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近所づきあいばかりではありません。
あの事故が起こる前までは良好だった親戚との関係も、にわかに一変しました。
まず、二〇一二年正月以降、私に宛てた年賀状は一通も届かなくなりました。精確に言うと、ある人が一度だけ送ってきたのですが、そこには「岩真千様」という宛名が記されているだけで、裏はまっさらな白紙でした。私が返事をせずにいると、翌年からは何も来なくなりました。
まさに潮が一斉に引いていくように、親戚からの音信はぴたりとなくなりました。
――だって、そのほとんどは、わたしの親戚でしょ? わたしのところにはちゃんと連絡があるもの。
妻はそう反論してきます。「だいたい、あなたは自分の親戚とだってきちんと付き合おうとしてこなかったじゃない? 原発事故が原因というよりも、もともと縁遠かったんじゃないの?」
たしかに、この点に限ってみれば、妻の言う通りかもしれません。けれども、次に引くようなもうひとつの事例に私が言及すると、妻の口も重くなるのです。
というのは、ある人が毎年のように、沖縄の妻たちのアパートに、段ボール箱いっぱいの福島産の桃を送ってくるからです。箱を開けると、「セシウム測定済」という証書が封入されていて、「検出限界値未満」という記載も見てとれます。
私の眼から見て、証書の内容はとても行き届いています。検出限界値が十ベクレルに設定されている点についても、私自身は好感を持っています(「十ベクレルでは納得が行かない」という人もいることは承知しています)。その桃を作っている農家の方たちが、現場でどのような苦労を重ねてこられたかが、おのずとしのばれるのです。
ただ、その人がなぜ、よりによってKやEのいる場所に送りつけてくるのかを考えだすと、気分は一転して暗澹たるものと化していきます。私が家族を避難させたことは親戚中に知れ渡っているので、そのことを当てこすっているとしか思えないからです。汚染の数値がどうこうではなく、無言でこのような行為に及ぶその人の意図を思い、私は寂しい気持ちになります。
箱いっぱいの食べ物を捨てるわけにも行かないので、私と妻は毎年のように二人で分けあって、それらの桃をたらふく食べています。おいしい桃であることは確かです。
まだあります。
例の白紙の年賀状を送ってきた人(仮にPさんとしておきます)は、私のツイッターのアカウントに返信する形で、次のように書きこんできました。
――家族を逃がしたこの方のせいで、私たちは傷つきました。人にどんだけ不快な思いさせるんだろうね~?
このツイートは、Pさんのフォロワーたちによって、何度もリツイートされていました。
私は怒りと悔しさのあまり、Pさんはもちろん、リツイートした人たちのアカウントをことごとくブロックしていきました。それでも気持ちがおさまらなかったので、「非公開設定」に変えたフェイスブックのアカウントだけを残して、ツイッターは退会してしまいました。
もっとも、この話には後日談があります。
妻から聞いたのですが、Pさんは事故後、周囲には内緒で、できるだけ遠方から食材を取り寄せてきたのだということです。Pさんの住む町は、首都圏内のホットスポットで、宇都宮よりもはるかに汚染されていることが判明しています。Pさんも子育てをしているので、もしかしたら心配で仕方がなかったのかもしれません。
――毎日の心配が積もりに積もっていった…… そんななか、自分とは異なる選択をした人間、もっと言えば、条件的にそのような選択をすることができた人間に、ふと激しい感情をぶつけたくなった……
こう考えてみると、Pさんの行動にもそれ相応の苦しい背景があったのかもしれない、と思えてきます。
***
そろそろこの連載にも、締め括りをつけるべき時が来ています。
ただでさえ取りとめのない出来事の数々を、際限なく語りつづけても仕方がありません。元はと言えば、やむにやまれぬ気持ちに駆られて、勢いで始めてしまった身辺雑記です。そのような性格の文章は、いつかどこかで終止符を打たれるのがふさわしいと思います。
連載を書きはじめた当初に漠然と思い浮かべていたのは、妻がEを出産する場面で終わりにしよう、というイメージでした。ところが、現実は私を置いてけぼりにしたまま、凄まじいスピードで流れ去っていきました。
KとEの成長はあまりに速く、私を取り巻く人間関係は時々刻々と変化し、そのなかにはもはや後戻りのきかない地点に達してしまった関係もありました。また、世の中全体も、目まぐるしく動きつづけてきました。私の眼には、加速度的に悪い方向に突き進んでいるように見えるのですが、どんな時代にも、どんな場所でも、人々はしたたかに生きのびてきたという歴史を考えれば、悲観ばかりしているのは考え物なのかもしれません。
いずれにせよ、一瞬たりとて立ち止まってはくれないさまざまな現実の動きを受けて、私は途中から執筆の方針を変えることになりました。Eの出産という分かりやすいクライマックスに固執するのではなく、どんどん開いていく現実と私との間の落差を、少しでも埋めようと心がけることになったのです。そのために私がとったメモは、手帳十冊分にのぼります。私が時として細かすぎるほどの日付を記すことができたのは、この十冊のメモがあったからでした。
いま、これらの手帳をめくりなおしていると、本連載に書いたことについても、あるいは書かなかったことについても、その時々の思考や感情が生々しく込みあげてきて、頭も胸もはち切れそうになります。どうやらまだ、私は原発事故の影響を克服しきれていないようです。この意味で、連載の終わりは私にとって、とりあえずの通過点に過ぎないのでしょう。
最後になりましたが、ここまで読んでくださった皆さんに、ひとつだけご報告があります。最近、私は宇都宮のアパートから引っ越しました。来年の三月末、沖縄にいる家族を迎えるために、一足先に栃木県南部の小さな町に移って来たのです。
この町で暮らそうと決めたのは、静かで落ち着いた住宅街であること、子育てをしている世帯が多いこと、自治体が福島からの原発避難者を数多く受け入れていること、そして何より、北関東地方では最も汚染が少ない地域であることなどが理由です。
今年の夏休みに入る前、自分のなかで何度も熟考を重ねたうえで、私はこのような引っ越しのプランを妻に持ちかけてみました。
電話口の彼女は、絶句していました。
――あんたってひとは…… ほんとに、あんたってひとは……
妻の声は、わなわなと震えていました。私の提案の内容は、妻にとって、長いあいだ待ち続けてきたことのはずでした。けれども、KとEが沖縄での暮らしに馴染み、彼女自身も学童保育の仕事を任せられるなかで、しばらく沖縄で暮らしていく覚悟を決めていた、そんな矢先のことだったからでしょう。
妻の胸の、最も奥深いところから、五年半分の思いの詰まった嗚咽が、堰を切ったようにあふれ出てきました。
待っていた。ずっとずっと、待っていた。あなたがそういう気持ちになる日が来ることを、どんなにどんなに待ちつづけてきたか、あなたにはたぶん、理解してもらえないでしょうけれど……
そこまで述べると、妻は再び絶句しました。
ごめん、と私は答えました。いきなりこんなこと言われたら、びっくりするよね。あれほど戻るのはダメだと言ってたくせに、今頃になってどういう風の吹き回しだと思うかもしれないけれど、俺もとにかく考えて考えて、何度も考えた末にたどり着いた結論なんだ。
私は少し呼吸を置いてから、こう付け加えました。こういう考えの途中経過は、ウェブの連載で書いてきたし、君もそれを読んで理解してくれてるはずだから……
すると、電話の向こうでは、にわかに沈黙の帳が立ちこめました。私はややうろたえて、尋ねました。「なんか俺、またまずいこと言ったかな? 気にさわった?」
次の瞬間、耳のなかに潜りこむように聞こえてきたのは、意外にもくすくす笑いでした。その意味をはかりかねて、私は面食らっていました。
妻はとうとう口を開いて、こう言いました。
――その件だけどね、あなたに謝らなければいけないことがあるの。実はあの連載、途中から読むの、やめちゃったんだ。ごめんね。だってあまりにリアルすぎるし、思い出したくないことがずらずら書かれてるんだもん。
最後の方は快活な空気さえ漂う妻の口調に、私は呆気にとられながらも、どこか救われたような心持ちでした。
――色々と感想いってたのに、じゃあ、あれは読んだふりだったわけ?
――ごめん。許して。二十年後にちゃんと読むから。この五年半、苦しいこと悲しいことが多すぎて、とにかく少しでもそういうのを手放したくて必死だったんだよ。ようやくここのところ、子育てのしんどさもやり過ごせるようになって、なんとなく気持ちにゆとりが出てきた感じかな。そんなときにさー、ダイレクトに記憶をほじくりかえされるような話なんて読み続けてたら、気がめいっちゃうよなーって、思ったわけ。
こうあっけらかんと言い放たれると、苦笑するほかありませんでした。
電話の向こうの妻の、そのまた向こうから、KとEの声が立て続けに飛んできました。
――ステキチトーサン、スカイプしようよ! こないだ学校でイッセッセノセ遊び、教わったんだ。お父さんにも教えてあげる!
――ステキチトーサン、Eはね、イッセッセノセ遊び、すっげえ強いよ!
KとEは、妻と私のやりとりから緊迫感が抜け落ちたのを見てとると、瞬時に介入してきたのです。それは、日ごろから私たちの関係を観察している二人の、子どもならではの調停の方法なのでした。
2011年10月に始まったこの連載も、今回が最終回となりました。5年以上にわたる連載の月日は、そのまま原発事故避難の時間と重なります。「最終回」を迎えても、いまも多くの人たちが全国で避難生活を続けているという現実は変わっていません。一人ひとりの生活を大きく変えた原発事故。それから5年半、私たちは何かを変えることができたのでしょうか。