小石勝朗「法浪記」

 ここまでくると、裁判所は再審(裁判のやり直し)の開始決定を取り消そうとしているのではないか、との疑念が強くなるばかりだ。再審無罪を求めているのは、死刑囚。決定が覆されれば、釈放された身柄は拘置所に戻される可能性があり、死刑執行の恐怖とまた向き合わなければならない。あまりに残酷ではないか。

 1966年に静岡県で一家4人が殺害された「袴田事件」。80年に死刑が確定した元プロボクサー・袴田巖さん(79歳)の再審請求審で、東京高等裁判所(大島隆明裁判長)は10月15日、DNA鑑定手法の「検証実験」を検察の提案に沿った方法で実施する、と袴田さんの弁護団に通告した。弁護団は「極めて不当で遺憾」と強く反発している。

 DNA鑑定は、昨年3月に再審開始決定を出した静岡地方裁判所が拠り所にした新証拠の一つだ。死刑判決で袴田さんの犯行着衣と認定された「5点の衣類」を弁護団推薦の法医学者・H氏が鑑定したところ、袴田さんのものとされてきた血痕のDNA型が本人と一致しなかった。これをもとに、地裁は5点の衣類が捏造された可能性に言及して再審開始を認め、袴田さんは逮捕から48年ぶりに釈放された。

 再審開始決定を不服として東京高裁に即時抗告した検察は、H氏のDNA鑑定を崩そうと躍起になっている。標的に据えたのが、鑑定で使った「選択的抽出方法」と呼ばれる手法である。

 選択的抽出方法とは、唾液や皮脂、汗などが混じっている血痕から、血液のDNAだけを選り分けて取り出す手法だ。即時抗告審で検察は「H氏独自の手法で有効性はなく、鑑定結果は信用できない」と主張。有効性があるかどうかを検証実験で確かめるよう高裁に求めていた(これまでの経緯は、拙稿・週刊金曜日「袴田事件、検察の主張に沿う高裁の審理――再審開始取り消しの恐れも」にコンパクトにまとめてあります)。

 それを受け入れたのが、今回の高裁の判断なのである。

 その検証実験、弁護団はやり方に重大な問題があると指摘してきた。にもかかわらず、高裁は検察の提案に則った方法を採ろうとしている。それだけではない。強硬に反対している弁護団を抜きにして、検察推薦の鑑定人だけで強行しようとしている。

 極めて異例の検証実験になりそうなのだ。

 どうしても検証実験が必要だとしても、その結果をもとに再審開始決定を取り消すことは袴田さんの死刑に直結するのだから、慎重の上にも慎重を期して実施しなければならないのは言うまでもない。少なくとも、誰しもが実験結果に納得がいくように、徹底して科学的な方法で取り組まなければならないのは最低限の前提である。

 万が一にも、非科学的な実験によって再審開始を撤回するなどということが起きれば、静岡地裁に「証拠を捏造して冤罪を着せた」と批判された事件発生当時の捜査機関と何ら変わらないことになる。人権保障の最後の砦である裁判所が、そんなことをして良いはずがあるまい。

 では、検証実験のどんなところが問題なのだろうか。

 検察は即時抗告審で、5点の衣類には捜査や公判の過程で多くの人たちが接しており、その際に皮脂や汗、唾液などの生体試料が付いたため、地裁でのH氏の鑑定は血液以外のこうしたDNAを検出した、といった論理を展開している。別の法医学者と警察庁科学警察研究所に依頼して独自に実験を実施し、「選択的抽出方法には血液由来のDNAを選択的に抽出する効果などない」とする意見書を高裁に提出した。同時に裁判所に求めたのが、第三者の専門家に委託しての検証実験だったのだ。

 一方の袴田さんの弁護団は当初、検証実験そのものに反対していた。選択的抽出方法は「世界的に受け入れられており、科学的な合理性は十分」と反論するとともに、地裁の鑑定では効果を高めるための「補足的な手順」として利用しており、使わなくても結果に変わりはないと説明した。

 しかし、高裁に実施の意向が強いことから、今春以降は「条件付き」での参加を検討してきた。

 この段階で弁護団が容認したのは、①20年前の古い血痕だけの試料、②新しい血痕に別人の新しい唾液を混ぜた試料、からそれぞれ選択的抽出方法で血液のDNAだけを取り出せるかどうかを調べる方式だった。唾液との混合試料から血液のDNAだけを抽出でき、古い血痕にも通用すること、つまり5点の衣類の血痕を鑑定するにあたって「原理的」に有効だったと確認できれば十分だと考えたからだ。

 ところが検察は、③20年前の古い血痕に別人の新しい唾液を混ぜた試料、でも実験するように求め、裁判所がこれを支持したことから、議論は迷走を始める。

 やってみればいいじゃん、と思ってしまいがちだが、冷静に考えてみてほしい。

 弁護団によると、DNAは時間の経過とともに減ったり壊れたりする。だから古い血痕と新しい唾液を混ぜれば当然、唾液のDNAが検出されやすくなる。鑑定の際にDNAを増幅していくと唾液の方だけが「倍々ゲーム」で増えていき、ある段階になると古い血液のDNAは全く反応しなくなるそうだ。増幅のスピードの差は「ウサギとカメの競走」にたとえられるほどだという。

 弁護団が検察提案の③を「唾液のDNAを検出させるための誘導的実験」と批判するゆえんである。

 そもそも5点の衣類の血痕は~死刑判決が認定した通りに袴田さんの犯行着衣だとすれば~今から49年も前に付いたものだ。しかも、捜査機関の捏造によって後から味噌タンクに入れられたものではないとすれば、血痕が付着した直後から発見されるまで1年2カ月間も味噌に漬かっていた。そんな状況なので、血痕のDNAの量や劣化の程度を科学的に推定することはできないし、他の生体試料の付着の有無やその量、付いた時期などは分かりようがない。

 新しい唾液を混ぜて検証実験の試料とすることが、どうやったら科学的にこの血痕と類似した状態の試料を作ることにつながると説明できるのか。しかも、5点の衣類の血痕を地裁で鑑定した当時、唾液が付いていた、あるいは、皮脂や汗が混じっていたという証拠はどこにもないのだ。

 にもかかわらず古い血痕と新しい唾液を混ぜた試料で検証実験をすることは、再現性という観点からみれば科学的に全く不当なものだと弁護団は主張した。

 しかし、検察と裁判所はあきらめなかった。

 検察が持ち出してきたのが、古い血痕に混ぜる新しい唾液の量を少なくすることで、5点の衣類の血痕の状態に近い疑似的な試料を作るという方式だった。そして、高裁は今回、この方法で検証実験を実施する意向とされる。

 この方式を採るにしても、じゃあどのくらい唾液の量を減らせば正しい割合になるかとなれば、「科学的に未知の領域」だと弁護団は指摘している。唾液の量を減らして疑似的試料を作ることは「不可能」であり、「実験結果が間違って解釈されかねない」と言い続けてきた。

 これに対しても、高裁は「不可能とまでの心証はないので実験をやってみたい」との見解を示し、弁護団に譲歩を求めた。強硬に反対する弁護団に対して、15日の協議では最終的に「あなた方が参加しなくても実験をやる」と言い切ったそうだ。弁護団が、実験方法の問題点の主張を公式記録に残すため鑑定人尋問をするよう求めたのにも応じず、記録に残らない検討会(カンファレンス)で対応する考えを伝えたという。

 これを受けて、弁護団の西嶋勝彦団長は記者会見で、検証実験に「一切協力しない」と明言した。鑑定人の推薦や検討会への参加を拒否する方針だ。

 前述したように、検察はすでに科学警察研究所に依頼して独自の実験を実施し、検証実験の方法と同様に、32年前の血痕に別人の新しい唾液を混ぜた試料から選択的抽出方法で血液のDNAを取り出せるか調べたという。その結果、「血液に由来するDNA型は一切検出されなかった」と結論づけている。

 このため弁護団には、新しい唾液のDNAが検出される可能性の高い検証実験に一部でも参加すれば「検察の実験結果にお墨付きを与える」との危惧がある。また、検証実験に異議は申し立てられるものの、裁判長に却下されるとそれ以上に止める手段がない、という事情もあるようだ。

 ところで、高裁はどんな意図を持って、これほど頑なに検証実験を強行しようとしているのだろうか。

 東京高裁で刑事部門の裁判長の経験がある木谷明弁護士は、8月の私の取材に「検察の主張をきっぱり退ける」と「再審開始決定をひっくり返す」の両方を並列的に挙げていた。しかし今回、高裁が弁護団抜きでも実験をする姿勢を示したのを受けて「何とかして再審開始決定を取り消したいと考えているとしか思えない」(静岡新聞・10月16日付)とコメントしている。

 袴田さんにとって、高裁の審理が予断を許さない状況になっているのは間違いないようだ。

 弁護団によると、高裁は年内にも検察が推薦した鑑定人を呼んで検証実験を委託するらしい。要する期間は3~6カ月程度とみているが、結果の評価をめぐって複雑かつ激しい論争となることは必至で、高裁審理の長期化が予想される。

 来年6月で事件発生から50年。その前の3月に、袴田さんは80歳になる。釈放されているとはいえ、心配が募る。

 それでも、共に暮らす姉の秀子さん(82歳)は「(逮捕から)もう40何年も待ちました。ここで1年2年は構いません」と淡々と語っている。失われた袴田さんの時間を一刻も早く取り戻すにはどうすれば良いのか。社会全体で考えなければならない。

 

  

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第58回
検察提案に則って東京高裁が強行する「袴田事件」の検証実験
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    有罪と言い切れない可能性があるから、再度審議をする。それは本来、「推定無罪」の原則に立てば、当然のことのはずです。ましてや死刑という、取り返しのつかない刑罰が絡んでくる問題ならばなおさら。嫌な連想ではありますが、今月初めには「名張毒ぶどう酒事件」で無罪を訴え続けていた奥西勝さんが、第9次再審請求のさなかに亡くなりました。同じようなことが、再び繰り返されることだけはあってはなりません。

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小石勝朗

こいし かつろう:記者として全国紙2社(地方紙に出向経験も)で東京、福岡、沖縄、静岡、宮崎、厚木などに勤務するも、威張れる特ダネはなし(…)。2011年フリーに。冤罪や基地、原発問題などに関心を持つ。最も心がけているのは、難しいテーマを噛み砕いてわかりやすく伝えること。大型2種免許所持。 共著に「地域エネルギー発電所 事業化の最前線」(現代人文社)。

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