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原発事故から三年以上経ったある日、偶然にも、近所に住む年輩のご夫婦と立ち話をする機会がありました。先方から私の家族の消息を尋ねてきたので、隠すのも変かなと思って「沖縄で暮らしてます」と答えました。すると、二人は「さびしいですねえ」とつぶやきました。
この些細な出来事がきっかけとなって私が考えたことは、ふたつあります。
第一に、どうやら私の家族の避難は、近所中の話題になっているらしいということ。現に、私がその夫婦とまともに言葉を交わしたのは、後にも先にもその時だけでした。二人は明らかに、私が事故後に一人暮らしを始めたことを知っていて声をかけてきたのです。彼らの口調に他意はなく、私に心から同情を寄せているようでした。そのことでかえって、私の気分は落ちこみました。
第二に考えたのは、私が妻子と離れて暮らしてきたことの是非についてでした。「ここまでしなければならなかったのか?」という問いが、改めて首をもたげてきたのです。これは、原発事故以降、私のなかで何度となく浮上してきた問いでもありました。
――本当にここまでしなければならなかったのか? 自分は妻と、切り刻みあうような言葉の応酬をしてまで、離ればなれでいるべきだったのだろうか?
けれども、この問いはいつでも曖昧な旋回を経た末に、「これはこれでやむをえなかった」という納得とも諦めともつかない答えに行きつくのでした。もちろん、一定の諦めが混入している以上、そこには突き詰めていけば、一度は確定したはずの答えを宙吊りにしかねないような、不穏な感触も残っていたのですが。
きっと、私がくりかえし同じ問いを自問し、くりかえし同じ答えを反芻してきたのも、その独特の感触への不安を拭えなかったからなのでしょう。
ある時の私はこう考えていました。「自分がそのつど出してきた避難の継続という暫定的な結論は、その時々に応じた根拠があったのだ」と。
実際、二〇一一年六月末には、Eの出産がありました。その数か月後には、妻が私の義父宅を出て、少し離れた界隈のアパートに引っ越しました。しばらくすると、妻がKの影響でキリスト教の一派に入信し、ふたりとも相次いで洗礼(バプテスマ)を受けました。その過程で、教会と併設されたM保育園の園長先生から信頼を得て、妻は学童保育の仕事を任されるようになりました。Kが小学校に進学すると、周囲からの手厚いサポートを受けながら、PTAの仕事を務めることにもなりました。
「つまり」と私は自分に言い聞かせるのでした。「妻とKとEは、避難先にどんどん根を下ろしていった。その間、甲信越よりも西に移ることを考えて、自分はいくつもの公募に応募し、次々に落ちた。こういうプロセスが積み重なるなかで、沖縄からの『帰還』のタイミングを逸してしまった。これはこれでやむをえなかった」
ところが、ある時の私はその心の傾きを全面的にくつがえしていました。「本気で家族を戻そうと思えば、できないことはなかったはずだ」と。
実際、妻はあの事故の発生した直後からずっと、避難という選択に反対しつづけていました。妻の主張によれば、熱に浮かされたように「逃げるんだ! 逃げるんだ!」と口走る私を落ち着かせるためにこそ、一度は自分を曲げて沖縄に飛んだだけだというのです。Eの出産後も、義父宅を出る前後も、キリスト教の信仰を持つようになってからも、妻はくりかえし私に詰め寄ってきました。
――ねえ、教えて。私たちはいつになったら帰れるの? あなたの頭のなかでは、私たちが帰れる日はいつなの?
当人がこれほど戻りたがってきたのですから、私さえフンギリをつければ、いくらでも可能だったはずなのです。
このような堂々めぐりの果てに思い返すことは何かと言えば、東北と北関東が放射能で汚染されていること、その汚染によって私自身の人間関係に変容が生じたことでした。
2011年10月に始まったこの連載も、今回が最終回となりました。5年以上にわたる連載の月日は、そのまま原発事故避難の時間と重なります。「最終回」を迎えても、いまも多くの人たちが全国で避難生活を続けているという現実は変わっていません。一人ひとりの生活を大きく変えた原発事故。それから5年半、私たちは何かを変えることができたのでしょうか。