1)
――カタグルマ! ねえ、カタグルマして!
何度もせがまれて抱きあげた娘の体の輪郭は、私が記憶していたサイズからはみだしているようでした。思いのほかずしりと肩に食いこむ娘の重みにとまどいながら、私は波打ち際を歩きだしました。一歩ずつ足を前に突きだすそのたびに、靴底が濡れた砂のなかへとめりこんで、気をつけていないと千鳥足になりそうです。
――なんだか重たくなったねえ、Kちゃん!
Kはこの呼びかけに答える代わりに、私の肩で大きく海老ぞりになりました。うれしさをどう表現していいか分からないとき、決まってこんな仕草をするのです。後ろから大きなお腹を抱えてよちよち付いてきていた妻が、「K、危ないからやめなさい」とたしなめました。
この子のなかでは、一日一日の時間がきちんと積み重なっているのだろう… 少しずつだけれども、確実に成長しているのだろう… そんなまぶしいような、さびしいような気分の渦が、あの日から時計の針が止まってしまった私の胸のなかを、かすめていくのでした。私たち三人はそのまま黙って、まっしろの砂浜を歩きつづけました。
誰からともなく誘って足を踏み入れたこのビーチでした。避難先の義父の家から歩いてすぐの場所にあるというのに、三人そろってやってきたのは、この日が初めてのことだったのです。それほどまでに前回の滞在中は雑事にかまけていて、私たちはいっしょに浜辺を散歩する余裕さえも無くしていたのだと思います。
――オヒサマだ!
Kの声につられて見上げると、なるほど雲の合間から「オヒサマ」が姿を現わしかけていました。日の光が、一瞬にして浜辺にあふれかえりました。そんな空模様の変化に相応じて、遠い沖合いから巨大な紺碧の壁が、一斉にこちらに向かって押し寄せてくるように見えたものでした。
――Kちゃん! 「藍よりも蒼い海」って分かるかい? ほんとうにあるんだねえ、そういう海が!
私の言葉の意味が伝わったのか伝わらなかったのか、Kはころころと笑いだしながら、もう一度肩のうえで海老ぞりにそっくり返りました。今度は妻が口を開きました。
――でも、この海が真っ赤に染まる日もあるのよ…
妻によると、土手をひとつ越えたところにあるサトウキビ畑の赤土が、川を伝って流れだしてくるらしいのです。彼女が私の母と世間話をしているときに聞かされたところでは、なんでも沖縄で大量のサトウキビが作られるようになったのは、比較的最近のことだそうで、もともとは米どころだったこの島で、いわば中央政府の「国策」として砂糖の生産をするように「指導」が下った結果だというのです。母がその話をどこから仕入れてきたのかは分かりませんが、なるほど言われてみると、サンゴの死骸でできたこのまっしろの砂浜には、赤茶けたシミのようなものがところどころに混じっているようです。
ぜんぶ土手向こうの赤土のせいなのよ、と妻は言いました。雨が降った後なんて、どこもかしこも、血の海みたい…
オトーサン、チノウミってなあに?… 頭の上からのぞきこんできた娘の声は、突然の爆音にかき消されました。見上げると、浜辺を囲むガジュマルの森の向こうから、米軍の戦闘ヘリの編隊が近づいていました。
2)
沖縄に到着した直後の日々に関して、印象に残っていることがふたつあります。ひとつめは、妻が妙にしおらしく振る舞っていたことです。
避難生活がつづくなか、わずかながら明るい要素が見え始めていたことが原因だったのかもしれません。産院が確定し、妊婦健診の経過も順調に進んでいたことは、大きな安心材料になっていました。以前も書いたように、三月の時点ではどこの病院でお産するかさえ不透明なままでした。ようやく見つけた当の産院も、義父宅から高速に乗って40分かかるところが不安の種だったのですが…
もうひとつだけ覚えているのは、Kのことです。何日かのあいだ、彼女は夜中になると寝汗をかいて、しくしく泣きはじめるのでした。どうしたの? だいじょうぶかい? そう尋ねてみても、ねぼけ半分の娘から返ってくるのは要領を得ない答えばかりでしたが、それでも怖い夢を見たのだろうということは容易に想像できました。妻はと言えば、最初はKの名前を口ごもりながら手を差し伸べようとするのですが、出産間近のせいで眠気が勝るらしく、すぐに寝息を立ててしまいます。
当時三歳だったKは、一度しゃくりあげると、なかなか泣きやむことのない子でした。私はしかたなく娘を抱いて外に出ると、こわかったんだネ! いやな夢を見たんだネ! と耳元にささやきながら、庭のなかを何周もまわることになりました。
こうして二人で夜中のひとときを過ごすようになってから、たしか三日目のことです。街灯の薄明かりに包まれた庭で、ふと泣きじゃくるのをやめたKが、ひそひそ声で私に耳打ちしてきました。
――オトーサンさ。キジムナーって、しってる?
――キジムナー? なあにそれ?
――ガジュマルにすんでる、ちっちゃなおばけ。
なるほどそういうことだったのか、と私は考えました。「Kちゃんは、キジムナーの夢を見て、こわくなったんだね?」
Kはこくりとうなずきました。「はやくハーミーしないと、キジムナーにつれてかれるよ!って、オカーサンがゆった…」
私たちは、歯磨きのことを「ハーミー」と呼んでいました。なかなか「ハーミー」しようとしないKに手を焼いた妻が、たぶん思いつきで「キジムナー」の名前を持ち出したのでしょう。夢の内容を改めて思い出したのか、それとも妻に脅されたときの恐怖が頭をよぎったのか、私の背なかにまわされたKの両腕に、ぎゅっと力がこもりました。
後で調べてみると、「キジムナー」とは沖縄各地で伝承されてきた妖怪のことで、長くて赤い髪を伸ばした子どもの姿をしているというネット上の説明を見かけました。そういえば、妻と娘が身を寄せているG村の「道の駅」には、愛らしいキャラクターに仕上げられたキジムナーの人形がぽつんと立っていました。Kも毎朝、隣町のM保育園に車で向かう際には、その人形を目にしてきたはずなのです。
私はこの事実をKに思いださせたうえで、なんとか彼女を安心させようとして、あの「道の駅」の「キジムナー」が、そんなにおっかないマネをしたりするだろうかと、逆に問いかけてみました。これに対して、Kが鼻をひくつかせながら返してきた答えは、予想外のものでした。
――でも、ひとは、みかけによらないよ。
私は一瞬、うろたえました。いったい、いつの間にこんな言葉を学んだのだろう?… 大の絵本好きなので、もしかすると保育園か図書館で読んだ絵本のセリフをそのまま引いてきたのかもしれません。日常の会話にあわせて絶妙のタイミングで絵本の言葉を引用するのは、Kの得意技でした。いずれにしろ、私はすぐに笑いがこみあげてくるのを抑えられなくなりました。
――そうだね! かわいいオバケだって、こわいことするかもしれないものね!
私の笑いに釣られたように、Kも笑い声をあげました。ところが、薄明かりのなかで私と目があうや、さっきまで泣いていたことが恥ずかしくなったのか、はにかみ顔を隠そうとして私の首にしがみついてくるのでした。
小粒の雨が静かに降りはじめていました。私たちはしばらくの間、玄関前の小さな池の脇にたたずんでいました。この家の大家さんが設計したのでしょう、池の周囲はどこかから切り出された岩と、ヒンプンによって巧みに囲われていました。「ヒンプン」とは、沖縄の平均的な一戸建ての庭の真ん中に置かれている長方形の壁のことで、外壁の四隅に刻まれた「石敢當」の文字や、門の両脇に並ぶ二体の「シーサー」の彫刻と並んで、「魔除け」の役割を果たすとされているそうです。
雨脚が強くなるにつれて、この「ヒンプン」の向こうから、ほのかな潮の香りが流れてきました。屋内に戻り、宇都宮での毎晩の習慣だった「全身マッサージ」をしてやると、Kはすぐに寝息を立てはじめました。何となく目が冴えてしまった私は、テレビルームに敷き詰められた蒲団のなかに身を横たえたまま、とりとめのないことを悶々と思いめぐらしていたように記憶しています。
カーテン一枚を隔てた四畳半の部屋で、私の祖母がベッドから起きだしてくる気配がしました。やがて、簡易トイレで長々と用を足す音が聞こえてきました。庭の木々の葉をたたく雨音がいっそう強まり、引き戸ががたぴしと鳴り続けました。
3)
あくる日のG村の空は、朝早くから突き抜けるように晴れあがっていました。窓向こうにひろがる雨上がりの庭の光景を見た妻が、「今日ならきっと真っ赤なビーチが見られるよ…」とつぶやきました。
朝食はいつも義父や母といっしょにとっていたのですが、その時間にはまだ早すぎるようでした。いっそのこと腹を空かせるために、例のビーチまで散歩してみようかなどと話しあっていると、がばっと布団から飛び起きた娘が、「Kもオサンポいく!」と慌てて着替えはじめました。
戸外には彼女の大好きな水たまりがあちこちにできていました。それらとりどりの形をした水たまりに出くわすたびに、Kは歓声をあげ、島草履でぴしゃぴしゃと音を立てながら跳ねまわりました。とつぜん妻の金切り声がしたので、驚いて振り返ると、「こんなに大きいのが、あちこちにうじゃうじゃいるんだよ!」と道路脇で蠢くアフリカマイマイを指さしています。
あー、やだやだ。これが通ると、地面がぬるぬるするんだもの。妻は大仰にアフリカマイマイを迂回してみせました。しばらく歩いていくと、またしても悲鳴があがって、「やだあ! 今度はヤモリの死体がひからびてる。毎日毎日、外に出るたびにこれだからまいっちゃう」「そんなにいやなら家に戻ろうか?」と私が尋ねると、「べつに散歩がいやだなんて言ってないじゃない」とむくれた顔をしています。
――仏頂面かい… ビーチが赤いから見に行こうと言ったのは、きみじゃないか。
――あたしはビーチが赤いと言っただけ。見に行こうと言ったのは、あなたです。
ひとつひとつは取るに足らない、それでいてきわどいすれ違いを孕んだやりとりを重ねるうちに、この調子ではとても放射能のことなど話題にできそうにない、と私は感じていました。義父宅に居候しているという事実に納得していない妻と、栃木の汚染について話し合いをするということは、一筋縄では行かないことのようでした。Kはそんなことにはお構いなしで、道路脇に咲く小さな草花を夢中になって摘み取っています。
Kの道草に付き合いながらようやく入り組んだ小道を抜けたとき、国道沿いのバス停近くにたたずむ私の祖母と出くわしました。祖母も、同じように早朝の散歩に出かけていたのでしょう。はるか昔の尋常小学校のころ、毎日のように片道四キロ以上の道のりを歩いていたという祖母は、視界にカスミがかかるほどの老衰にさらされた今でも、まだまだ健脚を保っているようです。小さな体をもたせかけた欄干の向こうには、朝靄が消え尽くした後の静かな海がひろがっていました。
――オオオバーチャーン!
Kが足元まで駆け寄っていかなければ、いつまでもそこで海を眺めていたのではないかというほどの、恍惚とした祖母の後ろ姿でした。
4)
コンクリの岸壁にこじ開けられた排水口から、赤土まじりの水がたらたらと糸を引いてていました。私は祖母の手をとって、浜辺に向かう急勾配の階段を一段ずつ降りていきました。その数歩先を、Kが前のめりに駆け下りていきます。なるほど、先日見たあの海は、見渡すかぎり真っ赤に染まり果てていました。
――オトーサン、「マヤ」だよ!
娘が指差すほうを見ると、沖合いにぽつんと小さな島が浮かんでいます。にわかには要領を得ないので、「『マヤ』ってなに? 島のことかい?」と聞くと、「ちがうよ。ネコだよ!」とKは得意そうです。私が知らない沖縄の言葉を披露できたことがうれしかったのか、彼女はぱっとはじけ飛ぶように駆け出していきました。「マヤ」の小島… 「ネコ」の小島… そうやってじっと眺めているうちに、たしかにその形はネコが軽く伸びをしている姿にも見えてくるのでした。
気がつくと、Kは遠くで貝殻拾いをしています。しゃがんでは立ち、立ってはしゃがむ彼女のシルエットの向こうには、緩やかな弧を描く海岸線が続いていて、そのカーブがそろそろ尽きようかという辺りに、迷彩色のテントがいくつも陣取っていました。ひとつ、ふたつ、みっつ… まるで何者かを威嚇するカブトムシの群れのようなそれらの軍用テントは、きちんと指で数えあげようとすると、いつの間にか焦点がぼやけてしまいます。背後に広がる雑木林の向こうから、数台の装甲車が次々に湧き出してきました。テントの前に整列し、捧げ銃を始めた兵隊たちの背丈をゆうに超えるタイヤが、遠目に見ても分かるほどの黒々とした光ではちきれそうでした。
このビーチそのものが、米軍の演習場と隣り合わせだったのか… いきなり胸倉をどつかれたような心地がして、私は目のやり場に困りました。先日この場所に降り立ったときには、青々とした海の美しさにばかり気を取られていて、知らず知らずのうちに観光客気分でのぼせあがっていたのかもしれません。赤土のヘドロで濁りきった海水が、くりかえし渦を巻きながら足元まで押し寄せてきました。
――オバーチャン、ドーデスカ? マッカナ海ガ、見エマスカ?
妻が大きめの声で問いかけても、祖母は「はあ」と答えたきり、小首をかしげています。質問が聞こえたのか聞こえなかったのか、海が見えているのか見えていないのか、にわかには判然としません。頑強に散歩の日課を変えようとしない祖母ですが、二十年ほど前に看取った夫と同じく、その網膜にスダレがかかっているのは厳然たる事実でした。現に、外出するたびに頭を電柱にぶつけたり、車に引かれそうになったりをくりかえしてきたのです。これといった返事がないので、妻は手持ち無沙汰になったようでした。
つんと突き出たお腹をさすりはじめる妻… 海岸線の果てで蠢きつづける装甲車… 相変わらず貝殻拾いに余念のない娘… 沖に浮かぶ生き物のような形をした小島… あらぬ方角に目線を投げたまま押し黙る祖母… 真っ赤な色に染めあげられた波しぶき…
私はいつしか不思議な気分にとらわれていました。ひとつひとつはばらばらで、実は何の脈絡も連関もないものたちが、ただこの場に雑然と居合わせ、同じ時間を共有しているだけなのではないだろうか? そんな奇妙な考えが、私のなかで沸き立ちはじめたのです。そうこうするうちに、ひとつのぼんやりとした光景が、しだいに姿かたちをなしながら記憶の奥底から浮かびあがってきました。その真っ赤な海の光景は、私がまだ本当に幼かった頃、くりかえし祖母から語り聞かされたものでした…
祖母は戦中・戦後に体験したことを、よく私に話してくれたひとでした。いくつかの話は何度も執拗に聞かされるので、まだ年端も行かなかった私には、文字通り「耳にタコ」のできる思いがしたほどでした。
――あれは、たしかマー・ペーヨンさんでしたかね…
いつでも前触れもなく、祖母の話はこんなふうに始まるのでした。
――あの戦争に負けて、だいぶ時間がたってみるとね、日本もすこしずつ豊かになってきて、それじゃあジイサンバアサンの家でも、日本が戦争をおかしたことの、せめてもの罪滅ぼしをしなくてはという話になったんですよ。
こうして始めたのが、狭い自宅で、東南アジアからの留学生を受け入れることだったのだと、祖母はつづけるのでした。「マー・ペーヨンさん」は、そのなかでも最も長い間、ホームステイしていたマレーシアからの留学生で、ルーツは華僑だということでした。
ある日、ペーヨンさんとの茶飲み話のなかで、いつしか原爆のことが話題にのぼりました。いくら戦争とはいえ、一瞬にして数万の命を奪った広島と長崎への原爆投下は、少なくとも当時の祖母にとって、非道な行為と映ったのでしょう。アメリカという国は、本当にひどいことをしてくれたものですね… 祖母はそう意見を述べたのだそうです。
そのときペーヨンさんの顔がこわばったことを、祖母の目は見逃しませんでした。たしかに、お母さんがおっしゃるとおりかもしれません… 苦学生ならではの折り目正しい答えを返したうえで、ペーヨンさんは意を決したように、「でも、こういうことも知っておいてほしいのです」と語り始めるのでした。
ペーヨンさんが幼少期を過ごしたのは、海辺の小さな村でした。サンゴ礁で埋め尽くされた真っ青の入り江のなかには、ぽつりとひとつ、小さな島が浮かんでいました。そして、ペーヨンさんの物ごころがついたころには、この村にも海にも、日本軍が「進駐」してきていたのだと言います。
ある日、軍の命令で、村人たちは砂浜の一角に招集されました。二、三百名にも及ぼうかという住民の周囲で、腰から日本刀をさげた軍人たちが隊列を組みはじめました。近くの森で遊んでいたペーヨンさんは、たまたま木々の合間からこの光景を見て、「今この森から出てはいけない!」と直感したのだそうです。
年配の軍人のひとりが大声を張りあげ、沖の小島のほうを指さしました。あの島まで歩いて行け、そう言いたいようです。お互いを当惑顔で見つめあう村人たちに苛立ったのか、若い軍人が前に進みでて、すぐそばに立っていた老人の背中を蹴りあげました。友達のおじいさん!… ペーヨンさんは固唾を飲みながら、見守るほかありませんでした。
村人たちは訳も分からないままに、ひとりずつ、海のなかに足を踏み入れていきました。彼らが進みゆく進路を徐々に狭めていくかのように、日本兵の隊列もまた海に入り始めました。遠浅の入り江のなかで、村民の群れは小さな円の形に収斂するように、じりじりと包囲されていきました。
誰も彼もが入り江のなかに入り切ったとき、怒号が響き渡りました。日本兵たちはそれを合図に抜刀し、一斉に村人たちに襲いかかりました。老若男女を問わず、次々と滅多斬りにされていく村人の群れ… 遠目にも分かるほどの勢いで飛び散る血しぶき… 海水のなかにぼとりと落ちた赤ん坊の生首… 泣き叫ぶ母親たちの体のうえに容赦なく襲いかかる日本刀の鈍い閃光… ペーヨンさんはその場に呆然と立ちつくしたまま、遠くでくりひろげられるこの悪夢のような光景から目を離すことができませんでした。すべてが終わったとき、彼が知っていたあの入り江は、どこもかしこも血みどろに染めあげられていたそうです。
*
すいぶんと長い間、忘れ果てていた光景でした。思い出しながら痛感せざるをえないのは、この記憶には辻褄のあわないところがいくつも混じっているということでした。祖母からの又聞きであるということも、なんらかの形で影響していただろうと思います。また、私自身の記憶がどこかでねじ曲がっている可能性も否定できません。
現に、ペーヨンさんがその後どうしたのか、彼の家族は虐殺の現場にいたのか、そもそも彼はどのような経緯で私の祖母の家にホームステイできたのかなど、この記憶のなかの光景だけではまともな手がかりが見いだせない始末なのです。それによく考えてみると、私の祖母がいったいどんな動機から「戦争の罪滅ぼしをしなくては」と決意するにいたったのかも、いまひとつ曖昧模糊としたままなのでした。
私はふと自問してみました。ひょっとして、かつての沖縄戦では、このG村でも似たような出来事があったのではないだろうか、と… まだろくに知識もない私の思考は、それ以上に見るべき進展もないまま、この問いのまわりをうろつくしかありませんでした。
妻はいつの間にか娘といっしょに貝殻拾いに興じていました。祖母は相変わらず小首を傾げたなり、本当に聞こえているのかどうかも定かではない波音に、黙って耳を澄ましているかのようでした。
――オトーサアーン、みてー! サンゴのネックレスだよおー!
波打ち際を飛び跳ねながら、Kが向こうから走り寄ってきました。
「この国は、ずっと戦時中だったのではないか」
--原発事故直後に沖縄に逃れてきたとき、
唐突にそんな思いを抱いたと綴っていた著者。
再びの沖縄での家族との再会が、
またしてもさまざまな思いの渦を生み出していきます。