再審開始を認めた静岡地方裁判所の決定が、捜査機関による「証拠捏造」の疑いを指摘したのは、わずか4カ月あまり前のことだった。その記憶が覚めやらぬままに、検察の新たな「証拠隠し」疑惑が浮上した。
1966年に静岡県清水市(現・静岡市清水区)で一家4人が殺害された「袴田事件」である。
死刑が確定していた元プロボクサーの袴田巖さん(78歳)が3月27日の決定当日に、身柄拘束48年目にして釈放されたことは、センセーショナルに伝えられた。しかし、検察が4日後に決定を不服として即時抗告したため、東京高等裁判所(大島隆明裁判長)で審理が続くことになったのは、意外と知られていない。マスコミの大騒ぎが止まったこともあって誤解している方も多いけれど、袴田さんは無罪どころか、再審開始さえ、未だに確定してはいない。
さて、証拠隠しの疑惑は、8月5日に開かれた東京高裁で初めての三者協議(裁判所、検察、弁護団)で明らかになった。その証拠とは、死刑判決の根拠になった「5点の衣類」を発見直後に撮影したカラー写真のネガである。しかも、静岡地裁での今回の第2次再審請求審で、検察が2度にわたって「存在しない」と回答していたものだという。それだけで、怪しさ満点である。
今一度、静岡地裁(村山浩昭裁判長)の再審開始決定を振り返ってみよう(詳しくは、拙稿「最高の決定は出たけれど、これで一件落着にしてはいけない袴田事件」参照)。
「5点の衣類」とは、事件発生から1年2カ月も経って、犯行現場そばの味噌工場の醸造タンクから味噌に漬かった状態で見つかった、血のついた半袖シャツ、ステテコ、ズボン、緑色ブリーフ、スポーツシャツである。もとの裁判では、袴田さんの犯行時の着衣と認定された。
これに対して、弁護団や支援者らは「1年2カ月も味噌に漬かっていたにしては着色の度合いが薄すぎる」と主張してきた。人間の血液を塗った衣類を実際に1年2カ月の間、味噌に漬ける再現実験を実施し、「衣類は赤味噌と同じ色に一様に染まり、血痕も容易に識別できなくなる」との報告書を裁判所に提出した。5点の衣類のような薄い着色なら、わずかな時間で作り出せることを実証したのだ(詳しくは、拙稿「袴田事件に再審をもたらした静岡市民の『味噌漬け実験』」〈週刊金曜日6月20日号〉をお読みください)。
静岡地裁は実験報告書を新証拠と認め、再審開始決定の2つの柱のうちの1つに据えた。「5点の衣類の色は、長期間味噌の中に隠匿されていたにしては不自然」「ごく短時間でも、発見された当時と同じ状況になる可能性が明らかになった」と評価したうえで、5点の衣類が「事件から相当期間経過した後、味噌漬けにされた可能性がある」と判断した。
ちなみにもう1つの柱は、「袴田さんのものとされていた5点の衣類の血痕のDNA型は、本人と一致しない」「返り血とされていた血痕についても、被害者の血液は確認できなかった」と結論づけたDNA鑑定である。地裁の決定は、味噌漬け実験とDNA鑑定を併せて、5点の衣類が「袴田さんのものでも犯行着衣でもなく、後日捏造されたものであったとの疑いを生じさせる」と断じた。
で、5点の衣類は長期間味噌に漬かった状態ではなかった、と認定するうえで有力な材料になったのが、発見直後の写真だった。もとの裁判の段階でも発見時の写真や状況を記した調書・鑑定書は出ていたが、2次再審になって初めて検察が開示したカラー写真が決定的だった。特に、味噌の色にほとんど染まらないまま緑色を保っているブリーフの写真を見て「短い時間で仕込まれたものだと確信した」と弁護団や支援者らは話している。
今回「証拠隠し」を疑われているのは、これらを含む発見直後のカラー写真のネガとみられている。検察は、地裁で写真を開示したものの、そのネガは「存在しない」、つまり、なくなったと答えていた。
袴田さんの弁護団によると、今回の「証拠隠し」疑惑の概要はこんな具合だ。
検察は東京高裁に即時抗告した後、7月17日に「申立理由補充書」を提出した。その中で、111コマのカラー写真のネガが「地裁の決定後に警察で発見された」として、うち30コマについての学者の鑑定書を新たな証拠として提出する方針を明らかにした。
鑑定した30コマはこれまでに開示された写真のネガが中心の模様で、検察は「焼き付けた写真の色は実物と違っている」と主張しているという。つまり、焼き付けたカラー写真をもとに、1年2カ月も味噌に漬かっていたにしては着色の度合いが薄すぎるとした地裁の認定に対し、焼き付け方によって写真の色は現物より濃くなったり薄くなったりするのだと反論する趣旨らしい。学者の鑑定は、この論旨を裏付けようとするもののようだ。
「ない」と言っていたネガを今になって「あった」と出してきたことを弁護団が追及すると、検察は「事実に反する答えをしたことを率直に謝罪する」と詫びたそうだ。ネガを高裁に提出すると約束したものの、「同じフィルムには別の事件の資料も写っている」として、111コマのうち袴田事件関連が何コマあるかは明言しなかった――。
弁護団は、ネガの中には5点の衣類が入っていた麻袋を写したコマや衣類の全体写真、拡大写真など、これまでに開示されていないものが含まれている可能性が高いとみている。「検察は自分たちに都合の良いものだけを出そうとしている」と疑念を抱くのは当然だろう。
弁護団は三者協議で高裁に宛てて、検察にネガをすべて開示させるよう求める「証拠開示命令申立書」を提出した。高裁は「争点に関連して必要があれば開示を勧告する」と回答したという。
それにしても不可解なのは、ネガがいきなり「発見」された経緯である。
弁護団は三者協議の席でやはり高裁に宛てて、検察に対し、①ネガが発見された日時、場所、発見者と、発見に至った経緯の詳細、②静岡地裁での審理中にネガが発見されなかった理由、③ネガが発見されたにもかかわらず、現時点まで弁護団に開示しなかった理由、を説明させるよう求める「求釈明申立書」を出した。
この中でカラー写真のネガを「5点の衣類の色に関する新証拠(味噌漬け実験)の信用性や、捜査機関による証拠捏造の有無の判断に影響を及ぼす重要証拠」と位置づけ、「今になって『(再審開始の)決定後に警察で発見された』とだけ説明されてもにわかに信じがたい。率直に言って、検察官、あるいは警察が、重要証拠であるネガを隠し、地裁で虚偽の回答をした可能性も否定できない」と不信感を表明した。
さらに、ネガが発見されてからも「弁護団に対しては、開示するどころか、発見されたとの事実すら明らかにしなかった」のみならず、検察が自らに有利な新証拠とするべく学者の鑑定に提供していたのは「不公正であるとのそしりを免れるものではない」と批判している。
検察は、弁護団に説明を求められた事項について「検討して回答する」と述べたうえで、これまで存在しないとしていた他の証拠についても、改めて調査する意向を示したそうだ。
たしかに弁護団の言う通り、静岡地裁で再審開始決定が出てから検察が「申立理由補充書」を提出するまで3カ月あまりの間に、なかったはずのネガが急に出てくるという経緯自体がおかしいと受けとめるのが、一般市民の感覚だろう。袴田事件では、かつても似た出来事があったような……。そう、事件発生から1年2カ月も経って、裁判の雲行きが検察にとって怪しくなってきた段階で都合良く発見された「5点の衣類」がオーバーラップする。そして、それらは今、捏造の疑いを指摘されているのだ。
検察にネガを隠す意図はなかったとしても、地裁で開示を求められた段階できちんと捜さなかった過失の重さは否定できないだろう。袴田事件では、検察がどんな証拠を持っているのか、そのリストさえ弁護団には示されていない。だから、故意であれ過失であれ、本当は「ある」証拠でも自分たちに都合の悪いものは「ない」ことにしておけば、どうせ裁判所や弁護団にはわからないという気持ちが検察にあった、と勘繰られても仕方あるまい。
「証拠隠し」という文脈で言えば、袴田事件では2次再審になって初めて開示された証拠に「もとの裁判に出されていたら死刑判決は覆っていたのではないか」と考えられるものがあったことも忘れてはならない。
5点の衣類のズボンのタグに記されていた「B」が、サイズではなく色を示すというズボン製造業者の証言である。法廷で袴田さんがこのズボンの装着実験をしたところ小さくて履けなかったにもかかわらず、検察がこの調書を出さなかったために、裁判所は「B」はサイズを指しており、もともと大きかったズボンが味噌に漬かって縮んだので袴田さんは履けなくなった、と認定してしまった。検察は裁判所をも欺いていたわけだ。
「社会正義とは何なのか」と考えてしまう。東京高裁には、こうした袴田事件の経過も踏まえて、検察が今後提出するであろうネガの証拠価値をしっかり見極めていただきたい。
今回の流れから見えてくるのは、検察はおそらく「証拠隠し」と指弾されることも承知のうえで、それでも再審開始決定を覆すために、なりふり構わぬ反撃に出るつもりでいるということだ。DNA鑑定についても改めて専門家の尋問を求める意向を示唆しているそうで、地裁で弁護団の推薦を受けて鑑定した学者や、彼を批判する学者らを証人として申請するとみられている。あくまで死刑判決の維持にこだわろうとしているわけだ。
三者協議後の記者会見で、西嶋勝彦・弁護団長は高裁での検察の主張に対し、「弁護団推薦の学者による地裁でのDNA鑑定を誹謗中傷まで交えて批判しており、品がない。味噌漬け実験には難癖をつけているだけだし、証拠捏造疑惑に対しては弁明に終始している」と非難しながら、「反論はきちんとする」と宣言していた。
袴田さんの年齢や体調を考えると、少しでも早い再審開始〜無罪確定が望まれるところではある。しかし、検察があきらめない以上は、真っ向から主張を闘わせるしかない。高裁での弁護団のさらなる奮闘に期待したい。
次から次へと明らかになる、有罪認定の経緯の怪しさ、ずさんさ。それによってひとりの人間が、死刑の恐怖に怯えながら半世紀近くを獄中で過ごすことになったことを思うと、たまらない気持ちになります。一刻も早い再審開始、そして事実の検証と再発防止が望まれます。
保守的なノンフィクション作家である門田隆将氏は、「なにが『袴田巌』を死刑から救ったのか」という記事を寄稿し、裁判員制度の効用について論じております。
http://blogos.com/article/83278/
小石さんの過去の記事からみても裁判員制度について是認されているようですので、小石さんもまた裁判員制度について、一つのテーマとして1回分を丸々それで論じて頂ければ面白いかなと思いますが、如何でしょうか?