし私たちの生活や社会のルールを決めているのもまた「法」なのです。全てを網羅することはとてもできませんが、私たちの生活や社会問題に関わっている重大な「法」について、わかりやすく解説してもらうコーナーです。今あるものだけなく、これから作られようしている「法」、改正・改悪されようとしている「法」、そして改正の必要があるのに、ちっとも変わらない「法」について、連載していきます。「法」がもっと身近になれば、いろんなことが見えてくる!
「三鷹バス痴漢冤罪事件」
「犯行が不可能とまでは言えない」
という論理で導かれた有罪判決
痴漢冤罪で、これほど多くの支援者を集めるケースは珍しいのではないか。2011年暮れ、東京都三鷹市立中学校教諭の津山正義さん(29)が、同市内を走る路線バスの車内で女子高校生の尻を触ったとして、逮捕、起訴された事件である(どん・わんたろう「すぐそこにある冤罪~痴漢を否認する若き教師の闘い」〈マガジン9〉参照)。
今年5月に、東京地方裁判所立川支部(倉澤千巌〈ちいわ〉裁判官)で1審判決が出た。津山さんの無罪主張を一蹴し、検察の求刑通り罰金40万円の有罪だった。津山さんが直ちに東京高等裁判所に控訴したのは当然として、判決の中身がまたひどく、ネット上を中心に強い批判が浴びせられている。6月26日に都内で開かれた「東京高裁で勝利をめざすつどい」に参加してきたので、判決の問題点を検証してみたい。
この事件には、津山さんが痴漢をしたことを客観的に示す物証がない。バスの車載カメラの映像に尻を触る場面は映っていないし、逮捕当日の津山さんの手の微物鑑定でも高校生のスカートの繊維片は検出されなかった。第三者の目撃証言もない。被害者の高校生にしても、津山さんが痴漢をしているのを直接見たわけでも、触っている手を押さえたわけでもない。
それなのに判決は、いとも簡単に有罪判決を導いてしまった。こんな論理である。
数回にわたって尻を触ったとされる時間帯、津山さんは交際相手からのメールを受信し、返信を打ち返していたために、左手で吊り革を持ちながら右手で携帯電話を操作していた。返信のメールを送り終わってから、被害者の高校生が津山さんを問い詰めようと振り返るまでの時間は、わずかに3秒しかない。
この事実は、バスの車載カメラの映像と携帯電話のメール送受信記録で裏づけられ、判決も「右手で痴漢行為をすることは、不可能と言うに近い」と認めている。仮に尻に触れたとしても、執拗な痴漢行為とは到底言えないのは明らかだろう。
ところが判決は、ここで独自の論理を展開する。津山さんの「左手」に着目したのだ。一部の時間帯で津山さんの左手が吊り革をつかんでいることは車載カメラの映像で確認できるけれど、「それ以外の時間帯の左手の状況は不明である」との理屈を持ち出した。
もちろん、バスは揺れる。そんな中で吊り革につかまらずに、右手で携帯メールを操作しながら、左手で尻を何度も触るという、アクロバティックな行為ができるだろうか。判決は、誰もが抱くであろう疑問を意識しつつも、「容易ではないけれども、それが不可能とか著しく困難とまでは言えない」と結論づけた。
おまけに、被害者が尻の左側を撫でられたと供述していることを挙げて、「2人の位置関係から見て、客観的状況とは矛盾しない」と結びつけ、「左手犯行説」の補強材料にしてしまった。こじつけである。
それだけではない。被害者の高校生にしても「津山さんは左手で吊り革をつかんでいた」と話しているのに、判決は「それは被害が始まったころの状況を供述したものと理解でき、被害を受けている間中、津山さんの左手が吊り革をつかんでいたとの趣旨とまでは認められない」との推理まで持ち出した。
世間知らずの裁判官の荒唐無稽とも言える事実認定に、あきれるのを通り越して、失笑を禁じ得ない。でも、こんな勝手な推論で有罪判決が導かれ、1人の青年の人生が破壊されるとしたら、笑い話では済まされない。
津山さんの手の微物鑑定で高校生のスカートと同じ繊維片が検出されなかったことに対しても、判決は「可能性論」でつじつまを合わせてしまった。「着衣の上から触るという痴漢行為の態様であっても、その手指に、後に検出されるほどの着衣が付着しないこともあり得る」と述べ、「被害者の供述の信用性を左右するまでの事情とは言えない」と顧みなかった。弁護団が提出した専門家の鑑定書も、証拠採用しなかった。
津山さんは、お腹の側に抱えていたリュックが当たったのを痴漢と勘違いされた、と訴えていた。立証するために、尻の感覚の鈍さを示す専門家の鑑定書を裁判所に提出していた。
しかし、裁判所は鑑定書の採用申請を却下。判決で、接触が複数回繰り返されれば、痴漢を目的に意図的に手や指で尻を触る場合と、バスの揺れでリュックが偶然に当たる場合とを「勘違いすることは常識的に考えがたい」と決めつけた。触られた指の本数について高校生の供述に曖昧な点があることには、尻の「皮膚感覚の鈍さ」を認めながらも、「指の本数の識別と、痴漢か物の接触かの識別とは、次元を異にする」として、津山さんの主張を退けた。
一方、被害者の供述については、「虚偽の供述をして津山さんを陥れようとする理由は見当たらない」「供述する痴漢被害は単発的な1回限りのものではなく、勘違いではないかと自ら疑い、慎重に検討して判断した様子がうかがわれる」として、「信用性は高い」ととらえている。
高校生が振り向いた時に津山さんが「ごめん」と言ったり、バスを降りた後で後続のバスの運転手らに取り押さえられそうになった際に逃げようとしたりしたのを「いかにも不自然」と断じ、「犯人であることを疑わせる事実であり、被害者の供述の信用性を補強する」と解釈した。
たしかに不自然な行動であることは確かだが、いきなり「痴漢をしたでしょ」と問い詰められれば、動転して思わぬ行動を取ってしまうことはあり得る。それに、勤務先の中学校の近くでトラブルを避けたい気持ちが働いたこと、「痴漢冤罪はいったん捕まると大変」と聞いていたのを思い出したことなど、津山さんの弁明には耳を傾けず、犯人であることの補強材料にだけ利用している。これらの行動が、犯行の直接的な証拠にはなり得ないにもかかわらず、である。
「1審判決のひどさは、これまでに私が関わった冤罪事件の中でもワースト1です。判決を読むと『第3の手』がある。どうやって痴漢が始まるのか、論理的な矛盾をきたしている」
「つどい」で弁護人の一人、今村核弁護士は強調した。
池末彰郎弁護士も「判決が証拠に基づかなければならないのは当然のこと。しかし、この判決はそうなっておらず、裁判官の予断と偏見によるものだ。こんな判決を許せば、裁判官は自分の想像でストーリーを考えて判決を書けることになる」と痛烈に批判した。
裁判官の考えは最初から「有罪ありき」で、そのための材料を組み合わせて判決を書いた、ということなのだろう。犯行の客観的な証拠がないのならば、もし仮に怪しい状況があったとしても「疑わしきは罰せず」の方向に進むのが刑事裁判の鉄則。しかし今回の判決は、すべてを有罪の方向に解釈し、可能性と推理、心証をもとに有罪を言い渡している。
決して他人事ではない。痴漢に限らず、誰の身にも起こり得ることなのだ。
弁護団は控訴審に向けて、①犯行があったとされる時間帯に、津山さんが左手で吊り革をつかんでいたこと、②尻への接触が複数回に及んでも、手で触られたのかリュックが当たったのかの区別はつかないこと、をより詳しく専門家に実験・鑑定してもらい、結果を東京高裁に提出する方針を明らかにした。
津山さんも自ら、吊り革をつかみながら携帯メールを打っていたバス車内での様子を再現し、「どうやってこの状態で痴漢ができるのか、高裁でしっかり示していく」と決意を表明した。2審の審理が始まるのは、秋以降になりそうだ。
つどいには大雨の中、120人が足を運んだ。津山さんは「(1審で)負けてしまった事件で、どれだけの人が来てくれるか心配だった。皆さんの支えがあり、幸せです」とあいさつした。それだけ多くの人が、判決の論理のおかしさを感じているのだと思う。
津山さんは教師になって2年目でこの事件に巻き込まれ、起訴休職のまま1年半が経った。もしこのまま有罪が確定してしまえば、公立学校の教壇に立てなくなる可能性が高い。一生がかかっている。
「教員になるという大切な夢を取り上げて、有罪判決を出した裁判所が許せない。夢に戻りたい。学校に戻りたい」
何も、罪を犯したことが客観的に裏づけられている人間を無罪にしろと言っているわけではない。「絶対にやっていない」と主張し、かつ犯行の証拠もない人間を有罪にするな、という当たり前のことを言っているだけである。2審の裁判官は、津山さんの訴えに真摯に耳を傾けてほしい。
「疑わしきは被告人の利益に」という言葉がありますが、
もはやそれ以前の問題、とも思える判決。
痴漢犯罪が許せない行為なのは当然のことですが、
こうした判決が続くことで、「痴漢=冤罪」のイメージが強まり、
実際に被害に遭った人が逆に声をあげにくくなる可能性もあるのでは?