5)
私はずいぶんと長い間、妻とKが残していった家具、衣服、オモチャなどを律儀に保存していました。掃除の際には脇にどけることもありますが、後で必ず、元通りの場所に戻していました。いつの日か、彼女たちが宇都宮に帰ってきた場合を考えてのことでした。
一方、後述するような事情がいくつか重なって、家族の沖縄避難はずるずると長引いていきました。そのような形で時間が過ぎれば過ぎるほど、妻も子どももいない宇都宮の自宅は、事故前の思い出だけが充満するようになりました。仕事を終えて帰宅するたびに、私のアパートはKと妻がいた頃と変わらぬ姿で、私を迎えてくれました。
毎日の一定時間、そのような空間に身を置くことで、私は次第に世間の時間の流れから取り残されていきました。もちろん、職場では平常通りの時間を過ごしていましたが、自宅ではそこから隔絶し、かたくなに事故前の思い出にしがみつこうとしたのです。このように振り返ってみると、私がこの時期に執着していた記憶の「保存」は、やはり病的だったと思います。
もっとも、人間は良くも悪くも、どこかにいい加減さを宿した生き物です。だから、当時の私のように意固地を通すことは、遅かれ早かれその限界をあらわにしていたのかもしれません。
そのような限界が外発的な原因で明らかになったのは、私にとって良いことでした。要するに、妻やKから「あれ送って」、「これ持ってきて」と再三にわたって催促されたのです。彼女たちの生活に必要なものである以上、自分の手元に保持しておくことはできません。私は仕方なく、さまざまな記憶を留めていた室内空間を切り崩していくことになりました。
Kの誕生祝いにもらったスイス製の積み木。毎晩いっしょに読んだたくさんの絵本たち。アキちゃん、ウサコちゃん、プーさんなど、Kが大切にしていた人形たち。彼女の強い要望もあって、これらのものは、私のアパートから一つひとつ消えていきました。
妻のスーツや衣服全般、料理道具や台所用品、原発事故前に描きためていた大量のスケッチ、そして絵や彫刻を制作するための、いくつもの道具箱。こうした品々も、少しずつ歯が欠け落ちるように消えていきました。
結果として、衣装ダンスやカラーボックスはすかすかになりました。リビングに置いていた絵本用の本棚も隙間が目立つようになりました。私が書斎として使ってきた四畳半以外は、どの部屋もガランドウのようになっていました。
ある日、そのことに気づいて愕然としたときの感覚は、はっきりと覚えています。曖昧な夢から覚めてみると、自分がどこか見知らぬ場所で暮らしていたことにびっくりした――オーバーに聞こえるかもしれませんが、言ってみればそういう気分でした。
ところで、私が直後にとった行動は、以前にも増して病的でした。まだかろうじて自宅に残っていた妻やKの私物を、片っ端から捨てはじめたからです。
――どうせ一人で暮らしてくんだ! ぜんぶ消去してやる! ここに家族がいた痕跡もゼロにしてやる! さぞかし、せいせいするだろう!
私はおおむねそんなことを考えていたように思いますが、なぜそのように滅茶苦茶な気分になったのかと言えば、正直うまく説明できません。自分でも抑えようのない禍々しいものが、体内の最も奥まった場所からどろどろと噴出してきたのです。
私は家族との思い出の品々を、無我夢中でゴミ袋に放りこんでいきました。のみならず、長年大切にしてきたCDや、やっとのことで手に入れた研究書に至るまで、手当り次第に処分しはじめました。最後は勢いあまって、衣装ダンスやカラーボックスも粗大ごみに出してしまったのです。たぶん、その行動はブレーキの効かなくなった車のように危なっかしいものだったはずです。
当然ながら、その反動はすぐにやってきました。入居直前の引っ越し先のように静まり返った自宅の光景を眺めているうちに、私は我に返りました。
――しまった! やらなきゃよかった!
すべては後の祭りでした。私は、自分の手でつくりだした目前の結果に衝撃を受け、しばらく塞ぎこんでいました。
そうこうするうちに、妻とKから「あれ送って」、「これ持ってきて」という催促が再びやって来ました。私が経緯を打ち明けると、ふたりは本気で怒ってしまいました。私はひたすら謝るほかありませんでした。
しばらくすると私は、妻とK、さらにはEからさえも、「ステキチトーサン(捨吉父さん)」という呼び名をつけられました。なにか物が見当たらなくなるたびに、「犯人はステキチトーサンじゃない?」と言われることになったのです。その状況は今もつづいています。
2011年10月に始まったこの連載も、今回が最終回となりました。5年以上にわたる連載の月日は、そのまま原発事故避難の時間と重なります。「最終回」を迎えても、いまも多くの人たちが全国で避難生活を続けているという現実は変わっていません。一人ひとりの生活を大きく変えた原発事故。それから5年半、私たちは何かを変えることができたのでしょうか。