小石勝朗「法浪記」

 最初に目を通した時、間違えて弁護団の文章を見ているのかと錯覚するほどだった。これほどストレートに入ってくる裁判所の文章を読んだのは、初めてかもしれない。当の弁護団から「よくここまで踏み込んだ」との感想が漏れるほど、冤罪の主張が百パーセント認められた決定だった。

 静岡地方裁判所(村山浩昭裁判長)が3月27日に出した元プロボクサー袴田巖さん(78)に対する再審開始決定である。死刑事件で再審が実現して無罪になれば、1989年の島田事件・赤堀政夫さん(84)以来のことになる。日本の社会を揺るがす大きな出来事に違いない。

 私自身、勤務していた新聞社の記者として2006年に静岡に異動して以来、転勤したりフリーになったりしても、「袴田事件」と呼ばれるこの事件に関わらせてもらってきた。着任当時、静岡版にさえ全くと言っていいほど事件の記事は載っていなかったことを思い出すと、ここ数日間の報道の過熱ぶりには隔世の感がある。そして、釈放された袴田さんと並んで相好を崩す姉の秀子さん(81)の姿を見るにつけ、本当に良かったと感じる。まずは素直に喜びたい。

 改めて、袴田事件の経緯・問題点と再審開始決定の中身を見ていこう。

 事件は1966(昭和41)年6月30日未明に、静岡県清水市(現在は静岡市清水区)で起きた。味噌製造会社の専務宅で一家4人が殺害され、現金が奪われて放火された。1カ月半後に、住み込み従業員だった袴田さんが逮捕される。長時間にわたる厳しい取り調べを受けて20日目に犯行を「自白」し、強盗殺人や放火などの罪で起訴された。

 袴田さんは公判では一転、一貫して犯行を否認する。しかし、68年の静岡地裁判決は死刑。この時の3人の裁判官のうちの1人が、2007年に「私は無罪を主張した」と告白した熊本典道氏である。袴田さんは控訴、上告したものの、80年に最高裁で死刑が確定。すぐに起こした第1次再審請求も認められず、08年に最高裁で棄却された。

 この事件、もとの裁判(原審)の審理の過程で、すでに数々の疑問点が浮き彫りになっていた。最大のものが、今回の再審開始決定のポイントになった「5点の衣類」だ。血痕の付着した半袖シャツ、ズボン、ステテコ、ブリーフ、スポーツシャツで、現場そばの味噌工場の醸造タンクから麻袋に入って見つかった。事件発生から1年2カ月も経ってからのことで、1審公判の途中だった。

 検察は、起訴時点でパジャマだった犯行着衣を5点の衣類へと、あっさり変更する。この経緯だけでも十分に怪しいが、1審判決もこれを追認し、死刑の大きな拠り所にしてしまった。5点の衣類の血痕は血液型をもとに、けがをした袴田さんのものと被害者4人の返り血とされ、さらにこのズボンと切断面が一致する端切れが袴田さんの実家のタンスから見つかったとして、5点の衣類は袴田さんのものと判断された。

 70年代前半に東京高裁での控訴審で、このズボンを袴田さんがはいてみる着装実験が3回行われたが、小さくて入らなかったことはよく知られた話だろう。しかし、検察は「長期間、味噌に漬かった後に乾燥したため縮んだ」と主張し、裁判所も採用した。

 こうした経緯を振り返ると、そもそもこの事件には根幹部分で袴田さんが犯人であることに疑念を抱かせる要素があったことがよく分かる。「疑わしきは罰せず」という刑事裁判の原則に忠実に則っていれば、もっともっと早い段階で無罪になっていたと言えるだろう。雪冤の扉を開くまでに48年近くもの歳月を費やさせてしまったことを、特に司法関係者は深く反省する必要がある。

 で、再審開始決定である。

 すでに報道されている通り、最も注目されるのは、決定が「5点の衣類が袴田さんのものでも犯行着衣でもなく、後日捏造されたものであったとの疑いを生じさせる」と断じている点だ。

 しかも、「このような証拠を捏造する必要と能力を有するのは、おそらく捜査機関(警察)をおいて外にない」とも言及。袴田さんに対する捜査段階での無理な取り調べをもとに、「人権を顧みることなく、袴田さんを犯人として厳しく追及する姿勢が顕著であるから、捏造が行われたとしても特段不自然とは言えない。公判で袴田さんが否認に転じたことを受けて、新たに証拠を作り上げたとしても、もはや可能性としては否定できない」とも述べている。捜査機関寄りの姿勢が目立つ今日の裁判所にあって、極めて異例の文面に違いない。

 実は「捏造」を前面に打ち出すかどうかについては、弁護団の中でも意見が分かれていた。「どう考えたって捏造でしかない」との積極論に対して、「捏造を強く主張しなくたって、袴田さん犯人説に合理的な疑いが生じさえすれば再審開始には十分だ。裁判所をそこまで刺激しなくたっていい」という消極論の方が優勢だったそうだ。決定後、消極論の弁護士は反省しきりである。今の裁判所の一般的なスタンスへの懐疑心が背景にあるにせよ、筋を通すことの重要性を改めて教えてくれている。

 さて、裁判所はどんな理由で「捏造説」に至ったのか。再審開始の要件となる「無罪を言い渡すべき新規・明白な証拠」に挙げたのは、DNA鑑定と味噌漬け実験である。

 DNA鑑定は、弁護団の求めに応じて裁判所が実施し、弁護団、検察双方が推薦する2人の学者に委託した。1次再審請求審でも行われたが、2000年に出た結論は「鑑定不能」だった。技術の進歩で鑑定の精度が上がったことから再チャレンジしたのだ。

 焦点は2つ。一つは、被害者ともみ合った際にけがをした袴田さんのものとされてきた半袖シャツの右肩に付いた血痕が、本当に本人のものなのか。もう一つは、被害者の返り血とされた血痕が一家4人のものなのか。

 半袖シャツの血痕については、弁護団推薦の鑑定人が袴田さんのDNA型と「不一致」、検察推薦の鑑定人も「完全に一致するDNAは認められなかった」と結論づけた。袴田さんの血痕、との認定が覆されたのだ。さらに返り血とされた血痕についても、弁護団推薦の鑑定人は「被害者の血液は確認できなかった」としたうえで、「血縁関係のない、少なくとも4人以上の血液が分布している可能性が高い」と分析した。

 地裁決定は弁護側鑑定の信用性を重く見て、「5点の衣類の血痕は、袴田さんのものでも、被害者4人のものでもない可能性が相当程度認められる」と判断した。5点の衣類に依拠して袴田さんを有罪にした原判決の構造が崩れた。

 もう一方の味噌漬け実験は、5点の衣類が本当に1年2カ月もの間、味噌に漬かっていたのかを確認しようと、袴田さんの支援団体が中心になって実施した。5点の衣類とほぼ同じサイズ・素材の衣類をそろえ、自分たちの血液を採血して付着させ、味噌も公判記録の成分表をもとに仕込んで、最大1年2カ月の間、漬け込んだ。

 発見時の5点の衣類は、付着した血痕が識別できるほど味噌の着色の度合いは薄かった。しかし、実験で長期間漬け込んだ衣類は、もとの色が分からないほど味噌の色にムラなく染まっていた。もちろん、血痕は容易に判別できなかった。支援団体のメンバーは「5点の衣類が発見された時の状態は20分も味噌に漬け込めば再現できる」と語った。

 地裁決定は、味噌漬け実験をもとに「5点の衣類の色は、長期間味噌の中に隠匿されていたにしては不自然である」「ごく短時間でも、発見された当時と同じ状況になる可能性が明らかになった」と捉え、さらに「事件から相当期間経過した後、味噌漬けにされた可能性がある」と述べた。

 それだけではない。

 5点の衣類のズボンが味噌に漬かって縮んだとされた根拠として、ズボンのタグに記された「B」がサイズを示していることが挙げられていた。しかし、2次再審の証拠開示によって、実は色を表すことが明らかになった。大きいズボンが縮んだのではなく、最初から小さいサイズだったからはけなかったのだ。地裁決定は「ズボンが袴田さんのものではなかったとの疑いに整合する」と述べた。

 ズボンの端切れが袴田さんの実家から押収された経緯についても、決定は強い疑問を投げかけた。一緒に押収されたのが捜索の目的物のベルトだけだったことに触れ、これだけの重大な事件では5点の衣類に関係がありそうな品物を広範に押収するのが普通なのに「一見しただけでは事件との関連性が明らかでない端切れ」とベルトしか押収していないのは不自然だと指摘。「実家から端切れが出てきたことを装うために捜索・差押えをしたとすれば容易に説明がつく」として「捏造された証拠である疑いが強まった」と批判している。

 再審開始と死刑の執行停止とともに、拘置の執行停止(釈放)まで認めていることも、今回の決定の大きな特徴だ。

 理由として、①再審で無罪判決が出される蓋然性(確実性)が相当程度認められる、②判決が確定してから33年以上も死刑執行の恐怖にさらされてきた、③国家機関が違法・不当な捜査によって無実の個人を陥れ、45年以上も身体を拘束し続けたことになり、刑事司法の理念からは到底耐えがたい――を挙げている。

 そのうえで結論として掲げた「拘置をこれ以上継続することは、耐えがたいほど正義に反する状況にあると言わざるを得ない。一刻も早く身柄を解放すべきである」との文章は、決定にあたっての裁判官の決意を如実に示しているのだろう。弁護団が今回の決定を評して言う「素直な目で証拠を見たうえでの常識的な判断」の集大成となるくだりである。

 さて、これから。

 検察は予想通り、決定を不服として東京高裁に即時抗告した。DNA鑑定の評価に異を唱えるとともに、「捏造説」を裏付ける根拠はないと主張している。高裁でDNAの再鑑定を求める意向、とも伝えられている。

 高裁の審理の進め方によっては、再審が実現するまでに数年かかることも予想される。袴田さんの年齢や体調を考えた時、少しでも早く今回の決定を確定させ、再審開始〜無罪判決を獲得する必要がある。検察は執拗に審理を長引かせないように、高裁も迅速に対応するように、強く望みたい。

 そして、今回の決定を受けて何より私たちがなすべきは、なぜこういう事態が起こったのか、二度と同じ被害者を出さないためにはどうすればいいのか、袴田事件を教訓としてしっかり検証し、対策を講じることだ。「袴田さんが解放されて良かった」で終わってしまっては根本的な解決にはならない。

 決定後の記者会見や30日の報告集会で、西嶋勝彦・弁護団長は今後の課題として、①取り調べの全面可視化、検察が持つ証拠の開示をはじめとする刑事司法改革の実現、②冤罪の原因を究明する第三者機関の国会への設置と、裁判所の改革、裁判官教育の強化、③死刑廃止への正面からの議論、などを挙げている。いずれも簡単なテーマではないが、息長く取り組んでいく必要があるだろう。

 冤罪の責任を追及することも不可欠だ。たとえば、「捏造」を実行したと指摘されたり無理な取り調べで「自白」させたりした警察、ズボンのタグの「B」が色を指すことを知っていながら隠し続けていた検察、いくつものおかしな点に目をつぶって死刑判決を下した裁判所――。

 マスコミの責任も極めて重い。事件発生当時にどんな報道をしたのか、きちんと検証したメディアは見当たらない。1審の裁判官だった熊本さんは他の2人の裁判官が有罪の心証を持った理由を「あれだけの報道に接したら無罪とは言えなかったのだろう」と振り返っていた。それだけ激しい犯人視報道が展開されていたのだ。最近に至るまでマスコミがほとんどこの事件を取り上げてこなかったこと(個人的にとても実感・反省している)と併せて、報道姿勢の反省と改善は不可欠だ。「昔のことだから」で済ませてはいけない。

 さらに言えば、袴田事件にほとんど関心を払ってこなかった私たち国民にも、大きな責任があることを肝に銘じなければならないだろう。後を絶たない冤罪事件を見れば、今日にあっても決して他人事ではないことが分かる。いつ自分が同じ境遇に遭うかも知れないという想像力を持って、みんなで解決策に向き合うことが求められている。

 

  

※コメントは承認制です。
第25回
最高の決定は出たけれど、これで一件落着にしてはいけない袴田事件
」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    やはり冤罪が疑われている名張ぶどう酒事件では、昨年10月に第7次再審請求にかかる特別抗告が棄却。すでに死刑が執行された飯塚事件でも、先日3月31日に再審請求の棄却が決定されています。それだけに今回の再審開始決定には拍手を送りたいけれど、「よかったね」で終わらせていいはずはありません。一審の裁判官だった熊本典道さんは、「司法はあの時(一審の判決時)と何も変わっていない」とも指摘しています。なぜこんなことが起こってしまったのか、再発はどうすれば防げるのか…。早急な検証と改革が必要です。

  2. ピースメーカー より:

    >①取り調べの全面可視化、検察が持つ証拠の開示をはじめとする刑事司法改革の実現、
    >②冤罪の原因を究明する第三者機関の国会への設置と、裁判所の改革、裁判官教育の
    >強化、③死刑廃止への正面からの議論、などを挙げている。

    今回の小石勝朗さんの記事で主張されていることに関しては、私としてもほぼ同意します。
    最近の「歴史的教訓」という言葉で対峙する人間を攻撃する風潮に嫌悪している私ですが、今回の「袴田事件」という単語を「歴史的教訓」として、冤罪事件撲滅や司法改革を早急に推進する事にはやぶさかではありません。
    とはいえ、「いずれも簡単なテーマではない」との小石さんが論じられている通り、抜粋した①②③のいずれも簡単に物事が進むとは思えませんが、とりわけ①と②に関して集中して議論していくべきではないでしょうか?
    ③の死刑廃止に関して「袴田事件」は確かに影響力を与えると思いますが、ほぼ100%シロの袴田さんならば兎も角、「附属池田小事件」の様に犯人が完全なクロの事件の場合もあり、そのような事件と「袴田事件」をごっちゃにして、他の様々なクリアすべき問題を無視して死刑廃止を強行しても、逆に国民からの反感を強めるでしょう。
    「簡単なテーマではない」のですから、ターゲットを絞って堅実に改革を進める事が国民の利益に質するでしょう。

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小石勝朗

こいし かつろう:記者として全国紙2社(地方紙に出向経験も)で東京、福岡、沖縄、静岡、宮崎、厚木などに勤務するも、威張れる特ダネはなし(…)。2011年フリーに。冤罪や基地、原発問題などに関心を持つ。最も心がけているのは、難しいテーマを噛み砕いてわかりやすく伝えること。大型2種免許所持。 共著に「地域エネルギー発電所 事業化の最前線」(現代人文社)。

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