あまり知られていないようだが、憲法改正の国民投票が実施された場合に、投票日前の2週間はテレビ・ラジオで賛否の意見広告(スポットCM)を流すことはできない。一定の期間、特にテレビのCMを控えて有権者に冷静に判断してもらおう、というのが規制の趣旨だ。資金力のある側が集中的にCMを流すと不公平になる、との懸念に応える意味も込められている。
最近になって、CMをはじめとする意見広告への規制をさらに強化するよう求める声が民間で上がってきた。投票日の2週間前からCMを禁止するだけでは手ぬるい、ということのようなのだ。ちなみに2週間前というのは、期日前投票の開始に合わせている。
しかし、広告とはいえ投票テーマへの賛否両派の主張が述べられたものには違いないから、過度に規制すれば逆に有権者の判断材料を奪い、あるいは表現の自由を侵すことにもなりかねない。どう考えればいいだろうか。10月24日にこの問題を論点に掲げる「『憲法改正/国民投票』のルール改善(国民投票法の改正)を考える会議」が開かれたので、どんな議論が交わされているのか耳を傾けてきた。
まずは会議でのパネリストの発言を紹介する。
元博報堂社員で作家の本間龍氏は、1996年8月に新潟県巻町で実施された原子力発電所建設の是非を問う住民投票の際、投票日までの2カ月間に原発推進派が地元紙に出した意見広告が計350段だったのに、反対派は15段にとどまったと指摘。憲法改正国民投票についても「良識に頼るのは危険。金のある方が勝つ」と意見広告費への総量規制の導入を訴えた。
映画「第九条」監督の宮本正樹氏は「映像の力は強く、意識しないうちに影響を受けている。スポットCMは一切禁止にした方がいい」と述べた。
ジャーナリストの今井一氏は「このままではキャンペーンの資金力が国民的な議論に大きな影響を与えかねない」と警鐘を鳴らした。そのうえで、英国で行われたEU離脱の賛否を問う国民投票の事例として、政党がキャンペーンに使える費用の上限は直近の国政選挙での得票率に応じて決まり、団体・企業や個人の活動費にもそれぞれ上限が設けられていたことを紹介した。
上智大教授の田島泰彦氏(メディア法)は意見広告の規制について「表現の自由から見て問題だが、公正や機会平等の観点からの検討も必要。資金の多寡で民主主義を歪めてはならない」と語り、団体が使える費用に上限を設ける案に「検討の余地がある」と前向きな姿勢を示した。
憲法9条について発言を続ける東大大学院教授の井上達夫氏(法哲学)は、国民的な熟議の仕組みが必要との視点から「テレビ(CM)は危ない。一方的な意見広告はすべきでない」と強調した。
とまあ、濃淡はあれ基本的には5人ともに意見広告の規制強化に賛成の立場である。会議の狙いが見て取れた。
で、ここまで会議の内容をそのまま書いておきながら恐縮だが、私はCMをはじめとする意見広告の規制強化に反対だ。「投票日前2週間のCM禁止」で十分だと考えている。いくつか理由を記してみたい。
実は私、本間氏が取り上げた新潟県巻町の住民投票を当時、現地で取材している。たしかに新聞広告だけでなくテレビCMも使った原発推進派のPR攻勢は凄まじく、反対派を圧倒していた。
しかし、東北電力や政府を中心とする原発推進派からそれだけの広告が出されながら、結果は原発反対派がほぼ6:4の比率で勝利している。少なくとも、巨額の広告費を投じた側が勝つという図式にはなっていない。
もう1点、注目すべき教訓がある。当時、原発反対派の住民グループが活用したメディアは、新聞の折り込み広告だった。町内全域に配布しても1回数万円で、住民グループが費用を出せる範囲だったのだ。そして、これが町民への影響力を発揮し、主張をアピールする有力な手段になった。
有権者2万数千人の町のケースだから国民投票とそのまま比較することはできないけれど、少なくとも「日本の有権者が必ずしも巨額の広告に影響されて投票するわけではない」という論理の支えにはなる。知恵を絞れば金持ちの運動に対抗し得る方法があることを物語ってもいる。
また、巻町の翌月に沖縄県で実施された「米軍基地の整理・縮小と日米地位協定の見直し」を問う県民投票の際には、県庁が2億円近い費用を投じ、地元ゆかりの芸能人を総動員してテレビや新聞などを使った大がかりな「投票に行こうキャンペーン」を展開した。しかし、投票率は59.53%にとどまった。沖縄では異例のお金をかけたのに、県が意図した成果を挙げることはできなかった。
2つの住民投票は20年前のことだが、いま国民投票をすることになれば、新たなメディアの存在を無視できない。言うまでもなく、インターネットである。ブログやサイトで意見を述べるのは投票日まで自由だし、もちろん発信は無料で、工夫次第で影響力は無限大だ。「お金がないから直ちに不利」とばかりも言えない状況になっている。
そもそも、莫大なお金をかけて膨大な量のテレビCMを垂れ流す政党や団体に対して、有権者がどんな印象を抱くだろうか。むしろ逆効果に違いない。しかも、繰り返しになるけれど、現行の国民投票法に従えば投票日前の2週間は意見CMが禁止される。2週間前に新聞の1面トップで報じられていた記事は何だったと、どれだけの人が正確に答えられるだろうか。流れが速い今の時代にあって、2週間というのはそれだけの期間なのだ。立法の趣旨に沿って考えれば、現行法のCM規制で十分だろう。長いという気さえする。
私は、前述した2件をはじめ全国各地の住民投票を取材してきた経験から、有権者の多くはCMやキャンペーンに引きずられることなく1票を投じる、と信じている。誤信かもしれないけれど、ハナから国民がCMに影響されて投票すると決めつけるのは主権者に対して失礼だと思う。それに規制っていうのはどこまでやってもイタチごっこで、最後は「国会の改正発議から投票日まで(60~180日間)、意見広告は一切禁止」なんてことにもなりかねない。危険である。
憲法に則って憲法のあり方を追求する国民投票なのだから、規制に心血を注ぐよりも、憲法上の権利~発信者側の表現の自由、政治活動の自由や、有権者が判断をするのに必要な材料を得る権利~を尊重すべきだ。その結果として多くの国民がCMに影響されて投票したとしても、それが「民意」だと割り切って受け入れるしかない。普段の社会とは違う「無菌状態」で国民投票をすることが、果たして正確に国民の意思を反映することにつながるのかという疑問も抱く。
さて、件の会議は、意見広告の規制強化に向けて法律改正を求める運動に取り組む方向でまとめられ、年内に次回の集まりを持つそうである。個人的には、規制強化のデメリットが深く議論されないまま先に進められていくことを強く危惧するが、運動をすることに反対はしない。国民的な議論を起こすきっかけにしてほしいと願う。
では、護憲派はこの動きにどう対応するべきなのか。
パネリストの井上氏は「ルールが不完全だからといって、憲法改正国民投票をやってはいけないわけではない」と会議を結んでいた。こうした言葉を聞けば、国民投票をやりたい人たち(改憲、護憲を問わず)がその下地を整えるために国民投票法の改正を唱えている、と受けとめられても仕方があるまい。民進党の国会議員が関心を示しているそうだから、同党が改正法案をまとめれば憲法改正発議の取引材料の一つに使われるかもしれない。
ただ、衆参両議院で改憲派とくくられる議員が3分の2を超え、憲法審査会の再始動も決まって、憲法改正発議の要件が次第に整いつつある現状を鑑みる時、だからと言ってこうした動きに反対したり黙殺したりするだけでいいのか。
CM規制以外でも「現行の国民投票法には多くの不備がある」との批判は、護憲派からしばしば耳にするところだ。そう考えるのならば、法改正を求める動きを起こすべきだろう。今回の会議のメンバーに対して引っかかる面があるのならば、自分たちで改正案を練り、国会に働きかけるのが筋である。主張には賛同できないにせよ私が今回の会議を開いたグループに一目置くのは、自ら行動を起こそうとしているからに他ならない。
憲法改正国民投票のルール決めに参加することが、イコール改正発議を認めることを意味するわけではないのは言うまでもない。あくまでも実際に改正発議が行われるかどうかとは別次元のテーマと位置づけ、早急に取り組みを始めるべきだ。
国民投票が実施されるまで行動を起こさずにいながら、仮に国民投票で負けた時に「ルールがひどかったから負けた」と言い訳をすることになれば、全くもって見苦しいことは確かである。
今後、近いうちに憲法改正の国会発議が本当に行われるのか。それは分かりませんが、主権者として、そうなったときの国民投票がどのようなルールで行われるのかは、当然知っておくべきだしよりよいものになるように議論が行われるべきでしょう。
古い記事ですが、国民投票法成立前に2人の識者に討論いただいたこちらの記事でも、広告規制の問題について触れられています。また、マガ9レビューでは、軍政下の南米・チリで実施された国民投票を、ある広告マンの視点から描いた映画『NO』を紹介しています。こちらも考えるヒントに、どうぞ。