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「戦争の実験場」という言葉を耳にした瞬間に思い浮かべたのは、母の電話よりも前に受け取っていた妻からのメールのことでした。
妻の文面によると、ある在沖米軍基地の敷地内には、日本のデパートに似せた施設が建てられていて、その中で「テロリスト対策」と称する軍事訓練がおこなわれているというのです。
沖縄に転がりこんでまだ間もないのに、いったいどこからそんな話を仕入れてきたのだろうか? そう不審に思って尋ねてみると、近所のケーキ屋さんが教えてくれたという返信が返ってきました。
――仕事で、品物を出荷しに行ったことがあったんだって。そのときに基地のなかで見たらしいよ。
たったこれだけのやりとりでしたが、私にとってはしばらく考えこまざるを得なくなるほど衝撃的な話でした。この短いエピソードには、少なくとも三つの見逃せない点があると思うのです。
第一に、アメリカの軍隊は、日本の町中での軍事作戦を当然のように想定しているということ。そうでなければ、わざわざ大掛かりな施設を建てたりはしないはずです。
第二に、地元の人びとにとって、この種の話というのは、周知の事実にちがいないこと。G村では地縁と血縁のつながりがどちらも強いので、ひとつの情報はまたたく間に拡がります。たとえば、私たち家族が原発事故後に避難してきたという事実は、一週間と経たないうちに村中に知れ渡っていました。
第三に、これが最も重要なことですが、大半の日本人は、このような状況を想像すらできないだろうということ。もちろん、そういう私自身、この「大半の日本人」に該当していたわけです。その後、私がさまざまな場所で目の当たりにすることになった沖縄と内地の間の心理的な溝の深さは、こうした「大半の日本人」の無知に由来するところが大きいと思います。
それにしても、と私は考え込まざるをえないのです。母が言う「戦争の実験場」は、基地の内側と外側とを問わず、沖縄という小さな島の至るところに偏在しているのではないかと……
たとえば、目が眩むほどに美しい藍色の海のうえには、いつでも米軍の艦船が浮かんでいます。
ガジュマルの林の上空を見上げれば、そこには決まって戦闘機や軍用ヘリの飛び交う光景が拡がっています。
小高い丘から見下ろす国道は、一時間に何台もの装甲車や軍用ジープが行き来しています。
住宅地のすぐ裏手にある演習場からは、昼夜を問わず射撃訓練の音が鳴り響いてきて、だからこそ、その一帯を貫く高速道路に「流れ弾に注意!」という看板が建っているわけです。
おまけに最近は、イラクやアフガニスタンからの帰還兵たちが、沖縄の基地のあちこちに配置されているという話をちらほら耳にします。ひとを殺し、仲間が殺されるという経験をした兵士たちが、戦場から戻った後にどのような状態になるのかということは、想像に難くありません。
破壊や殺傷のフラッシュバックに苦しめられるケース。暴力への抵抗感を喪失してしまうケース。激情をコントロールできなくなるケース。何事にも反応を示さない廃人同然の状態になってしまうケース。
その後、私の妻が米軍兵士を夫に持つ何人かの女性たちと仲良くなったこともあって、基地には上のような帰還兵のためのメンタルケア・メニューが用意されているという事実を知ることになるのですが、それはまだはるかに先のことでした。
『半難民生活』、久しぶりの更新となりました。原発震災後、妻と子を避難させた沖縄を久しぶりに訪れた著者。そこで突きつけられたのは、今もその地に色濃く残る〈戦争〉の姿でした。〈アメリカと日本は、寄ってたかって沖縄のことを食い物にしてきたのではないだろうか〉――著者の思いは、どこへ向かうのか。ご意見・ご感想も、ぜひお寄せください。
こちらの連載、楽しみにしているのですが、いつも読む度に涙がでます。登場する方々それぞれの色々な感情(戸惑いや葛藤、深い悲しみ、そして喜びも)が伝わってきて・・・
3・11の後、何に一番気がついたかといえば、いかに自分が色々なことを知らなかったか、ということです。原発のことだけでなく、沖縄のことについても。心痛む現実や歴史にもっと目を向けていこうと思います。