小石勝朗「法浪記」

 「無罪」はとても喜ばしいことだが、もろ手を挙げて喜べないのも、また確かだ。逮捕されてから2年半あまり。雪冤のために費やされた時間や生活やお金やエネルギーは、あまりに大きかった。

 走行中の路線バスの車内で痴漢をしたとして、東京都迷惑防止条例違反の罪で起訴された東京都三鷹市立中学校の教諭、津山正義さん(30)に、控訴審の東京高裁(河合健司裁判長)は7月15日、無罪を言い渡した。逮捕時から一貫して無実を訴え続けてきたにもかかわらず、1審の東京地裁立川支部(倉澤千巌〈ちいわ〉裁判官)は罰金40万円の有罪判決。ようやく勝ち取った逆転無罪だった。

 「主文、原判決を破棄する。被告人は無罪」

 河合裁判長が2度繰り返すと、傍聴席で小さなどよめきと拍手が起きた。しかし、津山さんは表情をほとんど変えず、裁判長をじっと見つめて判決理由に聴き入った。

 事件と裁判の経緯をおさらいしておこう。

 津山さんが逮捕されたのは、2011年12月22日夜。勤務先の中学校に忘れた財布を取りに戻ろうと吉祥寺駅から乗ったバスの車内で、前に立っていた面識のない女子高校生の尻をスカートの上から触った、というのが容疑だった。身柄拘束は28日間に及んだが、警察で「私の仕事は君を有罪にすること」と威圧され、検察で「認めないなら出さない」と脅しをかけられても、津山さんは「自白」しなかった。

 そもそも、この事件には犯行を裏づける客観的な証拠がなかった。逮捕当夜に警察が実施した微物鑑定では、津山さんの手から女子高校生のスカートの繊維片は検出されなかった。バスの車載カメラにも尻を触る場面は写っていないし、他の乗客はもとより当の女子高校生でさえ痴漢の瞬間を見てはいない。犯行があったとされた時間帯に、津山さんが交際相手へのメールを打つために右手で携帯電話を操作していたことは、送受信記録や車載カメラの映像で裏付けられている。

 津山さんは「左手は吊り革をつかんでいたので犯行は不可能で、お腹に抱えていたリュックが当たったのを勘違いされた」と無罪を主張していた。

 しかし、2013年5月の1審判決は、被害者の証言だけに依拠し、独自の論理で有罪判決を導く。

 「右手で痴漢行為をすることは不可能と言うに近い」と認めながら、左手が吊り革を持っていると車載カメラで確認できるのは一部の時間帯だけだとして、「それ以外の時間帯の左手の状況は不明である」と指摘し、「左手犯行説」を打ち出したのだ。揺れるバスの車内で吊り革につかまらず、右手で携帯電話を操作しながら左手で執拗に尻を触ることは「容易ではないけれども、それが不可能とか著しく困難とまでは言えない」と断じ、客観的な証拠がないまま可能性論と推理で有罪を言い渡してしまった(拙稿「『犯行が不可能とまでは言えない』という論理で導かれた有罪判決」参照)。

 津山さんが到底納得できるはずはなく、東京高裁に控訴して、ようやく獲得した無罪判決だったのだ。

 さて、1審判決を「論理則や経験則に反し不合理」と切って捨てた高裁判決の構成は、シンプルである。河合裁判長が無罪の拠り所にしたのは、車載カメラの映像解析だった。

 控訴審にあたって弁護団は、映像解析の専門家である橋本正次・東京歯科大教授に鑑定を依頼した。1審でも鑑定をした橋本氏は、さらに車載カメラの映像を鮮明化処理して分析し、「1審段階で不明とされた時間帯にも津山さんの左手は吊り革をつかんでいる」「バスが揺れている時に津山さんのリュックが女子高校生に当たっている」との結果を出した。ちなみに、橋本氏は「自分が正しいと思う方にしか付かない」そうで、事件によっては検察の鑑定をすることもあるという。

 控訴審では2回にわたって橋本氏の証人尋問が行われた。これを受けて高裁判決は「相応の合理性がある」と鑑定の信用性を認め、「痴漢行為をしていない合理的な根拠となる」と述べた。

 具体的には、まず「右手」で犯行ができたかについて、車載カメラの映像から、犯行があったとされる時間帯のほとんどで右手は携帯電話を操作していたとして、「右手で犯行が不可能との判断は正当」「不審な動きは認められない」と述べた。ここまでは1審判決でさえ示しているから、当然と言えば当然だろう。

 問題は「左手」である。高裁判決は、1審でも認定した20秒間に加えて、他の時間帯でも吊り革をつかんでいたことが確認できるとした映像解析を、客観的な証拠と捉えた。つまり、津山さんの主張の正当性を受け入れたわけだ。そのうえで「犯行を行ったとは認めがたい」と判断した。

 1審判決の「容易ではないけれども、それが不可能とか著しく困難とまでは言えない」との理屈づけを「論理が飛躍している」と批判。「左手犯行説」に対して「証拠判断を誤ったもの」「無理がある」とはねつけた。極めて常識的な論理だと思う。

 女子高校生が「被害」を訴えた理由についても「リュックの接触を勘違いした疑いが残る」と津山さんの主張を採用した。そして、「(津山さんの犯行には)合理的な疑いが残る」「1審判決には事実誤認がある」「犯罪の証明がない」として、無罪と結論づけた。津山さんの全面勝訴と言って良い。

 判決言い渡しが終わると、津山さんは裁判長に深々と一礼。裁判所前で待つ大勢の支援者の前で「本当に良かったです」と繰り返し、「誰が読んでも納得できる理路整然とした判決。こういう裁判官が広がって、私のような思いをしない人が増えてくれたらいい」と力を込めた。

 判決後の報告集会。

 弁護人の1人で、冤罪事件のスペシャリストとして知られる今村核弁護士は、1審判決の認定を一つずつ潰していった高裁判決を「プチプチのようだ」と表現した。菓子などの包装に使われるエアクッションのことだ。「すごく当たり前のことを述べた判決」と評価し、「聞いていて楽しく、裁判長が神々しく見えた。1審判決で司法に対するかすかな信頼が失われて悲しかったが、それが解けた。これからも冤罪弁護人をやっていける」と明るく話した。

 それにしても、と思わずにはいられない。

 報告集会で津山さんは、改めて逮捕・起訴された当時の様子を振り返った。「何が起きているのかわからなかった。なんでこんな目に遭うのかと思って、警察の留置場で涙を流した。なんでこんなにつらい思いをするのかと、釈放されてからも1週間は部屋に引きこもっていた」と。

 念願の中学教師になって2年目にこの事件に巻き込まれ、担当していた3年生の入試や卒業にも立ち会えなかった。それだけではない。2年半にわたって「刑事被告人」の立場に置かれ、起訴休職を余儀なくされた。教壇に立つ代わりに、連日駅頭に立って無実の訴えを続けざるを得なかった。20代後半のエネルギッシュな時期に、無念さはいかばかりだっただろう。

 津山さんは、こんな問題提起もしていた。

 「無罪の証明を私たちに課しているのは、おかしい。もう少し正しい裁判をしてもらうきっかけにならないだろうか」。そう、裁判には検察が有罪の根拠となる客観的な証拠を出すべきで、それができていない以上は、たとえ疑わしい状況があっても無罪にするのが刑事司法の鉄則のはず。なのに「疑いをかけられた側が無罪の証拠を示せなければ、有罪」になっているとの実感である。

 今も絶えない冤罪事件を見ていると、司法関係者はもとより、私たち一般市民も真剣に耳を傾けるべき指摘に違いない。冤罪に巻き込まれる可能性は誰にでもあることを忘れてはなるまい。

 救いなのは、津山さんが「裁判を通じて得た強さを持って学校に戻りたい」と、将来に前向きの姿勢を示していたことだ。自分に逆らっていた教え子たちが、冤罪の主張を信じてくれていることを知り、「子どもたちは背中を見ている。気持ちが届くとわかった」という。「これまで以上に頑張る」との決意があればこそ、きっといい先生になるだろう。

 もちろん、無罪はまだ確定したわけではない。検察は判決から2週間以内に、最高裁に上告することができるからだ。津山さんの支援者は、東京高検に「上告しないで」と電報を打つ運動を展開している。有罪判決の構造が根底から崩されたのだから、検察はこれ以上裁判を長引かせて津山さんの貴重な時間を奪ってほしくない。上告を断念し、一刻も早く津山さんが教壇に戻れることを切に願いたい。

 

  

※コメントは承認制です。
第32回
「逆転無罪」を勝ち取ったとはいえ~三鷹バス痴漢冤罪の教訓
」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    「もろ手を挙げては喜べない」と著者が言うように、無罪が証明されても、失われた時間は戻ってきません。周囲の環境によっては、仕事や人間関係を失い、取り戻せないケースもあるでしょう。「逮捕」「有罪」の言葉は、「間違いだった」では済まされないほどに重い、と改めて思わされます。今週の「鈴木邦男の愛国問答」でも、冤罪の疑いが指摘されている「和歌山カレー事件」が取り上げられていますが、「推定無罪」の原則に立ち返って、冤罪を防ぐための新たな仕組みづくりが、早急に求められるのではないでしょうか。

  2. 萬 安富 より:

     裁判官には、頭の良い人がなった方がいいと思います。

    法律には全然詳しくありませんが、失った物が多すぎます。

    損害賠償???とか、名誉棄損???とか訴えて裁判をしたほうがいいと思います。

  3. 通りすがりの者です。 より:

    もし、地裁と高裁の裁判長が入れ替わっていたらと思うとゾッとする。
    1審無罪~2審有罪の可能性だってある。
    最高裁まで行っていたら、どうなるんだろう。
    この先生の人生は無茶苦茶になる。

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小石勝朗

こいし かつろう:記者として全国紙2社(地方紙に出向経験も)で東京、福岡、沖縄、静岡、宮崎、厚木などに勤務するも、威張れる特ダネはなし(…)。2011年フリーに。冤罪や基地、原発問題などに関心を持つ。最も心がけているのは、難しいテーマを噛み砕いてわかりやすく伝えること。大型2種免許所持。 共著に「地域エネルギー発電所 事業化の最前線」(現代人文社)。

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